第十三章 ルナリアの言葉
王家の書庫は王宮の奥まった場所にあった。
重い木の扉を開けると、古い紙と革の匂いが漂ってきた。
天井まで届く棚に無数の本と巻物が並んでいた。
小さくて光が少ない分、棚の間に魔法の灯りがいくつも灯されていて青白い光が静かに揺れていた。
凪沙は思わず足を止めた。
「すごい」
「王家が何百年もかけて集めたものだ。ほとんどは歴史書だが、神話や魔法に関する文書もある」
ノクスが淡々と説明した。
でも、この場所が好きなのだろうと凪沙には分かった。
歩き方が、廊下とは少し違う。
丁寧で、静かで、大切に扱っているような歩き方だった。
ノアはすでに来ていた。
棚の前にしゃがんで、背の低い棚の端から文書を引っ張り出しているところだった。
「ありました」
ノアは顔を上げずに言った。
手に持っているのは、薄い革の表紙がついた古い文書だった。
表紙に何かが書かれていたけれど、凪沙には読めない文字だった。
「《ルミナの鏡》に関する最古の記録です。神官が書き写したものが何代にもわたって続いていて……一番古い部分は、おそらく千年以上前のものです」
ノアは文書をそっと開いた。
紙が乾いた音を立てた。
几帳面な字が、縦に並んでいた。
ノアはしばらく目を走らせて、ある一節で指を止めた。
「ここです。鏡の縁に刻まれた文と同じ書き出しがある」
凪沙とノクスが覗き込んだ。
ノアが声に出して読み始めた。
「『持つ者よ、これを読む時が来たなら、世界はまた揺らいでいる。ティアの光は弱まり、境界は薄くなり、鏡はふたたび扉を開いただろう。あなたはそのために選ばれた。しかしこれは命令ではない。あなたには選ぶ自由がある。世界を救うことも、ただここにいることも、帰ることも。鏡はどの選択も否定しない。ただ、あなたが選んだ道を照らすだけだ』」
書庫が、静かになった。
凪沙は息をしていたと思うけれど、していなかったかもしれなかった。
その言葉が、胸の奥の深いところへ真っすぐに落ちていった。
「……誰が書いたの、これ」
やっと声が出た。
「文書の末尾に署名があります」
ノアが最後のページを開いた。
そこに一つの名前が書かれていた。
「ルナリア、と」
凪沙はその名前を声に出さずに繰り返した。
ルナリア。
聞いたことのない名前だった。
「ルナリアって、誰?」
ノクスが答えた。
「歴史書に名を残す聖女だ。鏡の聖女よりさらに昔の人物で……詳しいことはほとんど分かっていない。ただ、女神ルミナに最も近い場所にいた人間だと言われている」
「女神に最も近い……」
「彼女の残した言葉がいくつか文書に残っているが、どれも謎めいていて。解読しようとした神官が何人もいるけれど、完全に理解できた者はいないと聞いています」
ノアは、眼鏡の奥の目が静かに輝いていた。
「でも今日読んだこれは……謎めいていない。むしろ驚くほど直接的です」
凪沙は文書をもう一度見た。
ノアの指が当てている一節を、もう一度読んだ。
あなたには選ぶ自由がある。
胸の中で何かが緩んだ気がした。
ずっと「聖女として役割を果たさなければならない」という重さがどこかにあった。
でもルナリアはそう言っていない。
選ぶ自由がある、と言っている。
帰ることも、否定しないと。
「凪沙」
ノクスの呼び声に凪沙は顔を上げた。
「この言葉は……お前を縛るものじゃない。そう受け取ってくれ」
まっすぐな目だった。
凪沙が重く受け取らないように、と気にしているのが伝わってきた。
「うん、分かった」
凪沙は、その言葉に少し肩の力が抜けた。
ノクスは少しほっとしたような顔をして、また文書に目を向けた。
「他に鏡に関する記述はあるか、ノア」
「まだ全部は読めていませんが……一つ、気になる部分があります」
ノアがページをめくり別の一節に指を当てた。
「『鏡は一つの涙を映す。だがティアもまた、一つの涙に過ぎない。女神が流した涙は、世界のいくつかの場所に眠っている。すべてが集まる時、女神は帰る』」
凪沙はノクスを見た。
「涙が、他にも眠っている……?」
「神官の間にそういう言い伝えがある。ただ、これまでは伝説の域を出なかった」
ノクスは静かに言った。
その声の奥に何かが動いた気配があった。
「でも今この文書を読むと……ただの言い伝えではないかもしれない」
「ということは、ティアが弱まっているのは他の涙晶が欠けているからということ?」
「まだ断定はできません」
ノアが慎重に言った。
「でも、一つの仮説として考える価値はある。ティアを補強するために失われた涙晶を探す。その手がかりが、この文書のどこかにあるかもしれない」
書庫の魔法の灯りが、ゆらりと揺れた。
青白い光が棚の間を流れて古い文書の背表紙を照らした。
凪沙は手の中の鏡を見た。
鏡面に書庫の光が映っていた。
青白いティアと同じ色の光が。
鏡は一つの涙を映す。
その言葉の意味が、まだ完全には分からなかった。
でも、何かの始まりに立っている気がした。
祖母が歩いたのと同じ道の同じ入り口に。




