第十二章 鏡の中の声
ノアが鏡を本格的に調べ始めたのはノクスから頼まれた翌日からだった。
中庭のベンチに二人で座って、ノアは手帳を膝に置き、鏡を凪沙の手の中に収めたまま、じっと観察していた。
触れはせず、ただ見るだけ。
その集中の仕方は、前回と同じだった。
「今日は少し違う角度から見てもいいですか」
「どうぞ」
「鏡を、開いてもらえますか」
凪沙は少し迷ってから蓋をそっと開いた。鏡面が朝の光を受けて、白く輝いた。
自分の顔が映っている普通の鏡に見えた。
でもノアは鏡面ではなく蓋の内側を見ていた。
「……これ」
ノアが眼鏡を押し上げて、少し身を乗り出した。
「何か刻まれていませんか。鏡面の縁の部分」
凪沙は鏡を傾けて、光の角度を変えながら見た。
最初は何も分からなかった。
でも光の当たり方を変えると、縁に沿って細かい何かが見えた。
文字、というより文様のようなもの。
でも見慣れない形だった。
「……あります。でもこれは何ですか?」
「古い言語です。ルクセリアでも今はほとんど使われていない。神官の中の一部だけが読める」
「何て書いてあるの?」
「私には読めません。でも……」
ノアは手帳に何かをさらさらと書き写しながら続けた。
「この文様、王家の古い文書に出てくるものと似ています。《ルミナの鏡》に関する記述の中に。意味は確か……『持つ者よ、これを読む時が来たなら』という書き出しだったと思います」
凪沙の手が、少し止まった。
「持つ者よ、これを読む時が来たなら……この続きは古文書の中にあるはずです。王家の書庫に。でもその文書、長い間誰も開いていないと聞いています」
凪沙は鏡の縁を見つめた。
細かすぎて、指で触れても分からない。
でも確かにそこにある。
いつ刻まれたのだろう。
鏡が作られた時から?それとも、誰かが後から刻んだのだろうか。
「おばあちゃん」
祖母のことがふと心に浮かんだ。
でも祖母の千鶴がこんな古い言語を知っているはずがない。
違う。もっと昔の誰かが。
「ノアさん、その古文書を見られますか?」
「殿下に許可を取れば。書庫は王家管理なので」
「お願いしてみます」
ノアは頷いて、また手帳に目を落とした。
しばらく黙って何かを書いていたけれど、やがてぽつりと言った。
「一つ、気になっていることがあります」
「何ですか?」
「鏡はずっと閉じられていたはずなのに、縁の文様は摩耗していない。何百年も経っているのに、新しく刻まれたみたいに鮮明で」
凪沙は鏡をもう一度見た。
言われてみれば確かに銀細工の他の部分は少し古びた感じがするのに、縁の文様だけが妙に鮮明だった。
「どういうこと?」
「鏡自身が、それを守っているのかもしれません。読まれるべき時のために」
鏡が読まれるべき時のために文様を守っている。
それはつまり、今がその時に近づいているということだろうか。
✦ ✦ ✦
昼になってノアが書庫へ向かい、凪沙は一人で中庭に残った。
鏡を両手に持って縁の文様をもう一度見ようとしたけれど、光の角度が変わっていて今度は見えなかった。
背後から規則正しい、迷いのない足音が聞こえた。
きっとカインだろう。
「一人ですか」
「ノアさんが書庫に行って。カインさんはいつもどこかで見てるんですね」
「護衛なので」
カインはベンチから少し離れたところに立った。
座ることはしなかった。
でも去ることもしなかった。
二人の間に沈黙が続いた。
鳥の声がして、噴水の水音がした。
「鏡に何か見つかりましたか」
カインが珍しく聞いてきた。
こちらから話しかけるより先にカインの方から言葉が来るのがあまりないので、なんだか嬉しい。
「縁に古い文字が刻まれてました。ノアさんが王家の書庫に関係する文書があるかもって」
「……そうですか」
カインは少し間を置いてから、続けた。
「鏡のことで、殿下に何か頼みましたか」
「書庫の許可を取ってほしいと思ってて、これからお願いしようとしてた」
「直接言えばいい。殿下はあなたの頼みを断りません」
言い切ったカインに凪沙は驚いた。
カインは相変わらず前を向いていたけれど、その横顔は最初の頃の値踏みするような固さがなくなっていた。
「……カインさん、最近優しくなりましたね」
「なっていません」
「なってます」
「……」
カインは否定も肯定もしなかった。
でも、耳が少しだけ赤くなっていた。
ノクスとよく似た反応だと思って凪沙はこっそり笑った。
✦ ✦ ✦
夕方、ノクスに書庫の許可を頼むと即座に頷いた。
「明日の朝、一緒に行こう」
「忙しくない?」
「凪沙の鏡のことだ。俺も気になる」
それだけ言ってノクスは少し目を逸らした。
気になる、という言葉が思ったより素直に出てしまったのか少し照れているように見えた。
凪沙はその夜、部屋に戻ってから鏡をもう一度手に取った。
蓋を開いて、縁を見た。
今夜は月明かりが差し込んでいて、その光の中で文様がうっすらと見えた。
細くて、小さくて、でも確かにそこにある文字たち。
持つ者よ、これを読む時が来たなら。
続きは何だろう。
誰が刻んだのだろう。
そしてこれは、今の凪沙に向けられた言葉なのだろうか。
鏡は答えなかった。
でも手のひらの中で、かすかに温かかった。
まるで「もうすぐ分かる」と言っているみたいに。




