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高校生、うっかりマズローを論破してしまう  作者: シンリーベクトル


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優位を渡すタイミング



その日、坂井は放課後になっても部室に姿を見せなかった。

いつもは時間ぴったりに来る彼女の欠席が、胸に小さな棘を残す。


「ちょっと様子、見に行かない?」

佐伯の提案に、俺と山本、西村は頷いた。


⸻


帰り道を遠回りして、坂井の家の近くに着くと、門の前に彼女が立ち尽くしていた。

中からは荒れた怒鳴り声。壁越しでも刺さる、硬い音。


「……父が、母に怒ってます」

その声は震えていた。


山本が小声で言う。

「今、入ったら危ない」


俺は坂井の耳元で囁く。

「とりあえず距離を保つんだ。

でも、この後、必ず“優位を渡すタイミング”を作れ」


⸻


数分後、怒鳴り声は途切れ、家の中に静けさが落ちた。

坂井はゆっくりと門を開け、俺たちは少し離れた場所から見守る。


リビング前を通りかかったとき、父の低い声が飛んだ。

「お前、何か言いたいのか」


空気が一瞬で冷たくなる。

坂井は目を伏せ、一拍置いてから答えた。

「自転車のブレーキの音が変なんです。直してもらえますか」


父の眉がわずかに動き、声色が変わる。

「……工具持ってこい」


⸻


庭での修理。

父は手を動かしながら、専門的な用語を交えて説明する。

坂井は相槌を打ち、時々質問を投げる。

さっきまでの怒声が幻だったかのように、やり取りの温度はゆっくりと上がっていった。


作業が終わるころには、険しさは跡形もなくなっていた。


⸻


翌日、部室。

坂井は柔らかな表情で報告した。

「昨日は危なかったけど……“優位を渡すタイミング”を作ったら、落ち着きました」


西村が頷く。

「物理で言えば、衝突直前に力の向きを変えて、反発を回避したってことだね」


俺は短くまとめる。

「防衛欲求で身を守り、相手の地位欲求を満たす。

その切り替えの瞬間こそ、摩擦を最小化する鍵だ」


佐伯がにっこり笑い、勢いよく両手を打ち合わせた。

「じゃあ、この作戦の名前は……“タイミング・ブレイク”に決定っ!」


謎のハイテンションに俺は碇ゲンドウのポーズで

「勝ったな」とこれまた謎のセリフを返すのが精一杯だった


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