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AIが変えた世界で、僕らはもう一度働き始める  作者: 北野風人
『仕事を失った日』

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第4話 退職予定者への依頼

「林遠さん。東都精機から、あなたを指名してきています」


 陳凱にそう言われたとき、林遠は思わず顔を上げた。


「私を、ですか?」


「ええ。昨日の技術照会について、追加調査をお願いしたいそうです」


 午前九時十五分。


 会議室の窓から、研究開発センターが見えた。


 来月には、河図の新しい運用チームがあの建物へ移る。


 林遠も、少し前までは自分がその一員になると思っていた。


 今は違う。


 来月末で雇用契約が終わる。


 そのことは、もう決まっていた。


「調査の内容は?」


「旧制御器の変換仕様です。先方は、当時の確認担当者に直接説明してほしいそうです」


「それなら、対応できます」


 林遠は即答した。


 陳凱は、すぐにはうなずかなかった。


「ただし、引き継ぎ業務の一部としてです」


「分かっています」


「今回の件で、部署の再編方針が変わるわけではありません」


 林遠は黙った。


 陳凱は書類を一枚めくった。


「誤解してほしくないので、先に伝えておきます」


「……はい」


 十年以上、同じ会社で働いてきた。


 その会社は、林遠の仕事をなくすと決めた。


 そして今、その仕事の一部を頼もうとしている。


「調査範囲は、まだ確定していません」


 陳凱が続けた。


「まず、技術的に何が確認できるか整理してください。資料の外部提供は、必ず承認を取ること」


「承知しました」


「それと、林遠さん」


「はい」


「必要以上に調査を広げないでください。先方の設備が止まっているからといって、こちらの変換仕様に問題があったとは限りません」


「もちろんです」


「では、お願いします」


 林遠は立ち上がった。


 会議室を出ようとしたとき、陳凱が言った。


「先方の佐藤さん、あなたの説明が分かりやすかったそうです」


 林遠は足を止めた。


「そうですか」


「技術者同士だと、話が早いんでしょうね」


 陳凱はそれだけ言って、次の会議資料を開いた。


 林遠は廊下に出た。


 自分の仕事はなくなる。


 それでも、自分に聞きたいことがある人はいる。


 そのことが、少し不思議だった。


     *


 席に戻ると、小趙が資料をまとめていた。


「昨日の二つの項目、河図にも対応関係を追わせてみました」


 林遠は解析利用が認められた領域を開いた。


『軸補正指令値と実行軌道偏差は、同一の物理量ではありません』


『現行処理での解釈の妥当性:資料不足により未判定』


 参照資料と、欠けている旧ファームウェア別の補足が並んでいる。


「単位の検査は通っています。でも意味の方は、確認できていないそうです」


 小趙が言った。


「整理が早いな」


「表を一枚ずつ開いていたら、今日も終わりませんよ」


 林遠は処理図を拡大した。


 河図が示した欠落箇所には、古い改訂番号が付いていた。


 数値変換の試験はある。


 元の値を何として使うかを確認した記録は、今の資料だけでは追えない。


「この番号の参照資料を探そう。俺は管理担当に聞く。小趙は電子アーカイブを頼む」


「見つからなかった範囲も残しますね」


「ああ、頼む」


     *


 正午前、陳凱は調査メモを読んだ。


「この段階で回答できることは?」


「二つの値は同じ意味ではないこと。それと、現在の処理が適切かは補足資料を見ないと判断できないことです」


「調査はどれくらいかかる」


「まず半日で、所在と不足資料を整理します」


 陳凱は時計を見た。


「正式な作業範囲は先方と詰める。今日はその準備までで進めてくれ」


 林遠はうなずいた。


 会議の予定表に、新しい枠が入った。


     *


 午後二時過ぎ、東都精機から限定調査の見積依頼が届いた。


 定義、改訂履歴、比較方法。


 担当希望欄には林遠の名前がある。


 林遠は作業ごとに必要時間を書き込んだ。


 費用を受け取るのは会社だが、先方は調査に予算を使うと決めている。


 陳凱から連絡が来た。


『見積と範囲を確認する。承認後はお前に担当してもらう』


 林遠は作業表を保存した。


     *


 午後四時、佐藤から依頼送付の連絡が届いた。


 林遠は、旧設備の保管状況も確認してほしいと返信した。


 紙の設定表や装置に貼られた注意書きが、電子資料の欠落を埋めることがある。


『倉庫の記録を調べます』


 短い返事だった。


 林遠は確認先の欄に、佐藤の名前を加えた。


     *


 午後五時前、林遠は引き継ぎ説明会の予定を陳凱へ送った。


「調査が始まると、同じ時間にはできません」


 これまでは、二つとも残業で済ませていた。


 今度もそうすれば、引き継ぎが終わるまで、家で過ごす時間は増えそうになかった。


「説明会を一日ずらせるか、後任に聞いてくれ」


 陳凱は予定表を開いた。


「調査の工数は、その分も含めて出していい」


 後任からは、文書を先に読めれば翌日で構わないと返事が来た。


 林遠は資料を共有し、時間変更を確定した。


 小趙が隣で言った。


「全部、今日じゃなくてもよかったんですね」


「先に聞けばよかったな」


 林遠は帰宅時刻を葉寧へ送った。


 まだ調査の結果はない。


 自分の予定を、その仕事に合わせて組み直すことはできた。


     *


 夜。


 林遠が家に帰ると、食卓に家計簿が広げられていた。


 葉寧が電卓をたたいている。


「おかえり」


「ただいま」


「今日は遅かったね」


「少し仕事が増えた」


 葉寧が顔を上げた。


「仕事?」


「ああ。東都の会社から、調査の依頼が来た」


「昨日話してたところ?」


「そう」


「あなたに?」


「正確には会社に。でも、担当者として俺の名前が指定されてる」


 葉寧は電卓を置いた。


「それで、会社に残れるの?」


 林遠は首を振った。


「いや。それは変わらない」


「そう……」


 葉寧は少し黙った。


 林遠は椅子に座った。


「会社としては、退職までの引き継ぎ業務の一つだ」


「じゃあ、仕事が増えただけ?」


「まあ、そうなるな」


 葉寧は家計簿を閉じた。


「でも、あなたに頼みたいって言ってくれる人がいたんだね」


 林遠は妻を見た。


「……そうだな」


「それは、悪いことじゃないと思う」


 台所から、牛乳を飲んでいた林一舟が顔を出した。


「父さん、明日は早く帰れる?」


「どうした?」


「算数の問題、見てほしいんだ」


「AIに聞けばいいだろ」


 言ってから、林遠は自分で笑ってしまった。


 林一舟は不満そうな顔をした。


「AIにも聞いたよ。でも、父さんの説明の方が分かるときもある」


 葉寧が笑った。


「ほら。ここにも、あなたを必要としてる人がいる」


 林遠は息子を見た。


「分かった。明日はなるべく早く帰る」


「約束だよ」


「ああ」


 林一舟は満足そうに部屋へ戻った。


 葉寧は家計簿を開き直した。


「じゃあ、こっちも続けよう」


「まだやるのか」


「当たり前でしょ。仕事が増えたって、来月の収入が決まったわけじゃないんだから」


「……そうだな」


 二人は、もう一度数字を見始めた。


     *


 夜九時半。


 林遠は翌日の作業をメモにまとめた。


 正式な追加調査が始まるまで、準備できることを分けておく。


 通知欄に、夕方送られた佐藤のメッセージが残っていた。


『当時の制御器が一台、倉庫に保管されているようです。明朝、管理担当の立ち会いで確認します』


 同じころ、資料管理窓口からも連絡が届いていた。


 探している補足定義資料には電子ファイルがなく、原本保管先を確認しているという。


 林遠は手帳に、旧制御器の型式と補足資料の番号を書いた。


 この二つが対応するとは、まだ限らない。


 現物を見てもらう価値はあった。


 居間で、一舟が明日のノートをそろえている。


「父さん、算数、忘れないでね」


「覚えてる」


 林遠は明日の予定の下に、もう一つ書き足した。

お読みいただき、ありがとうございます。

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