第3話 海の向こうの技術者
「佐藤さん、部長から催促が来てます」
午前八時七分。
佐藤健一が制御室に入ると、村瀬が端末を持って駆け寄ってきた。
「九時の会議ですよね」
「はい。それまでに再開の判断根拠を出してほしいそうです」
「昨日の報告書は?」
「読んだそうです。そのうえで、です」
佐藤は上着を脱ぎ、椅子に掛けた。
窓の向こうでは、三号機が昨日と同じ姿勢で止まっていた。
三日間の連続稼働試験。
その最終日、午前九時四十二分に停止した。
途中まで積み上げた試験時間は、もう使えない。
再開が認められても、正式な連続稼働試験は最初からやり直しになる。
「昨日のログ、整理できたか」
「はい」
村瀬は画面を開いた。
「従来の教示軌道では、三回とも異常音なし。AI補正を入れた低速試験では、三回中一回、手首軸から音が出ています」
「電流は?」
「そのときだけ、比較した動作より二・八パーセント高くなっています。ただし、許容範囲内です」
「速度指令の変化は?」
「残っています。手首を返す直前です」
佐藤はうなずいた。
昨日、最初にその変化を見つけたのは村瀬だった。
「よく整理できてるな」
「昨日、佐藤さんが帰ったあと、もう一度見直しました」
「遅くまで残ったのか」
「少しだけです」
村瀬は画面から目を離さなかった。
「……僕も、理由が分からないまま試験を止めた人にはなりたくないので」
佐藤は何も言わず、もう一度グラフを見た。
村瀬の言うことはもっともだった。
停止を決めたのは佐藤だ。
だが、実際に試験を中断し、記録を取り、再開の判断を待つのは現場の人間たちだった。
その負担を、佐藤一人の判断だからという理由で済ませるわけにはいかない。
*
九時の会議で、佐藤は再開保留を求めた。
「従来の教示軌道では音は出ていません。補正を入れたときだけ再現しました。ただし、補正が原因だとはまだ言えません」
品質保証の担当者が、比較条件を確認する。
製造部からは、第二ラインへの振り替えをいつまで続けるのかと問われた。
「今日中に、旧データの定義を確認できる相手を探します。並行して保全にも、詳しい点検の枠を相談します」
大野は予定表に目を落とした。
「夕方までに調査計画を。製造部への説明には、私も入ります」
会議室を出ると、村瀬が資料を抱えて待っていた。
「次は?」
「旧仕様だ。昨日の林遠という人まで、つながるかもしれない」
*
午前十時二十六分。
資料室で、村瀬が旧仕様と現行説明を並べた。
旧項目は『補正指令値』。
今の説明は『軌道偏差の補正量』となっている。
「片方は指示、片方は動いた結果に見えますね」
「途中の処理も確かめよう。名前だけ変わった可能性もある」
旧仕様の注記に、数値の一致は意味の一致を保証しないと書かれていた。
確認者は林遠。
村瀬は昨日の照会番号を開いた。
「最初の連絡は窓口で受け付けられています。型式と確認項目を追加して送れます」
「同じ案件として追記しよう」
現場の生データは添付せず、共有可能な仕様番号と項目名だけを送った。
受付番号は昨日のものと結びついた。
*
瀾華時間、午前十一時。
林遠は自分の席で、引き継ぎ一覧を開いていた。
昨夜、古い案件の問い合わせを見つけてから、気になっていたことがある。
自分が担当を離れたあとに追加された変更履歴。
その更新理由が、一覧だけでは分からなかった。
「林さん」
小趙が隣から声をかけた。
「午前中に来てた問い合わせ、見ました?」
「東都精機の件か」
「はい。正式な照会として、こっちにも回ってきました」
林遠は画面を切り替えた。
会社の技術照会システムに、追記の通知が表示されている。
問い合わせの内容は、昨夜見たものより具体的だった。
旧制御器の型式。
変換仕様の管理番号。
補正量の定義。
林遠は一行ずつ読んだ。
「……やっぱり、そこか」
「何か分かるんですか」
「まだ何とも言えない。ただ、昔、似た問題で確認した記憶がある」
「河図に調べさせます?」
「まずは、元の仕様書を見よう」
林遠は社内アーカイブを開いた。
河図は関連文書をすぐに一覧表示した。
ただし、古い資料には画像化されたものもあり、文字の認識結果だけでは不十分だった。
林遠は原本の表示を開いた。
そこには、自分が当時書いた注記が残っていた。
『補正指令値と実測偏差を同一項目として扱わないこと。』
林遠は画面を見つめた。
「……これだ」
小趙が身を乗り出す。
「同じ数値でも意味が違うってことですか」
「可能性がある。ただ、今の変換処理がどうなっているかは確認が必要だ」
林遠は照会の担当部署を確認した。
この案件は、現在の自分の担当業務には含まれていない。
退職予定者が、個人の判断で外部に資料を送ることもできない。
林遠は上長の陳凱へ確認依頼を送った。
『旧制御器の変換仕様について、東都精機から正式な技術照会が届いています。当時の確認担当者として、社内資料の照合に協力可能です。外部回答の範囲について、ご判断をお願いします。』
申請を送ると、引き継ぎ一覧へ戻った。
回答を待つ間にも、片づける仕事はある。
*
東都時間、午後一時四十分。
雲衡の正式窓口から、林遠が在籍しているとの返信が届いた。
共有範囲は、旧仕様の定義確認まで。
本日十四時から短い通話ができるという。
佐藤は会議室へ移り、村瀬と資料をそろえた。
時刻になると、卓上の共訳端末が点灯した。
今回は音声と資料だけの接続だった。
「林遠です。よろしくお願いいたします」
相手が母語で話し終えると、端末から日本語の訳音声が流れた。
佐藤の発言も、相手の言語に訳して届く。専門用語は画面にも残る。
「佐藤です。急な照会にご対応いただき、ありがとうございます」
「まず、項目名を確認させてください」
林遠は旧仕様の欄を示した。
「軸補正指令値。機械へ出した指示であって、実際の動きを測った値ではありません」
「こちらの現行説明は、実行軌道の偏差です」
「それなら、間にどんな解釈や変換があるかを見る必要があります。項目名だけで、誤変換とは決められません」
村瀬が二つの用語を端末へ登録した。
林遠も表示を確認する。
「この訳で合っています。数値を扱うときは、単位も一緒に残してください」
「承知しました」
佐藤は異常音と電流変化を、共有可能な範囲で説明した。
「そのデータが原因だと、お考えですか」
林遠が聞いた。
「候補の一つです。今は、音を説明できていません」
「では、こちらは元の定義を調べます。実機側の条件は、佐藤さんに確認していただけますか」
「お願いします」
向こうで紙をめくる音がした。
「昔、同じ単位だからと、違う値を一つにまとめかけたことがありました」
「止められたんですか」
「現場の人に。指示した分だけ動くなら、調整はいらないだろう、と」
佐藤は笑った。
訳音声が終わるまで少し待つと、林遠も笑った。
村瀬が旧ファームウェアの資料を示した。
「こちらで足りないのは、この版の補足です」
「社内で所在を確認します。追加調査になる場合は、会社間で作業範囲を決めてください」
通話が終わった。
佐藤は報告書の確認先に、林遠の名前を入れた。
十四時二十六分。
村瀬は現行処理の参照先を調べ始めている。
「指令と実測を、別に追います」
「ああ。俺は保全へ行ってくる」
朝には名前しか知らなかった相手と、仕事を分けられた。
佐藤が資料を閉じようとすると、林遠から確認用の一覧が届いた。
末尾に、旧仕様と現行版をつなぐ改訂番号がある。
その番号だけ、工場の一覧には載っていなかった。
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