第37話 最後の出勤日
新しい契約用の画面に、赤い文字が出た。
〈参照先にアクセスできません〉
林遠は、マウスを持つ手を止めた。
基本教材は開ける。部品の形も見える。だが、検証用のデータを読み込もうとすると、そこで止まる。
画面の右上には、アカウントの切り替えボタンがあった。
社員用なら、開けるはずだった。
手がそちらへ動きかけ、止まった。
今日で、使えなくなる。
林はエラーの詳細を開いた。
教材は契約用の領域へ移されている。参照先だけが、社内の古いフォルダを指していた。
昨日の接続確認では、教材が開くところまでしか試していない。
林は記録を取り、陳凱に送った。
〈新しい環境だけでは、検証を最後まで通せません。参照先の確認をお願いします〉
返事はすぐに来た。
〈担当につなぐ。移行確認として今日中に一度通そう〉
林は社員用の接続を切り、同じ操作をもう一度試した。
やはり、赤い文字が出た。
その画面を残したまま、椅子を引いた。
窓の向こうで、通勤バスから人が降りていた。
いつもと同じ朝だった。
***
小趙が来たのは、十時になる少し前だった。
端末を脇に抱え、紙袋を差し出した。
「皆さんからです」
林が中をのぞくと、よく昼休みに買っていた店の焼き菓子が入っていた。
「甘くないものにしようって話もあったんですけど」
「それで?」
「僕が食べたいものになりました」
「一つ持っていけば」
「もう、もらいました」
林は笑った。
小趙も笑い、それから端末を開いた。
引き継いだ検証作業の一覧だった。完了の印に交じって、一件だけ黄色い表示が残っている。
「これ、保留にしました」
林は記録を読んだ。
入力条件が一つ足りない。確認先と、再開に必要な情報が書かれていた。
「推測すれば動きます。でも、その結果を合格にはできないので」
「うん」
林は続きを読んだ。
自分ならこう書く、と思う箇所はあった。
けれど、次の担当が困るほどではない。
「これで引き継げる」
小趙の肩が少し下がった。
「林さんに、最後に見てもらおうと思って」
「確認先から返事が来たら、そっちを優先して。僕の記憶より確かだから」
「はい」
画面を閉じると、二人の間に短い沈黙が落ちた。
隣の席では、誰かが会議用のイヤホンを探していた。
小趙が時計を見た。
「十一時から、新しい部署で説明があるんです」
「もう行ったほうがいい」
「まだ少し——」
「移動して、席を探す時間もいるだろ」
小趙は端末を抱え直した。
「お世話になりました」
林は、うなずいた。
何か言おうとして、ありきたりな言葉しか浮かばなかった。
「向こうでも、元気で」
「はい。林さんも」
小趙は通路へ出た。
途中で同僚に呼び止められ、何か答えて笑った。そのまま、エレベーターのほうへ歩いていく。
林は紙袋を机の横に置いた。
黄色い保留表示は、もう自分の画面にはなかった。
***
陳凱との面談では、二つの書類を確認した。
退職の手続き。
そして、翌日から有効になる業務委託契約。
「朝の件は、リンクの更新漏れだった」
陳凱が言った。
「契約で使えるデータかどうかは、担当が確認した。許可のあるものだけ移して、参照先を直す」
「修正後に、新しい環境だけで通します」
「頼む。今日の移行確認までが、社員としての作業になる」
林は契約書へ目を戻した。
基本教材一つ。
対象となる構成も、一種類。
作業時間、報酬、連絡窓口。
以前なら、そこに書ききれないほどの仕事を抱えていた。
困れば林へ。
分からなければ林へ。
その呼び方に疲れたこともあったのに、今は、この数行がひどく小さく見えた。
陳凱が画面から顔を上げた。
「部署を残せなかった」
林は黙っていた。
「君に頼みたい仕事はある。でも、以前の体制を維持する判断にはならなかった」
会議室の外を、誰かが足早に通った。
「頭では、分かっています」
林は言った。
その先は、うまく続かなかった。
陳凱も、励ます言葉を足さなかった。
少しして、林は確認欄に署名した。
***
食堂では、いつもの定食を取った。
トレーを置いてから、最後なのに別のものにすればよかった、と思った。
窓際に一つ、席が空いていた。
隣のテーブルでは、若い社員たちが新しいモデルの試験結果を見ている。
「この条件でも、こんなに短くなるんだ」
一人が画面を拡大した。
林は、つい顔を向けた。
誤差の分布も見たい。
その条件だけ速いのか、ほかでも同じなのか。
聞きかけて、口を閉じた。
別に、聞いてはいけないわけではない。
ただ今日は、食べ終わるまで自分の昼休みにしておきたかった。
箸を持ち直す。
窓の外の植え込みに、黄色い花が咲いていた。
花壇があることは知っていた。
こんな色だっただろうか。
林はしばらく、そこを見ていた。
***
午後、修正完了の通知が届いた。
林は社内ネットワークへの接続を切った。
ブラウザを閉じ、新しい契約用アカウントだけで入り直す。
教材を開く。
形状データを読み込む。
基準面を指定し、保存した条件を呼び出す。
今度は、最後まで進んだ。
結果を、確認済みの値と照合する。
一致していた。
次に、基準面を指定しない入力を試した。
測定は始まらず、不足している条件が表示された。
途中で閉じ、もう一度開く。
作業を止めた位置も、選んだ条件も残っていた。
林は息を吐いた。
朝と同じ部品が、画面の中央で静かに回っている。
最後に、問い合わせ先の表示を確かめた。
自分の名前ではなかった。
連絡窓口と、受付時間が書かれている。
検証記録を送り、完了の印を付けた。
しばらくして、担当者から返事が届いた。
〈受け取りました。以後はこちらで管理します〉
林はその一文を読み、記録を閉じた。
***
机の引き出しには、思ったほど物がなかった。
充電ケーブル。
古い変換器。
先の潰れたペン。
いらないものを片づけると、奥に小さな紙が残った。
一舟が描いた絵だった。
四角い顔のロボットが、三人の人間と手をつないでいる。
下には、たどたどしい字で「おとうさん」とあった。
持ってきた日のことは、思い出せなかった。
林は紙を裏返した。
何も書いていない。
もう一度表に戻し、折れないようにノートへ挟んだ。
端末の返却窓口では、担当者が管理番号と付属品を確かめた。
「私物のお取り忘れはありませんか」
「ありません」
署名すると、端末が担当者の手元へ引かれた。
入館証も渡した。
首から紐がなくなると、胸のあたりが落ち着かなかった。
ロビーでは、陳凱が待っていた。
「新しい窓口、確認できた?」
「できました」
「僕に連絡が来たら、そちらへ回す」
「お願いします」
陳凱は何か言いかけ、結局、手を差し出した。
林も手を伸ばした。
「お疲れさまでした」
「お世話になりました」
握手を解く。
自動扉が開いた。
外へ出ると、風がシャツの襟を動かした。
数歩進んでから、林は振り返った。
ロビーの案内画面には、来週の催しが流れていた。
林の知らない予定が、もう始まっていた。
***
学校の門で待っていると、一舟が林を見つけた。
友達に手を振ってから、こちらへ走ってくる。
「今日、早いね」
「会社、最後の日だったから」
一舟の目が、林の首元へ動いた。
「カードは?」
「返してきた」
「もう入れないの?」
「用事があれば、受付で名前を書く」
一舟は少し考えた。
「僕が見学に行くときと同じだ」
「そうだね」
並んで歩き出す。
一舟は紙袋を見た。
「お菓子?」
「会社の人にもらった」
「何個ある?」
「まず、ただいまを言ってから数えて」
「まだ家じゃないよ」
林は笑った。
信号待ちの間、一舟が袋の中をのぞいた。ノートから、絵の端が少し出ていた。
「それ、僕の?」
林が取り出すと、一舟は目を丸くした。
「まだあったんだ」
「引き出しに入ってた」
一舟は絵を眺め、眉を寄せた。
「このロボット、指が多すぎる」
確かに、片手に七本ほど描いてある。
「便利そうだけど」
「手袋、売ってないよ」
信号が青になった。
一舟は絵を林へ返し、給食のスープの話を始めた。
林はノートへ挟み直した。
胸の奥が少し痛んだ。
それでも、隣の声はちゃんと聞こえた。
***
夕食のあと、葉寧は勉強会へ出かける支度をしていた。
「どうだった?」
ノートを鞄に入れながら聞かれて、林は椅子に座ったまま答えた。
「普通だった」
「うん」
「端末を返して、カードを返して。みんな、明日の仕事をしてた」
葉寧は手を止めた。
林は机の木目を見た。
「まだ、悔しい」
葉寧が隣へ来た。
肩に置かれた手が、少し温かかった。
二人とも、しばらく黙っていた。
玄関の時計が鳴る。
林は顔を上げた。
「時間、大丈夫?」
「そろそろ出る」
「行っておいで。片づけはやる」
「帰りは九時くらい」
扉が閉まったあと、林は皿を洗った。
一舟の宿題を見て、風呂の湯を確かめる。
寝支度が済んだころ、端末を開いた。
明日の予定は、午前九時半からだった。
基本教材の作業が一件。
林は開始時刻を確かめ、画面を閉じかけた。
マークからの通知が届いた。
〈試行分の報酬、今日入りました〉
林は椅子に座り直した。
続けて、もう一通。
〈倉庫からも返事が来ました。次の仕事のことで、相談したいです〉
林は、二週間の試行を引き受ける前のマークを思い出した。
生活費のために、待てる時間はほとんどなかった。
あのとき約束された報酬が、今日、ようやく手元に届いた。
林は翌日の予定を開いた。
〈入金されてよかったです。明日のこちらの午後なら話せます〉
候補の時間を送ると、ほどなく返事が来た。
〈その時間でお願いします〉
その下に、もう一行あった。
〈仕事は欲しいです。でも、今回は条件を聞いてから決めたいんです〉
林はゆっくり読み返した。
机の端に、一舟の絵を立てる。
椅子の背には、通勤に使っていた鞄が掛かっていた。
明日の朝は、あれを持って家を出ない。
林は新しい予定に、マークの名前を入れた。
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