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AIが変えた世界で、僕らはもう一度働き始める  作者: 北野風人
『余った時間』

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第38話 マークの条件

 ここまでの話。AIが人の仕事を肩代わりし始めた時代、三つの地域がそれぞれのやり方で「働くこと」を組み替えようとしている。

 瀾華の開発会社で働いていた林遠は、契約を終えて会社を去り、範囲を決めた委託の仕事を始めた。

 アステラで検品の短い契約を転々としてきたマークは、「仕事は欲しい。でも今回は、条件を聞いてから決めたい」と言った。

 日本・東都精機では、佐藤たちが、止まった三号機と減らされた人員の中で、働き方を組み替えてきた。

 今日、林遠は最初の委託を受け、マークは自分の条件を出しに行く。

 午前八時すぎ、林の端末に通知が届いた。


 基本教材を使っている施設からの、確認の依頼だった。


 今日の作業は、午前九時半からの一件。


 林は通知の題名だけを見て、画面を閉じた。


 始める時刻は、決まっている。


 朝食の片づけをして、一舟を送り出す。


 葉寧は自分の予定を確認していた。


 「今日は、私のほうが帰りが早いかも」


 「分かった。夕飯は、あるもので何とかする」


 「無理しない範囲でね」


 扉が閉まる。


 九時半、林は机の前に座った。


 通勤の鞄は、椅子の背に掛けたままだった。


 施設からの依頼は、修訂版へ移る前の確認だった。


 旧版で保存した学習記録が、そのまま開けるかどうか。


 記録の主は、夜の学習に来ている人だった。


 途中で止めた測定と、最後に残した質問が一つ。


 移行の案内には、その人の名前はなかった。


 番号だけが、記録に付いていた。


 林は契約用のアカウントで入り、指定された記録を開いた。


 部品の形。


 測定の途中で止めた位置。


 残した質問も、読めた。


 どれも、昨日の移行確認で通した条件の内側だった。


 林は、記録を頭から追い直した。


 まず、部品の形。


 旧版の画面と、修訂版の画面を並べる。


 輪郭は、同じ位置に重なっていた。


 ずらして重ねても、ずれはなかった。


 次に、測定の途中で止めた位置。


 止めた印は、記録の途中に付いていた。


 開き直しても、印は動いていない。


 印の先には、何も入っていなかった。


 止めた、という事実だけが、そこに残っていた。


 最後に、残した質問。


 林は、声に出さずに読み直した。


 短い文だった。


 一度、画面から目を離す。


 それから、もう一度読んだ。


 読むたびに、意味は変わらなかった。


 林は、手元のメモに、一つずつ印を付けた。


 形。


 位置。


 質問。


 印は、三つ並んだ。


 どれも、飛ばさずに通った。


 確認は、地味な作業だった。


 派手な答えは、出ない。


 ただ、昨日の条件の内側に、今日の記録も入っている。


 それを、自分の目で確かめる。


 それだけのことが、この仕事の中心だった。


 結果を記録し、施設側で再確認する手順を添えて送る。


 送る前に、受付時間の表示を確かめた。


 窓口の名前と、時間が書かれている。


 自分の名前は、どこにもなかった。


 十一時を少し回ったところで、完了の印を付けた。


 台所で湯を沸かし、昼食を簡単に済ませる。


 家の中は静かだった。


 会社にいたころの昼休みは、誰かの声がいつも聞こえていた。


 静かさに慣れるには、もう少しかかりそうだった。


 午後の約束まで、まだ時間があった。


 林は新しいノートを開いた。


 午後の通話で聞くことを、先に書いておく。


 相手の予定。


 相手の決め方。


 自分は、答えを出さない。


 書き終えてから、最後の一行を少し眺めた。


 昨日の自分なら、書かなかった一行だった。


***


 通話がつながると、マークは先に笑った。


 共訳端末の声が、少し遅れて届く。


 「昨日、やっと振り込まれました」


 「よかった」


 「額より先に、日付を知りたかったですけどね」


 マークは画面の隅を指した。


 「家賃の引き落としは、毎月一日です。前の試行の支払いは、そのあとでした」


 「間に合わせるのが、大変だったんですね」


 「ええ。だから今回は、先に聞きます」


 マークの画面の横には、二つの書類が開かれていた。


 一つは、倉庫の検品作業の次の契約だった。


 三か月。


 平日の固定した勤務日。


 給与は月末締め、翌月の十五日払い。


 「仕事は、今までと同じです。長さだけ、違いました」


 もう一つは、検証の仕事だった。


 エマのところのプログラムで、次の検証に立ち会い、練習の支援もする。


 六週間。


 練習と学習の時間も、作業として数える。


 ただし、その先は次の予算で決まる。


 「こちらは、続くかどうか分かりません」


 マークは二つの予定表を並べた。


 「倉庫は、来月からの生活が読めます。検証は、次に使えることを学べます」


 「どちらも、今のマークさんには要るものですね」


 林が言うと、マークは少し黙った。


 「林さんなら、どちらを」


 「僕は決めません」


 言ってから、林はノートを開いた。


 「決める前に、確かめたいことは何ですか」


 マークは指を折った。


 「勤務日が、重ならないこと」


 「はい」


 「支払いの日が、先に分かること」


 「はい」


 「それと――」


 マークは倉庫の書類を拡大した。


 「続けながら、途中で見直せること。前は、決まったら終わりでした」


 林は三つを書き取った。


 その下に、マークが自分で書き足した。


 四週間後に、収入と、学べたことを並べて、もう一度決める。


 「二つを、ずらして受けられないか聞いてみたいんです」


 「ずらして、ですか」


 「倉庫は固定の三日。検証は、予定が先に決まる日だけ。どちらも、最初から全部の日を埋めない形なら」


 マークは言い終えて、少し肩をすくめた。


 「できるかどうかは、相手が決めることです。でも、聞くのは僕の側でできます」


 林はうなずいた。


 昨日、マークが送ってきた一行を思い出していた。


 ――仕事は欲しいです。でも、今回は条件を聞いてから決めたいんです。


 今日、そのとおりになっていた。


 「倉庫へ送る文は、もう書いたんですか」


 「下書きだけです」


 マークは画面を切り替えた。


 勤務日を固定の三日にできるか。


 四週間後に、条件を見直せるか。


 返事を金曜日までにほしいこと。


 三行だけの、短い文だった。


 「これで、伝わりますか」


 「伝わると思います。送るのは、今日ですか」


 「この通話のあとで」


 マークは文を保存した。


 送る前の文が、決まった形で残った。


***


 後半から、エマが通話に入った。


 マークは、メモを画面に映した。


 勤務日の重なり。


 支払いの日付。


 四週間後の見直し。


 エマは一つずつ読んだ。


 「検証の側は、予定日を先に固定できます。支払いは、作業の確認後、十四日以内。今日、この場で文書にできます」


 「本当ですか」


 「前回の試行は、遅れました。そこは、こちらで改める点です」


 エマが文書を開いた。


 支払いの期日が、空欄から日付に変わる。


 マークは画面を食い入るように見た。


 「倉庫の側は?」


 「そちらは私では決められません。ただ、マークさんが今日送る文に、返事の期限の希望が入っている。それで十分だと思います」


 「お願いします、とは言えないんですね」


 「言えません。でも、期限を尋ねるのは、正当なことです」


 マークはメモを保存した。


 支払いの欄は、二つのうち一つが埋まった。


 もう一つは、返事待ち。


 期限は、金曜日。


 「全部は、今日決まりませんでしたね」


 マークが言った。


 「でも、決まらなかったものにも、期限が付きました」


 林はそう答えた。


 マークは笑い、それから予定表を開いた。


 四週間後の日に、小さな印を付けた。


 見直しの日だった。


 通話を終えようとしたとき、エマが思い出したように言った。


 「そうだ。伝えることが、もう一つ」


 「はい」


 「有償の訓練パイロットが、正式に決まりました。候補者の名簿に、マークさんの名前もあります」


 マークの手が止まった。


 「訓練の間も、支払いがあるんですか」


 「あります。ただ、人数に限りがあって」


 エマは少し言いよどんだ。


 「参加の順番は、定着予測スコアの高い人からだそうです」


 「定着予測……スコア?」


 「ええ」


 「そのスコアは、何で決まるんですか」


 画面の向こうで、エマは首を振った。


 「私も、まだ説明を受けていません」


 「いつ分かりますか」


 「今週中に、確認します」


 マークは、保存したばかりのメモを見た。


 支払いの欄の一つは、まだ空いていた。


 その下に、彼は一行書き足した。


 ――スコアの決め方を、聞くこと。

お読みいただき、ありがとうございます。

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