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AIが変えた世界で、僕らはもう一度働き始める  作者: 北野風人
もう一度働くために

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第26話 異常なしの部屋

母の部屋に、異常を知らせる表示はなかった。


服薬の確認は済んでいる。


朝食の記録も、室温も、いつもの範囲だった。


佐藤は家族向けの見守り画面を閉じ、母へ電話をかけた。


「午後、少し出ない?」


「今日はいいよ」


「買い物でも。天気も悪くないし」


「あるもので足りるから」


声は、いつもと変わらなかった。


先週も、似た返事だった。


通話が終わる前に、佐藤は聞いた。


「顔だけ見に行ってもいい?」


少し間があった。


「来るなら、来ればいいよ」


午後二時、母の家を訪ねた。


玄関脇には、小さな鞄が掛かっていた。


靴もそろっている。


居間の窓は半分開き、台所から湯の沸く音がした。


端末が来訪を知らせると、母が顔を出した。


「聞こえてるよ。そんなに大きく言わなくても」


母は音量を下げ、湯飲みを二つ出した。


「何か、調子の悪いところは?」


「ない」


「眠れてる?」


「眠れてる」


佐藤は卓上の端末を見た。


今日の外出候補が並んでいる。


近隣の交流会。


軽い運動。


季節の展示。


移動時間も、会場までの経路も表示されていた。


「これ、見た?」


「見たよ」


「行ってみたいのは?」


「ないね」


別の候補を開きかけて、佐藤は手を止めた。


「どういうのなら、いい?」


母は茶を注いだ。


「今日は、何時に帰るの?」


「夕方まで大丈夫」


「今度は、本当に?」


佐藤は顔を上げた。


母は湯飲みを自分の前へ置いた。


「前も、昼には来るって言ってたから」


工場の予定が変わった日だった。


午前の確認が延び、昼を過ぎても終わらなかった。行けないと連絡し、妻に相談した。


その前にも、一度あった。


「待ってるとね、ほかのことを始めにくいんだよ」


佐藤は玄関の鞄を思い出した。


「出るつもりだった?」


「買い物に行こうと思ってた。あんたが来るなら、重いものも買えるから」


母は少し笑った。


佐藤は湯飲みを置いた。


「悪かった」


「来られない日は、そう言ってくれればいいよ」


端末から、小さな通知音がした。


薬の残数を確かめる案内だった。


母は表示を読み、手元のケースと照合して確認を押した。


「これは、助かってる」


画面を閉じる。


「あと幾つあったか、何度も数えなくていいから」


佐藤はうなずいた。


端末には外出候補が戻っていた。


母が一つを指す。


「これも、前に断ったんだけどね」


交流会だった。


「嫌なの?」


「大勢で順番に話すのは、あんまり好きじゃない。断っても、また出てくる」


佐藤は設定を開きかけた。


母が先に操作する。


同じ種類の案内を減らす項目を見つけ、説明を読んでから選んだ。


「これでいい」


「今日は、どうしたい?」


佐藤が聞くと、母は少し考えた。


「魚屋まで行ける?」


「駅の手前の?」


「そう。持ってきてもらうのもいいけど、見て選びたいんだよね」


佐藤は立ち上がった。


母も鞄を取り、財布を確かめる。


玄関の端末へ、帰宅予定を入れた。


佐藤が示した時刻を見て、母が首をかしげる。


「そんなに早く帰らなくてもいいでしょう」


店まで歩き、買って戻る。


佐藤は、それだけの時間を入れていた。


「そうだね」


帰宅予定を、少し遅くした。


外へ出ると、母はゆっくり歩いた。


段差の前で止まり、足元を確かめる。


佐藤は先へ出かけた足を戻した。


「腕、つかむ?」


「ここだけ」


母が袖の辺りを持つ。


平らな道へ戻ると、手を離した。


駅前では、小さな配送台車が歩道の端を進んでいた。


人が近づくと速度を落とし、道を譲る。


母は通り過ぎるのを待った。


「便利にはなったね」


「うん」


「この前は、米を頼んだよ。ちゃんと玄関まで来た」


母は台車を見送り、また歩き始めた。


魚屋には、何人か客がいた。


母は店先を見渡し、店の人へ声をかけた。


「今日は何がいい?」


勧められた魚を見て、大きさと値段を聞く。


隣の品とも比べる。


佐藤は横で待った。


仕事の端末が振動した。


定時の進捗通知だった。


表題だけ確かめ、しまう。


「これにする」


母が決めた。


包んでもらう間、店の人と昔の商店街の話をしていた。


閉じた店のこと。


角にあった花屋のこと。


佐藤の知らない名前が、二つ出た。


帰り道、小さな公園の前で母が足を止めた。


「少し座る?」


「うん」


日陰のベンチに腰を下ろす。


母が買い物袋を開いた。


佐藤が受け取ろうとすると、首を振る。


「今は、中を見てるだけ。帰りは持って」


佐藤は手を引いた。


母は包みを整え、袋を閉じた。


「来週の検査は、予定どおり?」


佐藤が尋ねた。


「そのつもり。送迎も予約してある」


「一緒に行こうか」


母が佐藤を見る。


「休めるの?」


「調整する」


答えてから、言い直した。


「まだ確認していない。明日、返事をする」


母はうなずいた。


「じゃあ、明日聞くよ」


「うん」


「難しかったら、予約した車で行くから。そこは、勝手に取り消さないでね」


「分かった」


佐藤は予定を開いた。


検査の日。


付き添う場合に必要な時間。


明日、母へ返事をすること。


三つを分けて入れた。


家へ戻ると、母は魚を冷蔵庫へしまった。


佐藤が鞄を掛けようとすると、母が受け取る。


「そこより、こっちの方が取りやすい」


低い方の鉤へ掛け直した。


端末では、外出の記録が終わっていた。


歩いた時間も残っている。


佐藤は画面を閉じた。


「夕飯、食べていく?」


台所から母が聞いた。


「今日は帰る。家で待ってるから」


「そう。じゃあ、これ持っていって」


別の包みを渡された。


魚が、もう一つ入っていた。


「買いすぎたの?」


「最初から、そのつもり」


母は玄関まで見送りに来た。


「今日は、ありがとう」


「また連絡する」


「明日ね」


「明日」


佐藤はうなずいた。


帰宅すると、妻が食卓を拭いていた。


魚の包みを見せると、少し笑った。


「お義母さん、選べた?」


「うん。店の人と、ずいぶん話してた」


「よかった」


佐藤は包みを冷蔵庫へ入れ、来週の検査の話をした。


付き添えるか、明日までに返事をする。


午前の仕事を調整したい。


妻は布巾を畳んだ。


「私の予定も、先に確認してもらえる?」


「うん。まだ決めてない」


妻が端末を開く。


検査の日に、講座の予約が入っていた。


前から行きたいと言っていたものだった。


「その日だったんだ」


「予定、共有してあるよ」


佐藤は家族の予定表を開いた。


確かに、入っていた。


母の予定と、自分の仕事。


その二つだけを並べて考えていた。


「俺が行けなければ、送迎は予約のままにする。付き添いが必要かは、母さんと病院に確認する」


妻がうなずく。


「お願い」


佐藤は、妻の予約を見た。


「前に、俺が行けなくなった日も、何かあった?」


妻の手が止まった。


「あるよ」


予定を戻す。


取り消した予約が、一つ残っていた。


「変更した日は、今まで私が動いてたの」


佐藤は、その日付を見た。


工場の確認が延びた日だった。


母の用事は済んだ。


家でも、困ったことは起きなかったと思っていた。


「知らなかった」


「次は、先に聞いて」


「うん」


妻は端末を閉じ、台所へ向かった。


佐藤は来週の工程表を開いた。


午前の確認作業には、自分の名前が入っている。


手順と記録は、引き継げる形になっていた。


村瀬に頼めば、と入力しかけて止めた。


彼の予定は、まだ見ていない。


依頼の宛先を、大野へ変えた。


不在にしたい時間。


必要な作業。


引き継げる範囲。


代わりを一人に決める前に、勤務の中で調整できるか相談したい。


書き終えて、送信した。


母への返事は、明日の夕方。


予定表に入れたその時刻を、佐藤はもう一度確かめた。

お読みいただき、ありがとうございます。

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