第25話 ここまで来られる人
入口には、三段の階段があった。
林遠は立ち止まった。
学習室の写真には、扉の内側しか写っていなかった。
「林さんですか」
中から女性が出てきた。
地域学習点の担当者、周敏だった。
「お待ちしていました。まだ片づけの途中で」
「今日は、実際に使うところまで確認できればと思っています」
周敏が扉を押さえた。
林遠は階段を上がった。
机が六つ。
貸与用の視覚端末が四台。
壁際には、古い訓練台が置かれていた。
林遠は設備一覧を開いた。
端末の型と管理状態を確かめ、試験用の教材を読み込む。
東都とアステラの共同試用を経て、地域学習用に提供が認められた基礎教材だった。
企業固有の図面は含まれていない。
机の上に、部品と測定治具が現れた。
周敏が視点を動かす。
「本当に、そこにあるみたいですね」
裏側を見ようとして椅子を引くと、背が隣の机に当たった。
二人で机を離す。
六席あった配置は、動く余地を取ると四席になった。
周敏が見取り図を書き直した。
入口から、子供の声がした。
「ここ?」
女性が小さな子の手を引いて入ってきた。
もう片方の手には、畳んだベビーカーを持っている。
周敏が受け取った。
「許さんですね。お待ちしていました」
許真は子供の上着を脱がせ、隣の椅子へ絵本を置いた。
出荷に関わる仕事をしているという。
伝票の入力は自動化され、以前ほど人手が要らなくなった。職場では、返品された商品の状態確認を覚えるよう勧められていた。
傷や変形を見分け、必要なら測り、判断できないものを担当者へ渡す仕事だった。
「説明動画は、家でも見たんです」
許真が言った。
「でも、見たあとで何ができるようになったのか、自分では分からなくて」
林遠は教材の最初の画面を示した。
「今日は、状態を確かめて、根拠を残すところを試せます。職場の作業そのものは、現地の道具と手順で練習が必要です」
許真がうなずく。
子供へ向き直った。
「少しだけ、ここで待っていてね」
視覚端末をかける。
操作器で、仮想の部品を回す。
最初は違う場所を選んだが、戻り方を聞いて続けた。
文字の大きさも、自分で変えた。
「これなら読めます」
許真は部品の縁を拡大した。
黒い筋がある。
傷なのか、影なのか。
視点を変えようとしたとき、袖が引かれた。
「お母さん、これ」
子供が絵本を差し出していた。
許真は端末を外した。
「あとで読もう。いま少しだけ」
子供はうなずいた。
教材へ戻る。
今度は、机の下へ色鉛筆が転がった。
許真がまた端末を外す。
「すみません」
「途中で止められます」
林遠は中断の操作を示した。
画面に保存の印が出る。
周敏が色鉛筆を拾い、子供へ渡した。
許真は端末をかけ直した。
「前のところから、やり直しですか」
「ここから続けられます。履歴を開いてみてください」
前回見た位置が、薄い輪郭で現れた。
開いた資料には印があり、選んでいない測定はそのまま残っている。
許真は履歴を追った。
「そうだ。こっちへ回ろうとしていたんです」
視点を動かす。
黒い筋が消えた。
影だった。
次に、反対側の見えない部分を確かめようとして、手が止まった。
隣で子供が椅子から下りていた。
「どこへ行くの?」
許真は端末を外した。
子供は入口を指した。
水を飲みたかったらしい。
周敏が案内すると、許真は操作器を机へ置いた。
「今日は、ここまでにします」
林遠はうなずいた。
再開のために、気になっていることを一行残せる機能を示す。
これは事前の試用で必要性が挙がり、今回の準備範囲に含めて追加したものだった。
許真が短く打った。
――見えない側を、測って確かめる。
保存して、端末を返した。
「来られる日は、いつですか」
周敏が候補を開く。
平日の夜。
許真は時刻を見た。
「この時間だと、連れて来ることになります」
「今日のように、隣に座ってもらう形なら……」
周敏が言いかけた。
林遠は、子供の椅子と視覚端末を見た。
装着している間、許真には隣の様子が見えにくい。
「見守りの方法を、先に確かめた方がよさそうです」
周敏は予定表を閉じた。
許真もうなずく。
「ここならできそうなのは、分かりました。次が決まったら、教えてください」
帰り際、林遠はベビーカーを階段の下へ運んだ。
許真が子供の手を引いて下り、広げたベビーカーへ荷物を載せる。
二人を見送って戻ると、周敏が見取り図を見ていた。
「子供用の椅子があれば、と思っていました」
林遠は机に端末を置いた。
「教材は止められます。でも、その間ずっと気を配っていたら、再開する余裕がなくなりますね」
周敏は施設の予定を開いた。
週末には、別室で親子向けの活動が行われていた。
見守りを担当する職員もいる。
「この日に合わせて、短い体験会を組めるか相談します。追加で受け持てる人数と費用は、確認が必要ですが」
「入口は、ほかに使える経路がありますか」
「裏側に通路があります。管理者へ聞きます」
林遠は確認表を開いた。
教材と端末。
動ける机の配置。
指導する人。
子供を見守る人。
入口から学習室までの経路。
それぞれに担当と必要な時間を入れた。
奥の古い訓練台は、今回使わないことにした。
まずは視覚教材に絞り、設備点検や実物指導の準備を増やさずに試す。
林遠自身の技術準備にも、工数を付ける。
周敏は表を読み返した。
「これなら、一回分として相談できます」
一週間後、体験会が開かれた。
既存の親子向け活動に合わせ、見守りを担当する部署が追加の受け入れ枠を設けた。
対象年齢と人数を決め、その分の職員時間も費用に含めた。
裏側の通路は、管理者と確認した経路を使う。
許真は、今度はベビーカーを畳まずに入ってきた。
子供は別室の担当者と名前を確かめ、絵本を見せている。
許真は何度か振り返った。
周敏が終了時刻と、何かあれば知らせる方法を説明した。
学習室へ入ると、許真は前と同じ席に座った。
端末をかける。
保存していた一行が現れた。
――見えない側を、測って確かめる。
その下に、前回の観察履歴が並んでいた。
許真は部品を回した。
「ここまで見たんでした」
見えない箇所に使える測定を選ぶ。
表示された値を、基準と照合した。
「こちらが範囲を外れています。保留にします」
理由を残す。
一つの課題が終わった。
許真は端末を外し、隣の空いた椅子へ一度目を向けた。
別室から、子供たちの笑い声が聞こえた。
「次も、やっていいですか」
周敏がうなずく。
「時間はあります」
次は、形の違うものだった。
同じ場所を見ても、判断に必要な面は見えない。
許真は向きを変え、必要な情報を選び直した。
終わると、教育担当者が記録を確認した。
今日できたことと、次に練習する項目を、本人の記録へ加える。
許真は普通の端末でそれを開いた。
「職場で相談するとき、見せてもいいですか」
「ご自分の記録です。提示できます。ただ、職場の作業資格とは別だという説明も付いています」
許真は最後まで読んで、保存した。
次回の学習相談は、オンラインで予約できた。
実物を使う練習について、職場の担当者に確認したいことも書き留める。
子供を迎えに行く前に、許真は周敏へ尋ねた。
「今日の続きは、家でも見られますか」
「記録と説明資料は見られます。今日のように動かして確かめる部分は、使う端末によります」
林遠が答えた。
許真はうなずいた。
「夜、少しだけなら時間があるので」
帰っていく二人を、今度は裏口まで見送った。
許真は子供の話を聞きながら、ゆっくり通路を進んだ。
学習室へ戻ると、周敏が申込一覧を持ってきた。
参加できなかった人の理由が並んでいる。
開始時刻に間に合わない。
見守りの対象年齢外。
会場まで来られない。
林遠は、今日の学習記録を閉じた。
一回の体験会で、来られるようになった人がいた。
まだ来られない人も、同じ一覧に残っていた。
「家でできる部分だけでも、先に渡せないでしょうか」
周敏が尋ねた。
林遠は教材の構成を開いた。
普通の画面でできる観察。
視覚端末を使うと分かりやすい空間の確認。
実物と指導者が必要な操作。
分けられるところはあった。
「費用と、確認する範囲を出します。全部を家で済ませる形にはできませんが、ここへ来てから何をするかは変えられます」
周敏が相談日程を開く。
そのとき、端末に新しい質問が届いた。
許真からだった。
職場で見せられた不良の写真と、教材で見たものが似ている。
写真だけで判断してよいのか、分からないという。
林遠は添付の説明を読んだ。
許真は、正常とも不良とも決めていなかった。
職場の担当者へ確認すると書いた上で、次に学びたい項目として送ってきていた。
林遠は、相談用の資料にその質問を加えた。
学習室を出たあとも、彼女の学びは続いていた。
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