第10話 止まったライン
「佐藤さん、ちょっとこれを見てもらえますか」
午前八時四十分。
第三工場の三号機の前で、保全担当の中村が手を止めた。
外された点検カバーから、機械油の匂いが漂ってくる。
佐藤健一は、安全柵の外に置かれたモニターをのぞき込んだ。
映っているのは、手首軸の出力側支持部。
金属面の一部に、細い弧を描くような接触跡があった。ライトの角度を変えると、そこだけ白く光る。
「前回の写真はありますか」
「村瀬さん、お願いします」
「はい」
村瀬が三か月前の点検記録を開いた。
二枚の画像を並べ、同じ大きさに拡大する。
「今回の方が目立ちますね」
「照明のせいかもしれません。ただ、片側に偏っているのが気になります」
中村はライトを少し動かした。
三号機は安全な停止状態に置かれている。
主電源は遮断され、残留エネルギーの処置も済んでいた。
ロボットの腕は支持具で固定され、許可を受けた保全担当者だけが安全柵の内側に入っている。
ほかのラインからは、一定の駆動音が聞こえていた。
三号機の周囲だけが静かだった。
壁の生産管理画面には、三本のラインの稼働状況が表示されている。
『第一ライン:稼働中』
『第二ライン:稼働中』
『第三ライン:停止中』
その下で、AI生産管理システムが代替計画を更新していた。
『出荷遅延リスク低減のため、第二ラインの夜間稼働を推奨』
佐藤の端末にも、製造部から進捗確認が届いている。
今朝だけで二件目だった。
「中村さん、遊びの測定はできますか」
「準備できています」
中村はライトを消した。
「まずは、前回と同じ条件で測ってみましょう」
*
午前九時二十五分。
中村が規定の微小荷重を反対方向へかけると、ダイヤルゲージの針が戻った。
三回測り、前回の同条件記録と並べる。
「管理上限には達していません。ただ、前回からの変化は残しておきたいですね」
中村は接触痕の写真も添えた。
村瀬が独立計測の波形を開く。
「この変化と応答の揺れが、どうつながるかですね」
「制御や摩擦も含めて、まだ切り分けが必要です」
中村は測定器を戻した。
「保全としては、今のまま連続稼働試験へ戻すことは勧めません。所見を出します」
「お願いします」
佐藤は写真の細い弧を見た。
最初に聞いた音の原因と断定はできない。
それでも、調べる場所が実物の上に示されていた。
*
午前十時五十五分。
「再開は見送り、ですか」
製造部の責任者が報告書を机に置いた。
会議室には大野、佐藤、村瀬、中村が集まっている。
「保全部門としては、追加点検が必要と判断しました」
中村が答えた。
「部品交換になるんですか」
「詳細点検の結果次第です」
「いつまで止まるかは?」
「今はまだ、確定できません」
責任者は椅子の背にもたれた。
壁の画面には、AIが組み直した生産計画が表示されている。
第二ラインの夜間稼働を増やせば、出荷遅延は最小限に抑えられる。
計算上はそうだった。
「人の手配が厳しいんですよ」
責任者が言った。
「設備は昔よりずっと自動化されたのに、こういうときほど人が足りなくなる」
大野は画面を確認した。
「勤務の調整は製造部と人事で進めてください。無理なシフトは組まないように」
「分かっています」
責任者は佐藤に向き直った。
「最初に止めたとき、ここまで分かっていたんですか」
「いいえ。異常音と、動作記録の変化だけです」
「それで止めた?」
「続ける判断をするには、確認が足りませんでした」
責任者は、もう一度報告書を見た。
しばらくして、短く息を吐く。
「……止めておいて、よかったですね」
村瀬が顔を上げた。
佐藤は頭を下げた。
「ありがとうございます」
「ただ、早く次の手を決めてください。こちらも、ずっと待てるわけじゃありません」
「分かっています」
大野が資料を閉じた。
「三号機は正式な整備対象に切り替えます。製造部への説明は私がします」
*
午後零時三十五分。
食堂は昼休みの終わりが近づいていた。
佐藤は焼き魚定食の盆を持って、窓際に座った。
味噌汁に口をつけたところで、少し離れた席から声が聞こえた。
「今夜、二ラインを延長するんだって」
「三号機の分か」
「そう。土曜も出られるか聞かれた」
「お前、娘の発表会じゃなかった?」
「そうなんだよ。まだ返事してない」
相手の男が、箸を置いた。
「俺、代われるか聞いてみようか」
「いいのか?」
「うちも予定はあるけど、午前中だけなら何とかなるかもしれない」
「悪いな」
「まだ決まってないって」
二人は、少し笑った。
佐藤は焼き魚をほぐした。
骨が一本、箸に引っかかった。
報告書には、連続稼働試験を停止すると一行書いただけだ。
その一行で、誰かの土曜日が変わる。
だが、もし動かし続けていたら。
佐藤は、その先を考えるのをやめた。
確かめようのないことを想像しても、今の判断は変わらない。
スマートフォンが震えた。
妻からだった。
『お義母さんの病院の件、今日話せる?』
佐藤は時計を見た。
午後零時四十二分。
今日は、定時に帰れそうだった。
『今日は帰る。夕飯のあとで話そう』
送信すると、すぐに返事が来た。
『了解。待ってるね』
佐藤はスマートフォンを伏せた。
窓の外では、自律搬送車が荷物を運んでいる。
かつて人が行き来していた通路を、今は無人の車両が静かに走っていた。
その先の製造区域では、二人の作業員が、代替ラインの段取り替えをしている。
一人が重そうな治具を持ち上げようとすると、もう一人が駆け寄って手を貸した。
搬送車は、その横を速度を落として通り過ぎた。
佐藤は残りの味噌汁を飲んだ。
少し冷めていた。
*
瀾華時間、午後二時二十分。
陳凱が見せたメールには、東都精機の追加見積依頼があった。
『旧データの定義および変換仕様に関する技術支援は、評価条件の再確認に有用であった』
林遠はその一文を読んだ。
自分たちが調べた内容が、正式な判断材料になっている。
「受注できれば、お前に中心になってもらう」
「期間は?」
「先方の希望を契約部門で確認中だ。まず工数を出してくれ」
席に戻り、小趙と作業を分けた。
資料調査、モデル再検証の支援、成果物。
現地の運転可否判断は対象外にする。
「前の見積から使える部分は、僕が移します」
「助かる」
引き継ぎ一覧は二十三件のままだった。
林遠は翌日の予定から一枠を空け、見積作成へ割り当てた。
*
東都時間、午後四時三十分。
佐藤と村瀬は、機械側の点検と評価側の確認を分けて予定にした。
「整備が終われば、設定も含めて復旧できるかを確かめるんですね」
大野が言った。
「はい。部品交換だけで再開日を決めないでください」
「分かりました。追加見積も依頼済みです」
村瀬に記録送信を任せ、佐藤は帰り支度をした。
「今日は、母の通院のことで話す約束がある」
「こちらは送信して終わります。お疲れさまでした」
出口で佐藤は妻へ『今から帰る』と送った。
返信には、病院の予約票の写真が付いていた。
*
瀾華時間、午後四時三十二分。
林遠は、見積書の最後の項目を確認していた。
『成果物:再評価条件の確認報告書』
保存。
『下書きを保存しました』
隣の画面には、引き継ぎ作業の一覧が残っている。
『未完了:二十三件』
その上に、人事システムからの通知が重なった。
『退職に伴う業務引継ぎ』
『最終確認期限:来月末』
林遠は、しばらく画面を見ていた。
右側には、東都向けの新しい仕事。
左側には、会社を去るための仕事。
小趙が帰り支度をしながら声をかけた。
「林さん、まだ帰らないんですか」
「もう少し」
「東都の見積ですか」
「ああ」
「これ、受注できたら、林さんが担当するんですよね」
「会社が決めることだ」
「でも、東都側は林さんのことを知ってますよね」
「そうだな」
小趙は少し考えた。
「じゃあ、会社を辞めなくてもよくなるかもしれませんね」
林遠は、すぐには答えなかった。
小趙は、その沈黙に気づいた。
「あ……すみません」
「いいよ」
林遠は少し笑った。
「俺も、そうなればいいと思うことはある」
小趙は黙っていた。
林遠は画面に向き直った。
そのとき、陳凱からメッセージが届いた。
『林遠、見積の件で確認したいことがある』
林遠は返信した。
『何でしょうか』
『先方から、継続担当はお前を希望すると連絡があった』
林遠の指が止まった。
『期間は、いつまでですか』
続けて、もう一通届いた。
『希望する支援期間が、お前の退職予定日を越えている』
林遠は左側の人事通知を見た。
『最終確認期限:来月末』
右側には、東都側の見積依頼。
『担当技術者:林遠』
小趙が帰り際に振り返った。
「林さん?」
林遠は画面から目を離さなかった。
「……先に帰っててくれ」
「はい。お疲れさまです」
小趙が出ていく。
林遠は、陳凱への返信欄を開いた。
何かを入力しかけて、消した。
もう一度、入力する。
『その期間の担当について、会社はどう考えていますか』
送信。
既読の表示が付いた。
だが、返事は来なかった。
林遠は椅子に座ったまま、二つの画面を見つめていた。
片方には、退職の予定。
もう片方には、自分を必要とする新しい仕事。
窓の外を、無人配送車が一台通り過ぎていった。
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