第九話
「私のことは、以前のようにブライアンと呼んでほしいんだ」
「お許しください、殿下。わたくしの立場で、それはできかねます」
「なら、婚約を受けてくれ」
「わたくしの結婚は、父であるアルマトゥーラ伯爵が判断いたします」
「君はどう思っているんだ」
「どうか、ご容赦ください」
淡々と言葉が出てくる。本当は、初めからこうしていなければならなかった。分を弁えて、ただただ臣下として受け答えをするべきだった。距離を見誤ったのは、私だ。では、私が正せばいい。
「……まさかとは思うが、腕を少し捻ったくらいで悲鳴を上げるようなあのつまらない男がよかったなんて言わないだろうな」
「……何故、それをご存じで?」
「気づかなかったのか。あれは私だ」
「あれ、とは、つまり……」
私はそっと少しだけ顔を上げながらブライアンの言う「あれ」を考えて、目を見開いた。
「お、王子殿下自ら、あんな場に!?」
「ダコタ嬢に様子を見て来るよう頼まれてな。行って正解だった」
「な、で、でも、あの時のあの人は、警備隊の隊服を、それに、お顔が……。え?」
「思い出せないだろう。そういう魔法だ。グロリア帝国にはお忍びに使える魔法が多くてな」
「そ、そんな、なんてことを……」
不出来な私はまた冷静さを欠いたが、それに気づいてまたぐっといろいろなことを堪えた。ここは耐えなければならかった。不本意ではあるが、耐えることにはある程度慣れている。
「それでどうなんだ」
「どう、とは……?」
「あの男に未練でもあるのか」
「……ええと、それはコリー・ペコラ氏のことですか」
「そうだ」
「あり得ません」
「……そうか。なら、まあ、いいが」
明らかにほっとした表情をするブライアンに、何故か怒りが込み上げてくる。不敬だ。こんな感情は許されない。それなのに、抑えられない。
「……殿下は、男女の友情というものをどうお考えですか」
「どうとは?」
「あるか、ないか、です」
「あるだろう。実際、私は君やダコタ嬢を友人だと思っている」
私は、拳を握った。耐えられなかった。
「わたくしもあると思いますわ。ただそれは、どちらにも恋愛感情がない場合にのみ適用されるのだとも考えています」
ゆっくり息を吸う。感情が、声に乗らないように。
「ですが幼かったあの頃、わたくしは殿下をお慕いしておりました。あの時から、わたくしは殿下の友人として不適格なのです。友人であるから、という理由で結婚相手をお探しなら別の方を選ばれるのがよろしいかと存じます」
言う必要のないことを、言ってしまった。だから私は駄目なのだ。
「……貴重な飛竜に乗せていただき、また、素晴らしいお話をありがとうございました。正式に打診があれば父よりお返事させていただきますが、わたくし個人といたしましては再検討をおすすめいたします」
顔を伏せ、膝を曲げる。礼の仕方は、あの頃よりずっと様になっただろう。
「では、御前失礼いたします」
言いたいことだけを言って、振り返らずに馬車乗り場まで素早く移動するつもりだった。連れて行かれたままの侍女と従者はそこで呼んでもらえばいい。不敬だ。けれどこれは、ダコタに頼み込んで不問にしてもらおう。……多分、聞いてくれると思う。
とにかく、私はこの場から逃げたかった。許されるだろうと思ったのは、幼い頃の甘えに引きずられたからかもしれない。けれど後ろから、慌てた声が追いかけてくるのだ。
「ペトラ、ま、っうわあ!」
がしゃんと派手な音がして振り返ると、そこにはブライアンが倒れていた。……転んだらしい。多分、豪快に。その証拠に、近くにあったベンチもひっくり返っている。
「え、ちょ、だ、大丈夫ですか、殿下!?」
「いや、うん、大丈夫だ。中々に恥ずかしいが」
あまりのことに駆け寄るが、ブライアンは自力で起き上がって周りに向かって手をあげた。ついでと言わんばかりにベンチも片手で引き上げている。
「君たちも、見なかったことにしてくれると助かる」
私と同じように音に反応して近寄ってこようとしていた警備や使用人たちが、そっと顔を伏せながら下がっていく。顔は赤いが、本当に大丈夫そうだ。その様子にほっとしていると、そっと手を取られた。……しまった、逃げられない。ああでも、嫌じゃなくて困る。
「その、ペトラ。私はやはり、君に結婚を申し込みたい」
「……ですが」
「さっきは卑怯な言い方をしたが、いや、違うな。ううん……」
ブライアンはこほん、と一つ咳払いをした。その姿は昔の、私たちがまだ子どもだった頃のそれに重なった。
「私は、君を友人だと言ったが、親愛も恋情も向けている。君への感情は一つではないし言葉一つで定義できるものでもない。それに、長く友人関係だった男女が恋愛関係に発展するなんて、それこそありふれた話じゃないのか。舞台にもよくあるテーマだ」
「……け、契約結婚が主流である貴族社会ではあまり聞きませんし、それに殿下は今のわたくしをご存じではないでしょう。わたくしも、今の殿下を知りません。あの頃とは多くのことが変わったのです。やはりご期待には沿えないかと」
「なら、知ってほしい。そして君のことも教えてくれ」
取られたままの手が、ぎゅうと包み込まれる。その強さと熱に、私の鼓動は呑気に早まった。
「知った上で断られるのはまだ納得ができるが、知らないというのが理由なら無理だ。……それとも、今の私を知りたいと思えない程に既に嫌悪を与えてしまっただろうか」
「そ、そんなことは」
「……いや、すまない。今のは私の立場で言っていい台詞ではなかったな」
「いえ……」
少し、気まずい空気が流れた。私が初めに危惧していたことだった。けれどそれは不思議と、そんなに嫌な時間でもなかった。
「……馬車まで送ろう、君の侍女たちも呼ぶよ。ジュリアンたちには私から伝えておくから、彼らのことは気にしないでいい」
言われるままにエスコートをしてもらい、馬車に乗せられた。いつ呼んだのか侍女たちは既に馬車で待機しており、王宮の使用人たちの仕事の早さには少し驚いた。
ここまでの道中、一言も話さなかったブライアンは最後、こう言った。
「ペトラ……。アルマトゥーラ嬢、今日の話は、正式に君のお父上に申し込むつもりだ。だが、私としても無理強いをするつもりはない。ただ君も、よく、考えてくれると嬉しい。できれば前向きに」
返事は、できたと思う。きちんと「はい」と返した筈だ。声がかすれてひどいものだったが、やり直しはできずに馬車の扉は閉められた。
「……お嬢様、大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃない……」
「まあ」
「喜んでいいのか、疑ったほうがいいのか、恐縮すべきなのか、もう、全然分からない……っ」
「あらあら……」
侍女に背中を撫でられながら、私は熱い頬をぎゅうと押さえた。向かい側に座っている侍従が「そんなに押さえてはもっと赤くなってしまいますよ」と言うが、やめられなかった。
「ですがそこで一番初めに喜んでいいのか、がくるあたり、お嬢様のお心は決まっているように思いますが」
「うぐ、で、でも、うう、でも……」
心の中が滅茶苦茶なのだ。だって私は昨日、婚約を破棄したような娘である。それなのにどうして王弟のご子息から結婚の打診を受けるのだろう。あまりにも急すぎる。ああこれをどうやって父に報告すればいいのか。私はぎゅうと目を瞑りながら、子どものように侍女の腕にしがみついた。決して褒められないその行為に侍女は何も言わず、私の手をそっと撫でてくれた。




