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23歳39_Invisible scars

 冬休みが終わり、事務所が動き出して半月が経った。

 二月には睡蓮のライブ、三月にはWildflowersと浮草のライブが正式決定されている。今はその準備段階だ。

 そんな折に、師匠から珍しく詫びの電話が入り、私一人ぶんだけの関係者枠で大盤解説会に向かうことになった。

 糸遊は大盤解説会に行けないことよりも、ライブの準備に専念する方に気が向いていた。そういうわけで、こうして心置きなく一人で向かうことができている。

 一人での移動ということで久々にバイクの出番だ。しっかりとスーツの上に防寒着を着こみ、片道二時間の道を景色を眺めながら楽しんで運転した。

 同行者なしで動くのなんていつ以来だろうか。今回は二日制の対局の一日目だけの予定だ。朝早くに出て、対局開始前には着くよう時間には余裕を持っている。

 ホテルも予約しているので日帰りは避け、明日ゆっくり帰るつもりだ。


 バイクを降りて指定の待ち合わせ場所に行くと、厚手のダウンを着た師匠が待っていた。

「おはようございます」

「久しぶり。二人分確保できなくてすまなかったね」

「電話で謝ってもらったのに、もう気にしないでくださいよ」

 糸遊は三月のライブに向けて動きはじめている。思ったより気にしていなかったことを伝えると、少し安心してもらえた。

 師匠に付き添ってもらい、関係者枠としての受付を済ませる。

 棋戦がいよいよ始まり、解説棋士の控室に通された。師匠が女を連れてきたことか、それとも私の引退棋士の立場のせいか、意外そうな声があがった。関係者枠とはいえ、それなりの肩書があるのですんなりと居座らせてもらえた。

 若い女の引退棋士という、非常に扱いづらいであろう存在の私に、その場にいたベテラン棋士や若手棋士はずいぶんとよくしてくれた。

 何しろ二日制の対局の初日というのは、特に午前中の進行が緩やかになることが多い。本来なら大盤解説会の一日目も午前は人が少ないはずだが、今日は棋戦そのものの開幕戦ということで、前日からイベントに参加していた棋士の方々が朝から集まっていた。

 局面の進行次第では、早い段階から控室が賑わうこともあるという。私のような変則的な内容ばかりの棋士が対局者だった時は、それはもう大変だったろうなと、今更申し訳なさを覚えた。

「九先生は今も将棋を指されてるんですよね」

「はい。勝手ながら弟子も取らせてもらっていて、毎日感想戦までやるのが日課になっています」

 事情があって内弟子のような形で預かっていると伝える。他にも預かっている子がいることは伏せて伝えた。

 今回の副立会人の、中堅棋士の方とちょっとした事情を話す。師匠や他の棋士も耳を傾けていた。

「年間何局ペースなんだい?」

「まだ一年経ってませんが、多分このままだと五百は越えるかと」

 年齢の関係もあり、師匠が私に敬語でないことも伝播して、年上の棋士の方はフランクに話しかけてくれる。

「引退して、まだその情熱があるのは素晴らしいね」

 引退理由は聞かれなかった。気遣ってもらえて助かった。プロの棋士の前で「他にやりたいことができた」なんて言うと、棋士を軽視しているように捉えられかねない。


 今回の解説対象の将棋の内容、対局者の棋風、最近のトレンドなど、将棋の話で盛り上がる。とても楽しい時間だった。

 お昼過ぎまでは特に大盤解説としての仕事はないらしい。控室に対局者の選んだ食事メニューと同様のものが注文され、紹介される。ネットの放送でこういうのが話題になるらしい。

 その辺りから忙しくなった。

 お昼直前から盤面に動きがあった。通常、お昼の時間を相手の思考に使わせないため、お昼前に局面を動かすことは少ない。時間に追われるような場面でもない。それなのに挑戦者が動いた。

 昼食を悠々と楽しませないための心理作戦? そんな作戦がタイトルホルダーに通用するのだろうか。そう考えていると、わかっていたと言わんばかりに、昼食の直前にタイトルホルダーが手を進めた。意趣返しのようだった。

 挑戦者は困り果てていることだろう。昼食を休憩させないための作戦が、そのまま返された形だ。

「面白くなってきたね」

「こういう大混戦は大好きですよ」

「連理は混沌とした局面ばかりだったもんな」

「棋風と言ってくださいよ」

 師匠と会話していると、控室にカメラが入ると伝えられた。どこかに行って、映らないようにした方がいいだろうか。師匠に窺いを立ててみると、別にいいんじゃないかと気軽に応じられる。

 それもそうか。カメラには最後の対局で恥を晒したこともあり、少し緊張した。案内をしているプロ棋士から、「引退された九先生もいらっしゃっています」と紹介されて映ってしまった。

 どうもと、少しこわばった笑顔で頭を下げる。やはり緊張する。今回は師匠の師先生のご招待でいらっしゃったとか何とか言われ、師匠はフラットな対応でやり過ごしている。

「カメラはやっぱり緊張しますね」

「あんな目立つことしておいて、何を今更」

 それもそうかと開き直れるほど、心の準備ができていなかった。

 いつカメラに映っても大丈夫。きちんとスーツで来ているし、化粧も教えてもらった通りしている。何も恥ずかしがることはない。

 一つ深呼吸をする。今後の活動のためになる可能性もあるんだ。なにがどう絡んで、自分やあの子たちのためになるかわからない。

 頻繁にカメラに映る機会のある、人気の女流棋士の方とも挨拶していた。女だてらに女流棋士との交流が少なかったので、嫌われているのかなと思ったら、やたらとフレンドリーに話しかけられる。

 勝負の世界にいて、制度も厳しい。そんな中で伸び伸びとやっている。糸遊にも早くここに来させたいと思った。


 一般の方が入られるのがお昼過ぎ。その辺りから、大盤解説のローテーションが始まった。

 師匠から声がかかる。大盤で呼ばれることがあれば出てくれないかと。

 多分ないだろうと思うと言われ、だったら大丈夫ですと答えた。

 本格的に大盤解説が始まった。戦況が非常に珍しい形で、解説が難しそうだ。

 難しいなりに、人気棋士の話はやたらと盛り上がる。関係者として最前列で楽しませてもらっている時、事件は起きた。

「こう選択肢が多いと決断が難しいですね」

「そうですね。詳しそうな人がいるので、聞いてみましょうか」

 壇上の師匠から手招きされる。ぽかーんとする。多分ないって言ってたくせに、いきなり呼び出すじゃないか。

「引退棋士の九先生が……」

 ハメられた。内心毒づきながら、戦況について見解を述べる。糸遊と似た局面は何度も指していた。

 いくつかの選択肢を示す。大盤の駒を動かそうとする。一段目のあの駒を……届かない。

「師匠、あそこに手が届きません」

「頑張ってください」

 見かねた女流棋士が、笑いながら駒を動かしてくれる。私よりずいぶん背が高い。

 どうなっているんだこの大盤は。こんなに高い位置まで使うなんて聞いていないぞ。

 これは絶対ネタにされる。極力表情に出さないように気をつけながら、なんとかやり過ごした。

 疲れた。人前に立って嫌な思いをさせずに済んだ。そのことに安心する。そしてやっぱり疲れた。

 立会人の先生から声がかかる。

「いやー、九先生盛り上がってましたよ。ありがとうございます」

「あーいえ、あの大盤でかすぎません?」

「あはは、可愛らしかったですよ」

 下手したらセクハラとも取られない発言だ。いや、背丈ハラスメントか。

 そういう扱いは十二分に慣れている。睡蓮と会って、身長の話にならないことはほぼない。鍛えられたメンタルで、心の底から笑って応じた。

 この大盤解説もカメラに映っていたら、いずれ睡蓮にも見られることだろう。いじられる未来が想像できた。


 夕方の封じ手前の大盤にも呼ばれた。二段目なら届く、手を伸ばして力を込めた。二段目から一段目へ金を動かすだけ、ど真ん中の五筋だ。

「あっ」

 大盤の駒とはいえ、そんなに重いものではない。それが頭上にポロっと落ちてきた。慌ててリアクションしてしまう。

「すみません、すみません」

 謝りながら拾った金の駒を戻そうとする。届かない。すぐにベテラン棋士が手を伸ばしてくれた。助かった。

 会場から笑いが起こっていた。小さい引退棋士が必死に解説して、ちょっとポンコツ。後に放送のコメントで流れた内容らしい。

 その時の私がそんなコメントを知るわけもなく、封じ手直後の解説の前で引っ込んで一息ついた。

「今日はありがとう」

「いえ、また機会があればお邪魔したいです」

 立会人と副立会人、そして師匠とたくさん話せた。若手の刺激ももらえた。関係者枠でギャラの出る仕事ではないが、そういうことは最初から気にしていなかった。勉強代と思えば充分過ぎるほどのお釣りだ。

「今日はもう帰るのかい?」

「いえ、近くにホテルを取っているので、一泊してから明日のんびり帰りますよ」

 終局は帰宅後になるだろう。帰って自宅で結末を見守るつもりでいた。

 改めて控室でお邪魔しました、ありがとうございましたと、みなさんに声をかけて退室する。快く迎え入れ、お話をしてくれ、見送りも優しい人たちだった。とてもいい一日になった。


 ホテルにチェックインして荷物を置き、外食に出かける。お昼は旅館のものをいただけたので、夜は軽くでいいだろう。

 食事を終えて部屋に戻り、報告がてら糸遊に電話した。

『大盤解説見てたよ、連理ちゃん面白かった』

「面白かったってのはどう意味で?」

『だって、ぴょんぴょん飛び跳ねてたし』

 無意識だった。そこまで滑稽な姿を晒していたのか。

『頭に駒が落ちた時なんか大盛り上がりだったよ』

「仕方ないでしょ。あの大盤、近くで見ると凄く大きかったんだから」

『糸遊なら届くのになー』

「そう思うならこっちの世界でデビューすることね」

 糸遊も準備はしている。しかし、本格的に将棋を始めてまだ二年ちょっと。色々な道がある女流とはいえ、そう簡単な話ではない。

 通話中に師匠からの割り込みの連絡が入った。どうしたんだろう? お互いに寝る時間だったので、糸遊との話を切り上げて師匠と話した。

『どうにも明日の解説者が足りなくなりそうなんだ。僕も明日からの都合があって、出られそうにない』

「大変そうですね」

 愚痴の電話だろうか。緊急の理由らしいが、いつもの淡々とした口調なので緊迫感はなかった。

『そこで、明日の解説者に連理を推薦しておいた。明日はゆっくりだと言っていたね』

「なに勝手なことしてるんですか!」

『勝手に引退したんだから丁度いいじゃないか』

 いきなり奥の手を使われる。私はそれを言われると反論できない。ずるいなぁ。

 師匠に対してだけではない。それなりの立場がある状況でプロ活動を投げ出した。そういう見られ方があるのも自覚している。

『立会人の先生方も、是非お願いしたいと言っている。ここは一つ頼むよ』

「今日の他の先生方は?」

『残ってくれる人もいる。時間制限つきでね』

 なんということだ。たまの招待に呼ばれて気楽にやってきたら、とんでもない話になってきた。

「えーと、つまり、基本は終局までになると」

『そういうことだね』

 戦況は混迷を極めている。いつ終わるのか想像も難しい。

 これは最悪、明日中に終わらない可能性もある。明後日の出勤に間に合うだろうか。間に合わなくても、バイトの私ならいくらでも代わりがいる。情けない話だが今回の話に対して、全て都合がいい形になっていた。

「はあ、わかりました」

 これは糸遊だけでなく、木蓮さんにも伝えておく必要がありそうだ。

 明後日の出勤や、それまでの四人のことなど。Wildflowersの正規マネージャーの、上司としての木蓮さんに。


 そもそも、私より強そうな若手棋士に頼めばいいんじゃないか?

 朝になってそんな疑問を持ちながら、八時前には現地に着くよう準備する。

 スーツに防寒着でバイク。二日連続で同じ格好、同じ旅館に行くことになるとは思いもしなかった。

 現地に着いて、朝一で連盟にも連絡をした。緊急ではありますがお願いしますと、淡々とした総務部からの返事。後日、お礼だかお詫びだかって話をされたが頭に入らなかった。

「えー、何が何やらわかっておりませんが、本日もよろしくお願いいたします」

 控室に入り先生方に挨拶をする。笑って迎え入れてくれた。


 立会人の先生方は、対局開始の準備に向かった。

 昨日もいた勉強熱心な若手の先生とお話する。若手で私より二つ上、プロとしての伸び盛りなのだろう。AI研究がどうとかいう話になった。

「最近少し使ってみているんですが、何がどうやらという感じですね。パソコンもノートなので、そんなに使いこなせていないんですよ」

「そうなんですね。僕もパソコンに詳しくなかったのでおすすめで買ったんですが、やっぱり変わりますよ」

「弟子との研究もあるのでやっぱり買うべきなんでしょうね」

「お弟子さんの棋力は?」

「アマ初段くらいと言われてるようです」

 数か月前の話だから、今はもっと高いかもしれない。それでも憶測で言えるほど、私から見た糸遊の棋力判定に自信を持てなかった。

 目の前の若手棋士には、糸遊がアイドル活動を並行しているとも言えず、四月から高校生という情報しか与えていない。

「だったら尚更早い方がいいと思いますね。高校生になると、今より忙しくなるでしょうし」

「言われてみれば確かにそう思います。私も弟子も、記憶を頼りに盤へ駒を並べるのが好きなアナログ派なもので」

「僕もできることなら全部駒に触れて勉強したいですよ。それだと時間効率が悪いから、仕方なくって感じです」

 プロの先生でも同じ悩みを抱えていたんだ。そう思うと心が軽くなった。

 研究会の場では、たくさんの盤駒を並べて複数人で研究する。そういう時に一々画面を経由していたら話が滞る。好きな木製の盤駒に触れつつ勉強ができる、そんな研究会の魅力も教えてもらった。

「ていうか、研究会にも入っていなかったのは意外でした」

「協調性に欠けているもので」

「そうは見えないですよ」

 今はずいぶんと変わってしまったと自覚している。無機質に機械的に勝つことが求められる世界ならば、不正解の変化だったと思う。

 私は自身の変化を不正解と思っていない。他人に影響されて今がある。これもあるがままの結果だろう。きっかけはバックダンサーという異業種だったが、出会えた人がよかった。睡蓮に金井さん、ついでに亜嵐さん。

 思えば、木蓮さんとも瑞香さんとも長い付き合いになった。どこかでしっかりとお礼をしたい。事務所で普段から緩く絡んでいるのが懐かしく思う。明日からはあそこに戻るんだ。


 封じ手が開封され、二日目の対局が始まった。相変わらず人間の目線では混迷した局面だが、AIの評価は挑戦者有利に少し傾いていた。

 この局面は私も知らない。ただ、こう進めば知っている展開になる。継ぎ盤を借りて仮説を再現した。

 時間の流れが早く感じた。気が付けばもうお昼で、昨日のような昼前の手番渡しはない。すんなりと昼食休憩に入った。

 もうすぐ大盤解説の仕事が始まる。昨日は結果として場慣れの機会になった。凄くいい経験ができたと思う。しかし、あんまり話したことのない先生と、ローテで解説を回すというのは緊張感があった。

 そもそもこういう解説に出られる先生は、話巧者でもある。厳しい世界に見えてひょうきんな人、ひたすらに優しい人、研究家気質な人と色々いるが、この場に立つのは特に弁の立つ人が多い。

 私で大丈夫だろうか。昨日の女流棋士の先生もいる。一緒に頑張りましょうねと声をかけられた。私より三つ上の人気女流棋士。女流タイトルの挑戦経験もある先生だ。私のようなスーツではなく、緩めなフォーマルという大人っぽさが羨ましい。


 既に告知をされていたが、大盤開始の出だしで、急な事情で解説者が変更になったお詫びが告げられる。そして緊急で私が入ったことが伝わった。

 ブーイングはなかった。当然だ、そういうのはマナー違反。急な事情も公表されている。誰も文句は言わなかった。

 だとしても、よりにもよって私が抜擢されると予想していた人はいなかったようだ。あれって、引退した人だろう。永世の人だろう。ちょっとしたざわめきが広がった。

 自分でも緊張で忘れていた。棋界で名前に箔がついていることを。糸遊に舐めるなよと宣言しておいて、自分が忘れていては世話がない。自信に繋がった。

 とはいえ、急にトーク力が増すわけでもなく、盤面が広く見えるわけでもない。背も伸びたわけではないので、「うおお」と小さい声をあげながら一段目と二段目の駒を動かす時に笑いを買った。今はこれでもいいので盛り上げよう。

 話巧者は場の空気を読むのも上手い。あえて私に届かないアピールをさせて、「気づきませんでした」とすっとぼけてあとから駒を動かしてくれる。控室で少し仕込みもしていた。笑ってもらえれば何よりなので、上手く使ってくださいと。

 背伸びして駒を動かそうとすると、「頑張れー」「手伝ってあげようかー」という声援も届いた。温かい言葉に嬉しくなる。

 近くで見ていた若手棋士たちも笑っていた。思わず笑顔を返してしまう。背が低いことがいい武器になった。


 これが転機になった。

 現役時代にはずいぶんと無愛想だった私が、偶然参加した大盤解説会で笑いを取ったり、プロ棋士とお話して知名度が広がる。

 知る人ぞ知る寄付の話も話題を加速させたようだ。恩知らずから恩返しに、掌返しで報道されたことも印象に残っていたらしい。


 夜遅くなっても元気の尽きない私。これでも体力自慢で売っている。現役アイドルたちと走り回っても、体力で私に勝る者はいない。途中から控室で髪を巻き上げ、いつものかんざしで気合を入れていた。

 終局は夜の十一時過ぎ。挑戦者の勝利。

 大盤解説で対局者との会話にも混ざるよう言われた。気になった局面の話になる。挑戦者は私の最後の三連戦の、初戦の相手だった。重厚な棋風で苦しめられた記憶がまだ新しい。あれも去年のこの時期の対局だった。

 壇上の話を終え、挑戦者に話しかけられる。

「まさか九先生がいらっしゃるとは思ってもいませんでした」

「いやー、師匠の呼び出しに逆らえませんでして」

「お師匠は確か師先生でしたね」

「そうですそうです。いつも無茶ぶりされますよ」

 勝ってくれてよかった。気軽に笑顔で話せる。

 対局者にはその後も対応がある。私はあくまで臨時の解説者。大きな仕事はもうない。

 とても今から帰れる時間ではない。予定していた解説者が来なかった分、空いていた部屋を使わせてもらった。


 濃密な二日間だった。自慢になる経験ができた。そこかしこでチビとか出しゃばりとか言われたんだろうな。そう思いながらほくそ笑む。好きに言え、そんなことで傷付くほどやわじゃない。

 大浴場で女流棋士の方々と一緒になる。面白おかしく話をした。手足の傷も「やんちゃしちゃって」と軽く流しておいた。私の手の傷は棋界周知の事実でもある。足にも傷があることは知られていなかったけれど、必要以上に突っ込まれることはなかった。

 肌にいい温泉だからと教えてもらい、のんびりとお湯に浸かる。明日はバイクで寒い帰宅だ。今のうちに温まっておこう。

 浴衣を着る気になれなかったので、持ってきていた寝間着で旅館を軽く徘徊した。感想戦も終わり、報道陣が撤収したあとだった。

 静かなものだ。対局者や立会人の方々も、思い思いの時間を過ごしていることだろう。


 飲み物を買って、ロビーのフリースペースに腰を下ろす。糸遊たちとのグループメッセージで軽く報告しておいた。

 続けて電話をかける。まずは師匠だ。

『お疲れさま。急にすまなかったね』

「本当ですよもう。でも、やりきりました」

『満足そうじゃないか』

「まあ、私の棋風にあった局面でしたからね。糸遊との練習将棋の内容が活かせました」

『糸遊にもよろしく伝えておいてくれ。本当に助かったよ』

「はい、こちらこそ。とてもいい経験ができました」

 少しだけ瑞香さんの話をして、室内タップダンスのミニスカコーデの話でいじられる。あの動画も送っていたとは。


 次に亜嵐さんに電話した。木蓮さんはもう寝ているだろうから、電話で迷惑をかけてもいい社長に直接連絡だ。

『何だこんな時間に』

「起きてました?」

『プライベートの時間だ』

 カチカチと、マウスをいじる音が聞こえる。

「木蓮さんから明日のこと伝わってますか?」

『そのことか。忙しくなる前だしな。何なら一日追加で休んでこい』

「連休があけたばかりで休みが増えたら、だらけちゃいますよ」

『それは会社目線の話だろ。お前はこの二日間、かなり忙しかったらしいじゃないか』

 こういう時だけいい上司になる。ずるい人だ。

「これで何かの貸しだとか、今後また誰かを預かれとか言いませんよね?」

『それはどうだろうな』

「うわぁ」

『木蓮には伝えておく。気にせずゆっくり休んでこい』

「ありがとうございます。そうさせてもらいます」

 今日予定していた観光ができなかった分、明日の日中にあちこち回ろう。昼の方がバイク移動も凍えずに済む。

 日付が変わりかけていた。一つ欠伸をし、部屋に戻る。これならすぐに眠れそうだ。

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