23歳36_Invisible scars
炊きだしのような朝食を済ませ、小一時間のんびり過ごしたあと、糸遊と将棋道場に向かった。夕方には、凌乃の道場通いに合流する予定だ。
朝食のあと、木蓮さんが二人の妹に帰ろうと、ようやく声をかけてくれた。二人ともまだ帰りたくないようで、特に睡蓮は駄々をこねて帰ろうとしなかった。久々の大型休暇で、もっと満喫したいんだそうだ。
「でもねー。この人数だし、迷惑になるよ」
そうだよ。帰りなさい。口には出さず、木蓮さんに任せる。
「そんなことないよ。みんなもっと遊ぼうって言ってくれてるよ」
社交辞令という言葉を知らないのかな。案外、みんな本心で言っているかもしれないけれど。
「そうは言っても、服も借りたりしてるでしょ? 洗濯物増やしてるし」
大変なんだよね。この人数の服を洗うの。心の中で木蓮さんを応援する。
「じゃあ一回帰って、着替えとか取ってくるよ。元々はお昼からお酒飲んで、眠りこけてたお姉ちゃんが悪いんだから」
そう、木蓮さんが酒に潰れなければ、三姉妹は帰っていたはずなんだ。
「それは瑞香さんに勧められて……。三十路の圧には勝てないよ」
「誰が三十路よ。もうすぐ二十九のピチピチよ」
「それに連理ちゃんたちも、出かける用事があるみたいだよ」
「うー、もっと遊びたかったなぁ」
「連理ちゃーん。もっと居てもいいよね?」
「駄目だよ」
「ひっどー! 社交辞令とかないわけ?」
睡蓮こそ社交辞令を真に受けた結果、帰ろうとしないくせに。
「ここも本来は四人住まいの部屋なんだよね。そこに一晩くらい人が増えても問題ないけれど、連日大勢が出入りしたらあの子たちに変な噂が立つこともある」
「急に真面目な話だ」
「茶化さない。遊ぶなら遊ぶでいいけれど、ずっとここに居てもやれることなんて限られてるでしょ? どうせなら待ち合わせしたり、観光に行ったり、そういう遊び方にしようよ。ただ泊まるだけだと、退屈な思い出もできちゃうよ」
「はい。今日は帰ります」
「よろしい」
「連理ちゃんにお姉さんぶられた……」
それがショックで帰るんじゃないだろうな。しょんぼりとする睡蓮をじろりと睨むと、上目遣いでおねだりしてきた。
「たーだ、この連休中また遊ぼうね! 約束してよ」
「いいよ。二人でも十人でも」
「十人はなかなか難しいよ。現実見なよ」
「急に生意気になるじゃん」
「うわーん、帰りたくなーい。凌乃ちゃーん」
睡蓮は凌乃に泣きついた。凌乃は笑いながら軽く受け止めている。
睡蓮を呆れて眺めていると、木蓮さんから声がかかった。
「いやー、色々お世話になっちゃったね」
「本当に糸遊の出演番組を見たら帰る気だったの?」
「本当だよ、本当。お酒飲んだ時点で、どうでもよくなっちゃったけどね」
本当とか絶対って言葉を繰り返す人、怪しいことこの上ない。
「職場の上司が泊まりに来る、私の身になってよね」
「それを上司本人に言う時点で、まったく気にしてないでしょ?」
いつもの軽口のたたき合いだ。本当に事務所にいる気分になる。
「連理さーん。あたし、道場まで睡蓮さんたちの車に乗せてもらうね」
「はーい。じゃあ木蓮さん、凌乃をお願いします」
「大袈裟だなぁ。ただの帰り道だよ」
そろそろ時間だ。糸遊も準備を終えて、桜蓮と話している。こっちに来た。
「連理ちゃん連理ちゃん。車で行けないかな?」
「寒いからそれでもいいけど、どうしたの?」
「桜蓮ちゃんも、将棋道場に行ってみたいんだって」
「ご迷惑でなければだけど」
木蓮さんを見ると、軽い返事が返ってきた。
「わかった。帰りはそのまま車で送ってあげる。もう出るよ」
将棋に興味を持ってもらえるのは本当に嬉しい。桜蓮なら大歓迎だ。
前回同様、三時間程度を目途に、指導対局を引き受けることになった。
この間もいた人が大半だが、前回より少ない。年末ということもあって、今日いるのはやる気のある人の割合が高いそうだ。
質問があったので、指導対局の前に席主さんに応接室で相談をお願いする。
応接室のソファに向かい合って座り、不機嫌そうな顔でも案外陽気な席主さんに早速質問した。
「色んな道場で顔を売るような行為って、反感も買うのではないかと思いまして。席主さんの立場ならどうでしょうか?」
「引退しても、色々立場があるもんなぁ。確かに、プロの先生が代表のところじゃ煙たがられそうだが」
悪い人ではないことは知っているが、素が不機嫌顔なので考え込む姿に迫力があった。
「うちみたいに連盟の許可をもらっていて、プロの先生があんまり来ないところならいいんじゃねーか?」
「そういうリストとかあるんですかね」
「連盟で管理してるはずだぞ。あんた元プロなのに、そういうの知らなかったんだな」
「いやー、無愛想で売っていたようなものでして」
「今のあんたからは想像できないけどな」
今日は普段着同然のラフなパーカースタイル。将棋道場の中で指していたら、教わる側に間違われてしまいそうだ。
ジーパンとかカーゴパンツはアレかなと思って、スカートを履いていた。足元を隠せると思い、ちょっとだけ踵のある靴で身長をごまかしている。糸遊にはすぐバレた。
「つまり、そういう受け入れられそうな道場は、連盟に問い合わせるのが一番ということですね」
「そうだな。あっちこっち行くくらいなら、うちに来てもらいたいもんだけどよ。色んな奴と指してみたいんだろ?」
「はい、立場を利用した我儘です」
「あんた、面白い姉ちゃんだったんだな。おっと、元プロに失敬失敬」
薄くなった頭を自分で叩いている。ひょうきんな人だ。
「というわけで、今日もよろしく頼むよ。新しい子も指せるのかい?」
「ほぼ初心者ですけど、チェスの経験者みたいですよ」
「ほー、それはそれは」
応接室を退室しながらも雑談は続く。以前のような挨拶は断って、一通り対局風景を覗かせてもらった。
対局風景を見て実力の高そうな数名に声をかけ、一般客として対局を申し出る。全て承諾してもらえた。
今回は、私の現状の実力の確認が主な目的だった。糸遊に指摘された甘さを思いだす。隙を作って相手にチャンスを与えるのは、こういう場面の指導対局で使うべき技術のはずだ。教え方も実力の一つと考え、状況に応じて隙を見せる気でいた。
全てが上手くいくわけでもなく、年末で近所に来ていたという相手には負けてしまった。この中で見るからに一番強い人だった。思ったより、悔しさはない。ただ、楽しかった。
こういう実力のある若手が、プロ入り前の三段リーグで数年足踏みして散っていくこともある。私への勝利が、自信になってくれればありがたい。
対局した相手に感謝の言葉をもらった。私もお礼を返す。面と向かって人と指す将棋は楽しい。
桜蓮も楽しんでくれた。桜蓮と歳の近い男の子が、照れながら教える姿もよかった。その子アイドルなんだよって教えたら、どんな反応を示しただろうか。
前回同様、駒落ちの調整を席主さんにお願いして、数人の子供と多面指しをする。これもまた勝ったり負けたり。駒落ちの練習はあまりしていないので、他の教え上手な人と比べると雑になってしまう。申し訳なさもあるが、これはこれで楽しめた。
さっき私を平手で負かした相手から、再戦の申し出があった。改めて聞くと、既に奨励会入りしているらしい。師匠は大きな一門に所属する、一番弟子として有名な棋士だった。過去のタイトルホルダーでもある。
「失礼を承知で、今度は勝ちに来てほしいです」
プロ相手に言っていい言葉ではない。席主さんからも注意があった。
「まあ、私は元ですから」
努めて穏やかに場を収める。糸遊が相手を睨んでいた。生意気だと言いたげだ。
「十分将棋でもいいですか?」
「はい」
将棋のゲームにあるようなルールだ。そのレベルでよければ、というつもりで伝えた。
私としてもありがたい。立場があるとはいえ、しっかりと指して負けた相手だ。向こうからリベンジの機会をくれたわけだ。
終盤力はなかなか。詰将棋も相当やり込んでいるのだろう、糸遊より強いのはわかった。
それでも勝たせてもらった。心を折る目的ではなく、戦略的に、よりロジカルに。
「参りました」
「はい、ありがとうございました」
「今も練習されているのですか?」
糸遊を見ると、嬉しそうにしていた。
「はい、今も毎日あの子と。年間、五百局くらいのペースになるかな」
五百……と驚かれた。ほぼ全ての練習対局で、感想戦までしている。そのせいか、私と糸遊の結論が近いことが多い。だからこそ、お互いに違う刺激を受けるべきだと考え、糸遊は道場、私はネットや棋譜漁りで時間を使うのが日課になっていた。
「最近の人は、ゲームでもっと効率よく経験を重ねているんですよね?」
「ゲームはゲームですよ。まともな感想戦なんてできませんから」
確かにそうだ。ゲームはあくまで、経験と勝負勘を養う程度のものだ。AIで勉強できると言っても、指摘される局面や内容には限りがある。
だからこそ、こういう将棋道場やプロのいる研究会が重要になる。私は所属したことがないけれど、糸遊に伝えるために経験しておけばよかったと、少し後悔の念がわいた。
深く頭を下げて退室する。拍手で送られてびっくりした。
糸遊と桜蓮が笑っている。
「また連理ちゃんのファンが増えたね」
「罪な人だねー」
「何のこと?」
「強くて素敵なお姉さんだったってことだよ」
よくわからないことを言う桜蓮に言い返す。
「桜蓮に教えていた子こそ、ファンになっちゃったんじゃない?」
「アイドルのことは言ってないよ」
「Lotusの知名度なら、ないとは言えないでしょ」
「それは、そうかもしれないけど。迂闊だったかな」
そんなうわついたことを吹聴するような性格なら、こんな年の瀬に将棋道場なんて来ていないだろう。
そう慰めてあげてもよかったが、生意気な口を聞かれたのでこっそりと笑って隠しておいた。
「じゃあ、また今度ね」
「チャンバラセット届いたら教えてね。絶対行くから!」
「やりたいだけじゃん。桜蓮だけなら、うちに遊びに来ていいからねー」
糸遊も続けて声をかける。
「将棋もいっぱい指そうねー」
「糸遊ちゃんはチェスもね」
「チェスは難しいよぉー」
桜蓮を家の目の前まで送り届け、今度は道場へ向かった。車の中で糸遊に問いかける。
「今年の瑞香さんの誕生日プレゼント、何がいいと思う?」
「最近髪伸ばしてるから、髪留めとかいいんじゃないかなぁ」
「さてはずっと考えてたな」
「えへへ」
以前の瑞香さんは、ダークグレーのショートヘアにしていた。背が高くて動ける感じは相変わらず。髪が伸びてきたことで、魅力が増していると思う。
「その内、白髪が目立つようになるから白髪染めとか」
「絶対怒られるよ。連理ちゃん一人であげなよ」
「冗談だよ。私もかんざしをもらった時は嬉しかったから、ちゃんとしたの選びたいね」
「今は連理ちゃんのトレードマークだもんね」
「下ろした髪も、トレードマークのつもりだったんだけど」
「どっちも似合ってて可愛いよ」
「糸遊は優しいねー」
話しながら、道場付近の駐車場を探す。近場は軽車両用のスペースしか空いていなかった。路上駐車はまずいので、少し離れたパーキングから歩くことにした。こういう時、バイクだったり瑞香さんに譲った軽だったら便利なんだけどなぁ。
いつものように、道場一階のジムスペースで挨拶をする。そして二階に上がって道場主の部屋へ。糸遊は凌乃を見ているという。
「失礼します。九です」
「はい、どうぞ」
道場主は書類を読んでいた。
立ち上がって、応接用の椅子を示してくれる。いつものように向き合って座った。
「本日は年末のご挨拶に伺いました。今年も相談に乗ってくださり、ありがとうございました」
「これはこれはご丁寧に。最近、何か変化はあったかな」
「衝動的にタップダンスの世界に興味を持って、楽しみながら練習しています」
「タップダンスと。これはこれは」
「ご経験が?」
「いやいや、友人がやっているだけだよ」
あのダンススクールに通っている人が、そのご友人だったりして。だとしたら世間は狭い。
「あとは、自分の了見の狭さを思い知りました。まだまだ修行不足ですね」
「何かあったのなら、具体的に聞いてもいいかな?」
「はい」
桜蓮の話をする。自分以外が気づいていたことに、自分だけが敵愾心を持って気付けていなかったこと。そして、自分が何とかしたと思い込んでいたこと。
「第一印象に引っ張られてしまったんだね。以前も君は、第一印象で損をしていたと話していたはずだ」
「はい」
「二度目の失敗だね」
「そうですね。次は怒られると思うので、報告は隠すかもしれません」
「それも面白いね」
一度目の失敗は笑って許される。二度目は注意される。三度目はしっかり怒られる。だから失敗しないよう気をつける。
道場主と話すと、考えがすっきりする。物事には順序があり、秩序がある。遠回りでもいいので、最大効率ではなく最適を探そう。色々な言い方で、何度も教えられたことだった。
「お寺の方には連絡しているので、一月末頃に凌乃と伺おうと思います。この調子だと、私も鍛えてもらった方がよさそうですね」
「そうだね。何事も経験だよ。修行の必要がない人なんていないからね」
「先生もですか?」
「そうだね。わたしがいつも正解とは限らないから、人に相談しているよ」
いつも相談に乗る側の人だと、そう思っていた。そうか、この人も相談して模索しているのか。
頭の中が整理できた。どんなに凄く見える人でも常に考えているし、誰かに相談している。だから私の相談に答えてくれる。他人にする相談は、人から相談を受ける準備になる。
「私も色々な人に相談すべきですね」
「そうだね。私もいずれ、君に相談してもらうこともあるだろう」
「恐れ多いですよ」
「なに、簡単なことだよ。面白いテレビ番組があったかなんてね」
「実にタイムリーなお話があります」
昨日の糸遊の出たローカル番組、確かネット配信もされるはずだ。
「それは楽しみだ。相談してよかったよ」
むしろ、思い出させてくれてありがとうと思った。
用件が済んだので退室する。よいお年を。そしてありがとうございました。
凌乃はまだ練習中だった。糸遊が正座する隣に、並んで正座する。
「お話終わったんだね」
「うん、糸遊が出た番組も伝えておいた」
「なんでそんなの言うの!」
器用に小声で怒られた。
「面白い番組はないかって、聞かれたからつい」
「ついじゃないよぉ」
「そこ! 見学うるさい!」
「すみません!」
だって糸遊の変化を楽しめる、数少ない相手なんだもの。伝えないと損、もとい失礼になるというものだ。
師範代から怒られて、少々気まずさはあったが最後まで見学を許してもらった。
凌乃が着替えて出てくると、糸遊が凌乃に飛びついた。
「連理ちゃん酷いんだよ。道場主さんに、糸遊が出た番組教えたんだって」
「え、いいじゃん」
「よくないのー!」
「凌乃の出ていた番組も、近々放送されるもんね。それも楽しみ」
「あたしは別に、恥ずかしいことなかったしなー」
馬と凌乃の、満面の笑顔での触れ合い。あれは相当人気になると思うけれど、そこに恥ずかしさはないらしい。大したもんだ。
凌乃と一緒に声を出してお礼をする。あとは、大変失礼しましたと心の中でお詫びした。
「今日の連理さんの格好、どこか瑞香さんっぽいよね」
「スカートのせいじゃない?」
軽くその場で回る。スカートがふわりと舞った。空気が冷たくて後悔する。寒い。
「連理さん、まだ二十三でしょ? もうちょっと、やんちゃな格好すればいいのにな」
「昨日のワンピース似合ってたよね」
「そうそう。ああいう感じ」
「制服とスーツが勝負服だったから、そういうのは何ともねぇ」
恥ずかしい。その一言に尽きる。
「もったいないなぁ。せっかくあたしと結ちゃんで着替えさせても、すぐ元に戻るし」
「恥ずかしいの!」
車のドアを開けながら強く言う。二人はニヤニヤ笑っていた。
「そう、その瑞香さんへのプレゼント。どうしようかって糸遊と話してたんだけれど、凌乃はいい案ある?」
「んー? あのくらいの歳の人に、ファッション系は難しいよね。あたしたちの感覚じゃなぁ」
さりげなく酷いことを言っている。自覚はあるのだろうか。
「髪が長くなってきたから、ヘアアクセとかどうかって。糸遊と話してたのよ」
「それこそ子ども向けじゃない? それくらい自分で好きなの買うだろうし、髪切るかもしれないし」
「糸遊、私たち子供っぽいんだって」
「白髪染めよりはいいもん」
この裏切り者め。
「そういう凌乃は、何か考えはあるの?」
「瑞香さんお調子者なところあるし、サングラスとか?」
糸遊に小声で相談する。
「レッスン、厳しくなるね」
「サングラスの人って恐いもんね」
同じ見解だった。
「そういう偏見が駄目なんだよなぁ。お洒落なの、いっぱいあるんだよ」
「じゃあ、今から見に行こうか。どうせ今日は、もう用事ないでしょ」
「あたしはおっけー。それなら出かける時、もうちょい洒落た格好しとくんだった」
凌乃は何を着ても似合うから、気にしなくてもいいだろうに。やっぱり年頃の女の子としては、そういうところも気になるのだろう。
「糸遊もサングラスデビューかー」
「糸ちゃんには似合わないと思うよ」
「そんなことないもんねー」
うちでサングラスどころか、眼鏡をかけているのは勉強中の結葉くらいだ。
とりあえず、どんなものがあるのか見てみないことには始まらない。凌乃にアパレル系の店を教えてもらい、ナビを設定して車を走らせた。




