23歳25_Invisible scars
食器を片付けている間、思いだしたことがあった。
ケーキ屋さんの近くにバイクを置きっぱなしだ。
有料の駐輪場に停めているので、時間経過で結構な値段になっているかもしれない。急いで回収しなければ。
「ごめん、片付け任せた」
「どうしたの?」
「昨日からケーキ屋さんの近くに、バイク置きっぱなしだった」
「あはは、何やってんの。行ってらっしゃい」
凌乃に見送られ、小走りでバイク用の駐輪場へ向かった。
そうだ、ここは一日単位の値段だ。安心して料金を支払う。ついでに、そこらをバイクでふらふらしてみよう。
駅近くの広い道に出た。駅から出てくる中に、見知った後ろ姿があった。結葉だ。
食事を終え、友人と別れた後なのだろう。一人でゆっくりと歩いていた。教え通り、明るくて人の多い道を選んでいる。
「へい、お嬢さん乗ってくかい?」
「連理ちゃん?」
驚き顔の結葉の前でバイクを停車させる。一旦降りて、備え付けていたメットを渡した。
「どうして?」
「走りながら話すよ」
「それもそうだね」
結葉がキョロキョロと周囲を確認し、私に続いてバイクに跨った。背中に捕まるのを待ち、右折灯を点けて再度後ろを確認した。
ゆっくりとバイクを発進させる。柔らかい感触が背中にあった。結葉も育ったなぁ。何がとは言わないが、もう私より大きいんじゃないだろうか。背丈は最初から結葉の方が高かったけれど。
「こうして後ろに乗せてもらうの、久しぶりだね」
「最近は車移動ばかりだったからね」
「あれもあれでいいよね。でも、こうやって連理ちゃんにくっつけるの、あんまりないから」
より接地面が広がる。やっぱり大きい。背中が幸せだ。
「采女の胸いじりも納得」
「何か言った?」
「何でもないよ」
「もう」
笑っている。顔を見なくても、声のトーンでわかった。
「さすがに今の学校だと、下着までは作れないんだよね」
「やっぱり服とは違うんだ」
「違う違う。下着はもっと計算されているよ」
「それはわかる。みんなを連れていく下着のお店あるでしょ? あそこ、高校時代から使ってるんだよ」
揺れないための工夫がされた、オーダーメイドの調整が入った補正下着だ。私は背丈の割に大きなものをぶら下げているくせに、走ったり踊ったりが大好きなので通常の下着では支え切れない。
そのことは、一緒に住んでいるみんなとの共通認識の一つだった。同じ生活をして同じように洗濯している以上、お互いにサイズは把握している。
「さっきご飯食べてる時、凌乃の進学の話になってね」
「うん」
「采女が寂しくなるって。留年しろって言ってた」
「あはは、采女ちゃんらしいね」
「冗談なのはわかるんだけどね。まあ、面白かったよ」
「糸遊ちゃんもいたの?」
「同じ高校行くってさ。だから、采女に寂しい想いさせないよって」
「糸遊ちゃんらしいね」
「もう、本当に格好よかった。そして二人からもみくちゃにされたのが、これまた可愛くて可愛くて」
「あの二人相手ならそうなっちゃうよね」
頭をわしゃわしゃ、お尻を撫でられ、いつものこらー! 采女のセクハラはああいう時でも止まらない。
「うん、それでも格好よさを貫き通すのが糸遊なんだよねぇ」
「何か言ったの?」
「うん。『糸遊が皆のしんがりを務めてあげる』って。一番年下なのにね。というより、一番年下の自分だからこそできることだって、もう理解しているんだね」
「武士みたいだね」
「本当にそう。本当に、いつからあんなに頼もしくなったかなぁ」
「連理ちゃんに将棋を教わってからだよ」
「そう?」
「私と采女ちゃんは将棋続かなかったけど。多分、だからこそ糸遊ちゃんは続けたんだと思うな」
「どういうこと?」
「言ってたんでしょ? しんがりを務めるって。それって糸遊ちゃんが最後に残るから、連理ちゃんのことも一人にしないって意味だよね」
「そっか……うん、そうだと思う」
「ずっと前から、連理ちゃんのことも一人にしないって、そう考えてたんだと思うよ」
結葉の言葉を噛みしめるように考える。そうか、あの頃からもうそんなことを考えていたのか。
てっきり私が将棋を通じて、教える過程で成長したのだと、そう思っていた。そんなことは関係なく、むしろ糸遊は私を思って将棋を選んでくれたのか。
そうか。その頃からもう、覚悟を決めていたのか。
「連理ちゃん?」
「大丈夫。ちょっと考えただけだよ」
安全運転は維持している。大丈夫だ。
睡蓮の言葉を思いだす。私が守り、その後は私が守られた。四人と距離を取った時。いや、突き放したあとの話だ。
違ったよ睡蓮。私は最初から守られていたんだ。
少し遠回りして帰った。ツーリングと、結葉の感触を長く楽しむために。
今日はどこにも行かないつもりだったのに、結局外に出てしまった。仕方ない、ケーキに目が眩んだバイク乗りの末路だ。
このまま走りにでも行きたい気分だった。エレベーターに乗りながら少しうずいたけれど、今日は休むと決めた日だ。大人しく結葉と部屋に戻ることにする。
「結葉は来週から休みだっけ?」
「うん。凌乃ちゃんたちもそうだよ」
「じゃあ、週明けさ、お昼前に喫茶店行こうよ。みんなで浮草の働いてるお店に」
「行きたい! 行ってみたかったんだよね、浮草ちゃんの働いてる姿も見たかったし」
「結葉は一番遠いから、帰りに立ち寄れもしないもんねぇ」
月曜日もレッスンは予定されていた。すぐに年末に入るので、事務所も休みの期間に入ることになる。
年末の最終週のレッスンの前に、面白い店主と店員がいる美味しいコーヒーのお店に連れていく。いいご褒美になると思った。
翌日の日曜日も、昼頃までゆっくり過ごした。
采女は部屋でDVD鑑賞、凌乃は昼から道場通い、結葉は来年の受験に備えて既に勉強を開始している。
今日も、朝から糸遊と将棋盤を挟んで座っていた。将棋道場ではしっかりと時間制限がある。自宅の練習対局でも、チェスクロックを導入した。
先日の早指し大会の放送を一緒に見て、指し手の研究も進めた。一部の人から似ていると言われても、私と糸遊の判断は大きく違う。
動画になっている放送画面上で、目まぐるしく変化する状況にAIの評価が追いついていなかった。盤面の内容を、人力で入力する際にラグが発生するからだ。オンライン対局のような、画面上の盤面ならもっと素早く正確な評価が出ることだろう。
糸遊と共に朝食を取ってからぶっ続けで将棋を堪能し、少し休憩が欲しくなった。糸遊も伸びをしている。猫のような犬のような、そんな愛らしさのある伸びだ。
立ち上がって外を見た。この時期には珍しくいい天気だった。テーブルで勉強している結葉に近寄り、重ねられた参考書を一冊手に取る。
中学時代に勉強した、高校レベルの内容だ。わけあって小学生の時点で中学レベルは網羅していたので、他の人と勉強の時期とレベルに大きなズレがあった。
今でも内容は覚えていた。マッサージ資格の専門学校、受験資格は大学入学レベルの学力が求められるはずだ。この様子なら、来年ちょっと勉強すれば合格は難しくないかもしれない。
「連理ちゃん?」
「ああ、ごめん。邪魔しちゃった」
「この辺わかるの?」
「大体覚えてるよ。中学の時にやった記憶がある」
「中学? これ高校の内容だよ」
「言ったことなかったっけ? 私、中学時代に高校の内容はほとんど終わらせたって」
「そんなの聞いたことないよ」
結葉はぽかーんとしている。師匠の師匠から、将棋以外にやることがないなら勉強でもしていなさいと、参考書の類を山ほど渡された。
将来、高校生活とプロ棋士の両立が難しくなるだろうから、今のうちにこっちもやっておけと言われた。今思えば、とんでもない教育方針だった。
その前から交友関係に難があった分、勉強は先取り、部位鍛錬はこっそりやっていた。おかげで手足の傷が消えなくなり、筋肉も体力も学力もついた。
「じゃあ今度、わからないところ質問してもいい?」
「いいよ。覚えてればだけど」
「成績よかったんだよね」
「国立医学部一発合格、全国模試最高で二桁順位だよ」
以前采女を黙らせるために言った事実だ。つい早口で言ってしまう。
「うわ、また学歴マウントしてる」
「采女ー!」
采女がタイミング悪くやってきた。こちらを冷たい目で見るので、羽交い絞めにしてやった。
お昼を食べていると、采女がリビングのテレビをつけた。
結葉は気にしていないし、私も糸遊も将棋をしていない。食べながら暇だったので、采女と一緒にテレビを見た。
古い番組だ。何かの舞台だろうか。観客の笑い声が、作り物のように響いていた。ちょっとミュージカルチックな歌と踊りが始まる。
面白いものだ。今のシステムで成り立っている仕組みが、当時は膨大な試行錯誤と手作りで行われていた。歴史を感じさせられる。
場面が切り替わった。太鼓の伴奏に合わせ、一人の男性が出てきた。足音を踏み鳴らしている。音がいい。采女に音量を上げさせた。
舞台上の人が増えた。音と音が連動している。同時になると大きな音に、ずらしてなると波のような音に。動きと音が完全に連動している。これは凄い!
話に聞いたことはある。確かこれは、タップダンスだ。こんなに綺麗な動きと音を、人間が表現できるのか。
やりたい! 絶対やってみたい!
昨日見たチラシ、ダンススクール……あった! タップダンスと書いてあったのは記憶違いではなかった。見に行きたい!
「連理ちゃん? 急にどうしたの?」
「さぁ? テレビに興奮してたみたいだけど」
糸遊と采女の声が遠くに聞こえた。ここだ。電話してみよう。
「あの、ダンススクールのチラシを見て電話しているのですが。はい、はい、見学は可能でしょうか?」
年末の日曜ということも忘れ、勢いで電話してしまった。さっきの興奮が忘れられない。あの連動、音、繋がり。ぞくぞくした。
「九と申します。はい、はい。すぐに伺います」
よし、日曜のコースが昼からやっているそうだ。今日を逃すと年末年始の休暇に入り、当分タイミングがなさそうだ。
「ごめん! ちょっと出てくる!」
返事も待たずに飛び出した。昨日バイクを回収しておいてよかった。バイクの前に立ち、一旦深呼吸する。
焦るな焦るな、事故を起こせば元も子もない。ゆっくりと深呼吸。ゆっくり、ゆったり、丁寧に。
五回、深呼吸を繰り返して落ちついた。
よし、行こう。
バイクで十五分程、道場と同じ方向で、より遠くにあるダンススタジオへ向かう。
タップダンスの性質上、音響設備に気を遣っているのだろう。地図には郊外にある建物が示されていた。
ここでいいんだよなぁ。住所は合っているはずだけれど、どうにも個人宅のような建物だ。
入口が分かりづらかったのは、単に私の身長のせいだった。
無料駐車場ありと書いてあるチラシを再度確認し、そろーっとバイクを侵入させた。
空いたスペースにバイクを停め、入口でインターホンを鳴らす。
「先程連絡しました九と申します」
「はい、少々お待ちください」
受付の担当者がいるのだろうか。待たされることなく、スムーズに応対してくれた。
すぐに靴音が聞こえてくる。この音はもしかして、実際に練習している人が来てくれるのだろうか。リズミカルな靴音が耳に響く。
「本日は急なお願いで申し訳ありません。九です」
出迎えに来てくれた女性が、おやっとした表情で私を見た。とんでもなく綺麗な人が、私を見てにっこりと微笑む。この身長では無謀だっただろうか。
「いえいえ、見学はいつでも歓迎ですよ。こちらへどうぞ」
靴を脱ぎスリッパに履き替えた。あのコツコツとした音に、迎えに来てくれたこの女性の立ち姿、これは期待できそうだ。
高く響く音が心地よい練習場だった。
建物の地下に案内されると、すらりとした男女が何組か練習していた。十代くらいの子供から、五十を越えてそうな紳士淑女もいる。
指導しているのは高身長の男性、プロダンサーだという。これまた格好いい人だった。私と四十センチくらい差があるようだ。
カツカツコツコツと表現すると安っぽく聞こえるが、一音一音が心地よく響いていた。受付で名前を書き、端の方で見学させてもらった。
もう少しで練習に区切りがつくから、そこで説明をしてくれるそうだ。待つことに不満はなかった。間近でこの音を堪能できるだけでも大きな価値がある。
一番凄そうなコーチが、いきなり話をしてくれるわけではなく、練習していた紳士と三十過ぎくらいの女性が対応してくれた。
練習直後の紳士が興奮気味にまくしたててくる。
「タップダンスは深いよ。個でも集団でも、とにかく技量がそのまま音に出る。シューズも色々あるから慣れた物を選べばいいし、本当はもっと沢山の人でやれるとより面白いんだがね」
うんうん、うんうん。ずっと喋ってる。熱意が凄い。説明じゃなく説得。入れよお前、一緒にやろうぜって感じ。
「ちょっとちょっと藍郷さん、一人で喋り過ぎです」
「ああ、これは失礼しました。つい夢中になってしまいました」
「それだけ楽しいんですよね」
「そう、そうなんだよ。いやぁ若い子も理解してくれるんだねぇこういうの」
本当に楽しそうに喋る紳士だ。道場主や師範代、瓦先生とは全く違うタイプの大人。もちろん師匠なんか論外だ。
「それで九さんは、ダンスか何かのご経験が?」
「今はアイドル事務所のバイトをしていまして、一緒にレッスンを受けたりしています」
「なるほど。道理で背筋が伸びている」
「それは多分将棋のせいですね」
「将棋? 将棋、九。もしかして……」
「ごめんなさい、将棋のことはまた別の機会に」
この紳士も将棋を嗜んでいるのだろうか。ちょっとうるさくなりそうなので、一旦留めてもらった。
「それで、どうして急にタップダンスを?」
女性の方が追及してくる。少し警戒心があるようだ。
「はい、先程テレビでタップダンスのシーンがあったんです。それを見て、絶対にあの音を出したいと思いました」
「それでチラシを見てきたと」
「はい。昨日偶然入っていたのを思いだしまして、見学も可能とありましたし、年末で今しかないと」
「どういうタイプのダンスだった? 衣装とか」
この人も結構ぐいぐい来る人だ。口調がくだけて圧が強くなる。
「スーツだったかな? 男性はタキシードみたいな人たちでした。女性はドレスが多かったと思います」
「それは……正確にはタップではないけれど。ええ、ここでも学べますよ。和風なアレンジで上半身の動きが多いものもありますけれど、そういうフォーマルな方がお好みですか?」
「上半身がピシッとしてるのを見て、それを格好よく思いましたね」
やっぱり詳しい人なんだ。ドレス風の練習着で、背筋がすらっと伸びている。受付してくれた人は、周囲の人と比べると小柄だった。対して、この人は瑞香さんより高く見える。ヒールのせいだろうか。
「少し体験していきますか? 音の出し方に触れてみれば、より楽しさがわかると思いますよ」
「いいんですか? うわぁ、もうあの靴履けるなんて……」
思わず感動の言葉が止まらなくなる。警戒心が薄れたのか、女性は笑顔を浮かべていた。紳士もおだててくる。
靴のサイズは二十三センチ。色んな練習用の靴があったので、なるべく履きやすそうなスニーカータイプを手に取った。思ったよりも軽い。
「経験者?」
「いえ」
さっきまで練習場の真ん中で指導をしていた男性だ。その人が真後ろに立っていた。ひょえー、頭の位置が遠い。
「初心者ならこちらの方がいいです。まずはいい音を体験した方が楽しい。スニーカーは少し音がこもります」
道場主のような淡々とした雰囲だ。あの人と比べると、言葉が少し長いがテキパキとした印象を覚えた。
「ありがとうございます。これにします」
「はい、楽しんでください」
特に表情を変えず、言葉で押し出された。クールな人だな。年齢は師匠と同じくらいだろうか。
背の高い女性の元で、スリッパから靴に履き替えた。サイズは大丈夫、踏んでみてと言われ、座ったまま軽く踏んでみた。
カツンッ……。いい音だ。私が鳴らしたんだ。凄い。思ったより高い音が鳴るんだ。あまりの嬉しさに自分でも驚いてしまう。
床に当たる靴の部位で音が違う。そうか、あの多彩な音はこの部位の差なのか。
椅子から立ち上がり、上着を丸めて椅子に置いた。少し歩いただけで、コツコツといい音が響いた。
「もう感動しています」
「変わった方ですね」
素直な感想を漏らすと苦笑された。いやいや、これは凄い。自分が楽器になったみたいだ。
「では基本のステップをやってみましょうか」
足の動かし方を見せてもらう。片足ずつ、振り子のように足を揺らして音を鳴らす。金属部分だけを床に擦るような当て方だ。
おぉー! 音が綺麗に出る。踵をどう使うかで、音のパターンが大きく違ってくる。テンポを上げた動きを見せてもらう。凄く綺麗な音が響いた。
「まともに踊れるようになるまで、どのくらいかかるものでしょうか?」
「基礎は平均して三か月くらいかな。週三くらい、三十分ずつでも続けると身につきますよ」
意外と時間を使わないんだ。集中してやれば、もっと速く上達することだろう。
「あんまり根を詰めてやると、関節悪くしちゃう人もいるからね。関節周りが鍛えられてないと、長時間の練習はお勧めしないよ」
背の高い女性の口調が和らいでる。この方が話しやすくて好印象だった。
「身体は割と鍛えてるつもりです」
どれどれと女性がかがみ、私の脚に触れた。ちょっとだけビクリとしてしまう。
「凄い引き締まり方ね。失礼だけど、身長と体重を伺っても?」
「百四十四センチ、五十四キロです」
「なるほど、それで……先生ちょっと」
男性の先生がやってくる。受付してくれた女性も興味深そうにやってきた。この人、綺麗だなぁ。
「この子、じゃなくてこの方」
「子でも大丈夫です。扱いは慣れてます」
少し笑いを取れた。クールな表情の先生と、受付の女性も笑みを浮かべている。
「そう? 足の筋肉の付き方が凄いんですよ」
「触ってみても?」
「はい」
男性に触られるのは抵抗が……あまりないや。師範代にしばかれたり、瓦先生に動きを指示された時に割と結構あったことだ。
「凄いな。どれだけ鍛えてるんですか」
「バイトしながら、ダンスのレッスンを受けてるからですかね」
「それだけじゃ説明がつかないと思うけど」
「あとは道場に通ってました。知ってますかね、駅の裏にある」
「ああ、あそこか」
そうかそうかと、先生は納得顔になった。背の高い女性もなるほどねと呟いている。
「ダンスのレッスンと言ってましたね。そういうダンスに取り入れたくてこちらに?」
「いえ、タップダンスの番組見て、勢いで電話して来ちゃいました。でも、そういうのも面白そうですね」
先生がニヒルに笑った。
「やりたさが先で、使えるなら使うと」
「多分そういう気持ちです。失礼でなければですが」
「失礼なことはありません。やりたいならやればいいですし、どう応用していただいても構いません。ただ、最初にやりたいと思ってくださったのは嬉しいですね」
そうですねと、女性も紳士も口々に同意した。打算的じゃなかったからかな、純粋にやりたいと思ったのがよかったんだろう。
綺麗な受付の人も、柔らかな表情で見守っている。
「ただ、明日からここも休みなので、本格的な練習は年明けからになります。それでもよろしいですか?」
「はい。そう思って、今日急いで問い合わせましたから」
凄い行動力だと紳士が笑う。そうかな。でも、来て大正解だった。
「そのシューズはお貸ししますよ。ただ、底が金属製なので、もしあるのならば革底の靴で練習するといいと思います。床を傷つけないようにお気をつけて」
「靴のついでに、テキストもお渡ししましょうか」
背の高い女性が合いの手を入れる。
「そうだね」
「では、テキストをお渡ししますね。毎日でなくてもいいので、少しずつやってみてね。参考動画も見られるから」
「おぉー! いいんですか!」
なんだなんだ。どれだけ運がいいんだ私は。こんな身近に、やりたいことに触れられる場所があるなんて思いもしなかった。
女性が離れている間に、先生が質問してくる。
「ちなみにここまでは電車で?」
「いえ、バイクで十五分程です」
「バイクなら駐車スペースも取らないし、ちょうどいいですね。燈火さん、仮入会の登録だけしてあげてください」
「はい」
燈火さん、受付の女性の名前だ。綺麗で気品がある感じ。背丈は桜蓮と同じくらいに見える。ヒールを履いているので、実際はもう少し低いだろうか。それでも私より、十センチ以上は大きいだろう。
コツコツと鳴る靴に感動を覚えながら受付に向かう。歩くだけで楽しい。なんだこれは。さっきから興奮が止まらない。
「変わったお名前ですよね」
「はい、よく言われます」
漢字の欄に九連理、読みにいちじくれんり。住所と電話番号とメールアドレスも記入した。ダンス歴の欄あるけれど、大体一年くらいだろうか。ただ、レッスンを受けているレベルでしかない。
「どうかしました?」
「いえ、ダンス歴って、レッスンを受けているだけの期間も含まれるのかなぁと」
「入れておきましょう」
「はい」
一年未満にチェックを入れて記入が完了した。急な思い付きで動いてしまったが、いい結果に繋がる予感がする。
「将棋、見てました」
「え?」
「珍しい苗字の方の電話だったので、もしかしてと思ったんです。本物が来てびっくりしました」
紳士の娘さんだという燈火さんは、父の趣味に乗じてたまに将棋を指すこともあるそうだ。
「ちなみに同い年ですよ」
「そうなんですか」
「お友だちになれたら嬉しいです」
こんなに綺麗で気品のある人なら大歓迎だ。しかも同い年。さっきから感情も感動丸出しだったので、急に恥ずかしくなった。
「まだ見学されていきますか?」
「あ、急に飛び出しちゃったんで、今日は帰ろうかなと」
「本当に急でしたもんね」
「お恥ずかしい限りです」
この人は、ここ以外でも受付嬢か何かしているのではないか。そう思わせる落ちつきがあった。
今後もご縁があるだろうと、こっそり連絡先も交換する。
「年末年始はお休みだから、気になることがあったら聞いてください」
「いいんですか? 多分連絡しちゃいますよ」
「ええ、大歓迎です」
ありがたいお話だ。
燈火さんに見送られて外に出ると、外は暗くなりかけていた。




