23歳21_Invisible scars
桜蓮を送り届けた蘇芳邸の前。笑顔になった桜蓮がとても礼儀正しく頭を下げていた。
「今日はありがとうございました、とても勉強になりました」
毒気が抜けている。チャンバラ効果は大きかったのかな。偶然の幸運とでも言うべきか、明るい顔を見てこれまでの攻撃的な態度が嘘のようだった。
「睡蓮によろしくね。見学に来る時は木蓮さんに言えばいいはずだから」
「はい、ありがとうございます」
「それじゃ、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
車の中から四人も声をかける。なるほどね。桜蓮のことが少しわかった。
恐らくWildflowersのことを軽く見ていた。前回のライブを見れば、人気ユニットのリーダーとしてはそう判断してもおかしくない。
私への評価の変化はわからないけれど、少なくとも糸遊と凌乃については認めた。認めざるを得ないくらい、身体能力や真面目な練習姿勢に驚いたのだろう。
二人の得意分野だったということもあるが、それだけではない。桜蓮自身が動いてすっきりしたのだろう、気が軽くなったのかもしれない。
派閥と実力制、矛盾しているような歪な関係性のユニット。私の想像できないような、厳しい世界に桜蓮はいるようだ。
いかんな。勝手に決めつけるのはよくない。今日はいい方向へ進んだ。それでいいじゃないか。
浮草、瑞香さんの順に送り届けた。車の中で、凌乃は食い過ぎで悶えてうるさいし、糸遊は眠そうにしていた。この子たちが平和に過ごせるのなら、それでいい話だ。
玄関を開けると、お風呂上がりの結葉が廊下に出てくるところだった。
「ただいま」
「おかえりなさい」
「おみやげー!」
「ちゃんと挨拶しなさい」
「寿司だー!」
駆け寄ってきた采女を叱る。この子がいたら、桜蓮の評価はどうなっていたことだか。急に不安要素に感じてしまう。
お土産の寿司を持って、采女はすぐに去っていった。
「天むすもあるから、分けて食べてね」
「うん。ありがとう」
「一日放置しちゃってごめんね」
「ううん、それより凌乃ちゃんどうしたの?」
壁にもたれて唸る凌乃を見て、結葉は心配していた。
「いっぱい食べて、満足そうでしょ」
「どこが?」
キョトンとする結葉を促してリビングへ行く。
お土産の天むすは、店で食べなかった商品だった。見た目を確認させてもらいながら、結葉に問いかけた。
「先に何か食べたの?」
「お寿司って聞いてたから、チキンサラダを軽く食べただけだよ」
「結葉ちゃんはいいお嫁になるよ」
「ありがと」
采女がこともなげに言うと、結葉は少し照れた表情を浮かべた。
「采女は喉大丈夫?」
「うん。明日には治ってると思う」
声自体は問題ないみたいだし、単純に歌いすぎただけなのだろう。
「あんまりハメ外しちゃだめよ」
「うん、これおいしー」
二人がのんびりとお寿司をつまんでいる最中、廊下が騒がしくなってきた。凌乃と糸遊で、お風呂はどちらが先に入るか競争しているようだ。
面倒だから一緒に入っちゃえばいいのに。お茶を淹れながら呆れてしまう。
目の前の二人にもお茶を淹れる。私のお風呂はまだまだ先になりそうだ。
気分を変えに、走りに行くことにした。どうせなら風呂前に一汗流そう。二人に断りを入れて立ち上がった。
采女はお寿司に夢中でこちらを見てもいない。結葉が反応してくれた。
「今から行くの?」
「うん。昨日と今日、全然動いてないからね」
外食続きだったし、少しデトックスも必要だ。スポーツチャンバラだけでは、身体を動かし足りなかった。
「気をつけてね」
「うん、行ってくる」
結葉に見送られ外に出る。軽く屈伸してから、いつものルートを走り始めた。
今日出かけている時に、頭の中で引っかかっていたことを考える。
急にプロを引退した私が、色々な将棋教室に行ったらどうなるのかな。
席主さんの中にはプロ棋士もいる。自分の縄張りで、引退棋士が指導したいなんて言ったらどう思われるだろうか?
年齢的な引退をした先輩棋士なら、敬意を込めて受け入れてくれることもあるだろう。しかし、私のような前例のない引退棋士が申し出ても、受け入れてもらえないかもしれない。
やはり、こういう活動はリスクが大きい。師匠に聞いてみるべきだろうか。
将棋道場はプロの卵を探す場でもある。そういう道場は、将棋連盟に登録されているはずだ。糸遊を通わせている将棋道場の席主さんに聞いてみてもいいだろう。
桜蓮はLotusに私の元棋士の肩書を使うことも考えていた。私が将棋の活動をし、将来のアイドル活動に繋がったら売名行為になるのかな。なんだか間抜けな話だと思う。
ただ、それ以上にまだ知らぬアマ強豪を、将来の糸遊のライバル候補を知りたいという思いもある。私が簡単に糸遊に負けないために、色々な将棋界のトレンドを取り入れる場面にもなるだろう。
やはり私は、引退しても将棋から離れられずにいる。それが、とても嬉しく感じた。
考えがまとまった。自宅から五百メートル程の場所、今日の振り返りをしながらウォーキングに切りかえた。
成果は、桜蓮とのコミュニケーションを取れたこと。そして踏み込みがしっかりできたこと。スポーツチャンバラも楽しかった。
凌乃の太ももは大丈夫だろうか。怪我になることはないだろうけれど、つい実験台にしてしまった。
あの踏み込み、型をやって十分にお腹に熱を感じている時は、できるという確信があった。今はどうだろうか、身体は温まっているけれど、特にお腹に熱が籠っている感覚はない。
キョロキョロと周囲を見回す。誰も見てない。
アスファルトの歩道の上。あの感覚を思いだし、一歩深く踏み込んだ。足が痛くなりそうな、何の実感もない感覚だった。
過去三回の成功時の状況を思いだす。板張りの床、裸足、そしてお腹に熱を感じていた。
わからない。もし、瓦先生から仕事をもらい、こういう場所で実践を求められた時、期待される動きができなかったらどうしよう?
少し動きを研究する必要がある。音や地に響くような影響がなくとも、自分の中で成功した感覚が得られればいい。
踏み込んで、タメを作り、自分のタイミングで一気に移動する。成功した動きを頭で思い浮かべた。これをどこでも、どんな服装でもできるようになれば、私の動きのバリエーションが増えることになる。
エレベーターで上がり、自宅のドアを開けて小さく帰宅を告げた。反応はない。
「ただいまー」
もうみんな寝ていると思っていたのに、リビングに明かりが灯っていた。
「凌乃?」
「あ、おかえりー」
「どうしたの?」
「湿布探してて」
救急箱を入れている引き出しを開けた。めったに使うことがないので、凌乃もわからなかったのだろう。
「ごめんね、太ももだよね」
「いや、それがさ、鏡みたらこんなになっちゃってて」
凌乃がシャツをペロっと捲る。脇腹の辺りが少し変色していた。
それとは別に、背中までのライン。見事なプロポーションだ。ごくりと生唾を呑み込む。
「顔恐いよ」
「あ、ごめん」
あまりにも健康的な色香に目を奪われた。元々発育のいい子なのに、より引き締まって美しいアスリート体型になりつつある。
「他は太ももだけ?」
「それと両足の脛かな」
確かに結構やられているようだ。私もあちこち糸遊に引っぱたかれたし、お風呂で確認しておこう。
「他は大丈夫?」
「うん。普段動かしてる部分は平気だった。一人じゃ貼り辛かったから助かったよ」
「そうね、私も楽しんじゃった」
「あと、ごめんなさい。調子に乗り過ぎました」
「大丈夫よ。私なんてカエルだもんね」
「根に持つなぁ」
「桜蓮の前で恥をかかせようとするからよ」
「えー? でも、あれは浮草が一番悪いと思うよ」
「うん。あれは相当悪かった。あの子は基本、被害を受けずに逃げ切ろうとするからね。采女を見習ってほしいよ」
「采ちゃんは上手に立ち回るからなぁ」
采女はちょっかいをかけて捕まったあと、ちゃんと謝るのがいいところ。
浮草も今日は浮かれていたのだろう。久々に桜蓮と遊びに行ったからか、素の部分がいつもより垣間見えた。
本来の目的は撮影現場だったはずなので、急なスポーツチャンバラの訓練でやけになったのかもしれない。
「後悔があるとすれば、甘いものを食べ損ねたことかな」
「本当は凌乃のプリンもあったのよ。いつの間にか、瑞香さんが三つも食べてて驚いちゃった」
「数が合わないって思ったんだよなぁ。三十路のくせにがめつい人だよ」
「明日、伝えておくね」
「やめてー」
ふざけながら寝室に消える凌乃を見送り、救急箱をしまった。
今度、浮草のバイト先のプリンを食べさせてあげよう。今日の抹茶プリンより、高くて美味しいやつをコーヒーとセットで。
お風呂から上がると静かだった。みんな寝静まっている。キッチンの電気を点けて、コップで一杯水を飲む。
運転疲れもあったみたいで、しっかりと眠気を感じた。ベッドで意識を放棄しかけた頃、ドアが開くのがわかった。
「ごめん、起こしちゃった?」
「糸遊? どうしたの?」
「その、眠れなくって。一緒に寝ちゃ駄目?」
「いいよ。今日は頑張ったもんね」
糸遊は誰よりも動いた。そのせいで車で寝てしまった。眠れなくても仕方ない。
「連理ちゃん温かい」
「湯上りだからね」
「いい匂い」
「湯上りだからね」
同じ返事を繰り返すと、糸遊はじっとしがみついてきた。
「連理ちゃん、凄いことしてたね」
「凄いこと?」
サラサラの糸遊の髪を撫でながら問い返す。
「うん。深呼吸の先を、動きでやってた」
「踏み込んだ後の動きかな」
「そうそう。凌乃ちゃんが転げまわったやつ」
一緒に笑う。可哀想だったけれど面白かった。湿布を貼った感じ、肌に残ることはなさそうだ。
「さっきのランニングでね」
「うん」
「路上で踏み込みを思いだして、やってみたんだ」
「できた?」
「できなかった。無理したら足痛めそうだったよ」
「アスファルトの上じゃ無理だよ。響かないもん」
「響く?」
「うん、床の下の方に力が伝わる感じかな」
「そうなんだね」
「たぶん、レッスン場ならできると思うよ」
「わかった。明日やってみるね」
「うん。眠たくなってきた」
「私もよ。もう寝ようか」
「そうだね。おやすみ、連理ちゃん」
横向きになり、糸遊の頭を軽く抱えた。胸元に誰かがいる安心感が心地よい。気持ちよく眠れそうだ。




