23歳15_Invisible scars
二人の対局は目を見張るものがあった。最初はよくある序盤の作戦負け、糸遊の負けパターンかなと思った。
「ちょっと待ってて」
深呼吸した糸遊が髪を解き、そしてポニテに結び直す。気合が入ったらしい。
思わず笑みが浮かぶ。うんうん、ちょっとやそっとじゃその差は埋まらないよ。あーあ、簡単に捌かれちゃって……。
どうしても糸遊の味方として盤を見てしまう。
糸遊の時間がなくなる。うんうんと頭を動かして、勝ちの局面への道を探している。以前教えた三階建ての将棋盤の見方をしているが、勝ちへの道筋が見つからないらしい。
糸遊はしばらく考え、すっと背筋を伸ばして駒台に手をかざした。
「負けました」
「ありがとうございました」
工房主さんもほっと一息吐いている。いい勝負を見せてもらった。
「お弟子さんというのも納得です」
糸遊は気になる局面があったのだろう、私に話しかける工房主さんに夢中で質問を浴びせた。
それに応じる工房主さんもとても楽しそうだ。気が付けば、結葉も近くで見ていた。
「連理ちゃん仇取ってよー」
「仇ってあなた、胸を借りたんだから」
弟子が自分の仇を師匠に頼むなんて。思わず苦笑しながら工房主さんに尋ねた。
「お時間大丈夫ですか?」
「私の方はまだまだ大丈夫ですが、よろしいんですか?」
「ええ、私も指したくなりました」
地方にいるアマ強豪。どんなものなのか確かめてみたい。
糸遊との対局を見せてもらった直後だ。工房主さんの基本方針は変わらなかったので、ある程度情報を持った状態で対局できた。
確かに強いけれど、切れ味が欠けているような印象を覚える。地方ゆえの、経験を積みづらい環境がネックになっているのだろう。そんなに時間はかからずに決着はついた。
「参りました」
「ありがとうございました」
元プロといっても、現役の最後は上澄みで戦わせてもらった身だ。勝ちは譲らなかった。
「現役さながらじゃないですか」
「先日、将棋道場で練習したばかりなんです。そのおかげですよ」
本気で謙遜する。糸遊の相手としては格上だが、今回はある程度の余裕を持って勝たせてもらえた。
「糸遊、書いてくれた?」
「うん」
メモ紙に棋譜がずらりと並んでいる。私と工房主さんとの一局の内容だ。
糸遊には一番教えたことだ。言語化、要は出力行為だ。
言葉足らずだった糸遊には、言語化を徹底させた。最近では、観戦時の棋譜も書くようお願いしている。
一度書けば、自分の対局でなくてもおおよそ覚えていられる。ブツブツと呟きながら書くことで効果は倍増だ。
「お時間がなくて感想戦ができずに恐縮ですが、さきほどの棋譜になります。字の方は勘弁してあげてください」
「いいんですか? いやぁ、工房紹介に来てもらったのにとんでもない収穫ですよ」
現役時代にはやらなかったようなサービスだ。糸遊の勉強ついでなので、特にデメリットもない。
糸遊の対局だけのつもりだったので、思ったよりも遅くなってしまった。将棋盤の片付けはいいと言ってくれるので、そのまま立ち上がって車にお邪魔する。
駅まで送ってもらう車の中、さっきの局面のどこがどうとか、大会について色々話し合った。
現役時代にはなかったこの自由度に感動を覚える。面白い反面、もっと張り合いが欲しくなってしまった。
帰りの新幹線で、遅くなったお昼の弁当を食べた。
もう片方のロケはどうなんだろうと思い、スマホをチェックするも連絡は入っていない。
あちらはあちらで忙しいのだろう。問題があれば亜嵐さん経由で連絡があるはずだし、気楽に待つことにした。
少しして、結葉のスマホにメッセージが届いた。凌乃からだ。
写真がついていた。浮草が強張った顔で馬の前に立ち、采女が馬上から笑顔で手を振っている。
凌乃が馬の首に抱きついていた。ずいぶん仲よくなった様子で、ちょっと羨ましくなる。
思いだした、木蓮さんに報告しなきゃいけないんだった。慌ててスマホを握り、デッキに向かった。
「報告遅れてごめん。こっちは無事終了したよ」
『おつかれさーん、こっちもこれから帰るところ。あん、馬刺しキャンセル? あ、切るね』
あちらで誰が言い出したのかわからないが、馬に情が移って食べる気がなくなったのだろうか。まあ、好きにしてくれればいい。問題がないならなによりだ。
どういうロケになったのか気になるが、いずれ事務所にデータが届いて見せてもらえるだろう。
それ以上に糸遊の余所行きスタイル、あれを見せる時の三人と木蓮さんの反応が楽しみだ。今からわくわくしてしまう。
来週には睡蓮のライブ、そして瓦先生へのアポ取りと相談がある。明日は凌乃の道場の話、それにお寺修行の相談もあった。
まだまだやることが沢山ある。自分のレッスンもあるし、将棋も続ける。年末が近づいて気が急いているみたいだ。あれこれと考えてしまう。
窓際の席では糸遊が詰将棋を解いている。
隣に座る結葉が、こちらを見つめて不思議そうにしていた。
「連理ちゃん?」
「うん?」
「ニヤニヤしてたよ」
「色々考えてたら楽しくなっちゃった。それより結葉、撮影中ずいぶんと……」
「ああ、もう本当にごめんなさい。私も楽しくなっちゃって」
「次は気をつけなさいね」
「はーい」
小さく笑い合う。新幹線もいいものだ。
反省会は週明けが予定され、夜は自宅で今日の話を振り返った。
糸遊が凄かったこと、時間を忘れて将棋に耽ったこと、木蓮さんに連絡が遅れたこと。一つ一つの話題に、采女と凌乃から追及が入る。
凌乃の話も楽しかった。まず、浮草は乗馬できなかったらしい。馬の横に立って、一切動かなかったそうだ。
浮草の弱点を一個見つけたと凌乃は大喜びだ。采女もいじり甲斐ができたと大喜び。この二人に弱点を見せたら、当分いじられることだろう。
凌乃は色んな馬と触れ合えたことが嬉しかったらしい。乗馬目的とはいえ馬との交流も楽しみだったらしく、ずいぶん絵になったそうだ。
あちらでも最年少が大活躍。采女が軽快に馬を乗りこなし、撮影の華になったのだという。誇張があるかもしれないので、今度木蓮さんに確認しよう。
全員遠出で疲れがあった。お風呂の準備でジャンケンし、糸遊が負けて最年少いじめだとぼやいていた。
糸遊はそのまま一番風呂に入った。その後の様子を見ると、今日の敗北が身にしみたらしく、ずいぶん深く振り返っていた。
明日は明日でお出かけし、週末は睡蓮のライブに行く。十二月になる前なのに忙しい日が続いた。
楽しい忙しさだ。嫌な予感は特にない。昔は一人で出かけたらすぐに、監督不行届の問題になったのに。
それだけみんなが成長してくれている証拠だ。夏のすれ違い時間の作成は、空回りだったけれど覚悟は決まった。それがあって今がある。そう考えられることも嬉しく思う。
翌日、さっそく道場主の部屋にお邪魔していた。前回からそんなに経っていない。
「本日はご相談がありまして」
「何でも言ってごらん」
「はい」
私が贈った扇子を自然な感じで持っている。とても似合っていた。
凌乃の礼儀について話した。今は悪くはないが、悪乗りで将来損をする気がすると伝える。
伝手があったら、修行ができるようなお寺か施設を紹介してほしい。禅寺のようなものでしょうかと、詳しくない旨を謝りながら質問した。
「それは、本人が望んでいるのかな」
「はい。反省している様子です。それに、その場その場で切り替えができれば、礼儀正しさが武器になるのではないかと提案しました」
「礼儀が新たな武器になる……か。面白い考えだね」
道場主は立ち上がり、棚から取り出した資料を開いた。伝手を探してくれているのだろうか。
「ここも色合いが変わってきた」
話が変わる。何が始まるのだろう?
「道場とは言っているが、実際はスポーツジムのような形態だろう?」
「そうですね」
「君のように本質を求める人が減ったからね」
「本質ですか」
「健康になりたいというのは理解できる。運動としても、下でやっていることは悪いことではない」
下とは下の階、スポーツジムのような場所だ。二階にあるこの道場が、本格的に練習で使われることは少なかった。
「忙しいと、身体を動かして満足する人が増えるね。だからうちも成り立つ。しかし、それ以上考える人が少ない。君の教え子、糸遊さんの言う深呼吸の先に似ているね」
「そんな気もします」
「そういう意味で、剣道のような主流を維持できているところが羨ましくもある」
「羨ましいですか」
「うん、とてもね。ここでは私の教えられることが少ない。身体を健康的に鍛えることが主流になっている」
何かを紙に書いている。さらさらと、万年筆を使っていた。
「ここに連絡してみなさい。凌霄花さんは素直だから大丈夫だよ」
「そう言っていただけると、とても嬉しいです」
ありがたく紙をいただいた。達筆で読めなかったらどうしようと思ったが、しっかりとした楷書だった。
資料をしまう道場主に声をかける。
「質問してもよろしいでしょうか」
「はい、どうぞ」
「先生は普段、ここで何をされているのですか?」
ここにいる時はいつ尋ねても応じてくれる。留守の時もあるが、頻繁に出かけてはいないようだ。
「ゲームをしているよ」
「ゲーム……ですか」
「時間があるからね。麻雀を嗜んでいる。たまに店にも行くよ」
「物凄く意外です」
「ギャンブルと思うかい?」
「そのイメージはあります」
「深いゲームだよ。いつも正解がない」
「そうなんですか」
「興味が湧いたらやってみるといい。便利な時代だからね」
「はい」
ありがとうございました。
退室して少し考えた。麻雀? あの穏やかな人が賭け事を?
いや、お金をかけずにできるゲームだ。偏見はよくない。棋士の先生にも、趣味でやっている人がいることは何度も耳にしていた。
正解がないゲームと言っていた。将棋も結末はあるが正解はない。いつも分岐があって、後悔がある。勝ち負けの結果が目立つだけだ。
凌乃の練習を見学した。
端の方に正座してじっと見つめる。
打撃系の格闘でやるようなメニューばかりで、私が高校時代に少しだけ習ったものとは違っていた。
精神修行というより根性と肉体を鍛えるような、熱を持つイメージの練習だ。強気な人には合っていると思う。
私はどうなんだろう。将棋は勝負ごとだけれど、お互いによりよい手を探求するようなイメージがある。相手がいることに感謝があった。
勝ち負けで生活がかかる、という意味では勝負ごとだ。ただ、負けてもすぐに命や肉体を脅かすものではない。
今目の前でやっていることは、人間相手に実行すると命や肉体を脅かす可能性がある。しかし、どんなスポーツでも鍛えれば力がつくし、ぶつければ怪我もする。
私が高校時代に投げ方を教わったのも、「直接手をかけていません」というだけで辿りつくところは同じだ。打撃行為がなくても、相手が怪我をすることもある。
このスポーツが邪道で、こっちが王道。王道対邪道でいつも王道が勝つ。そんなシンプルな世界ならどんなに楽で退屈だろうか。
凌乃は楽しんでやっている。多分それでいい。やればやるほど強くなる。それを暴力に使わなければいい。そのこともここでは教えてくれている。それでいいと思う。
ただ、それだけでは足りないと思う。凌乃はここに馴染んでしまっている。失礼な物言いもキャラで成り立っている。必要以上の躾を諦められつつある。厳しく言ってもらえる間はまだいい。失敗を繰り返して到達するのは爆発、激怒、最悪は追放だ。
普通はそうならない。大人が見てくれているから、そうなる前に注意してもらえる。しかし、いずれ注意を軽いものとして受け取る。そして、他の練習生と諍いが起こる可能性もある。キャラで受け入れられるということは、差別が生まれるきっかけにもなるということだ。
いかんいかんと首を振った。考え過ぎだ。行きつくところまで行った場合の話でしかない。勝手に凌乃を想像し、行動を悪い方へ導いて想像している。ここの大人にも、凌乃にも失礼な話だった。
頭を捻って考えていると、師範代が来た。迷惑だっただろうか。
「やっていかないのか」
「いえ、もう退会してますし、見学だけで充分です」
「そうか。凌霄花が気になるか」
「はい、悪い想像をしてしまいました」
「悪い想像?」
隣に座った師範代さんに簡単に話した。わかりやすい相槌で、思ったよりも話しやすかった。
「それは、九が行きつくところまで行ったからこその考えだな」
私の考え……か。続きを促して話してもらった。
「普通は、サンドバッグやミットを殴っててそこまで考えないんだよ。この手が誰かを傷つけないかって。傷つける目的なら辞めさせてる」
「そういうのってわかるんですか」
「大体な。喧嘩自慢とか、妙に急所を意識するやつとか。効率的に人間を壊したがる奴はいるからな。あいつはその辺を考えず、楽しく動いているだけだ。心配するようなことはない」
「では精神修行みたいなものって、凌乃には不要ですかね? 礼儀も叩き込んでもらえるようなお寺とか」
「ここの指導じゃ不満か?」
「うーん、不満ではないんですが」
怒っているわけではないようだ。足りないものがあるのかと、知りたいだけのようだ。
「みなさんに甘えてると思います。ふざけた挨拶をして悪戯心を満たすような子どもっぽさというか。日常の友人関係ならともかく、ここは教わる場所ですから」
「そう言われちゃ確かになぁ。よく見てるな」
褒められて嬉しくなるが、今は私の気持ちはどうでもいい。
「それで、上でそういう精神修行の相談をしていたわけだ」
「はい。本人も無意識の失礼さに気づいてきたので、一度そういう厳しいところを経験させてもいいかなと」
「そういうことなら俺も賛成だ。あいつがやりたいって言ったんだろ?」
「はい。提案したら興味があるようでした」
「いいと思うぜ」
応援してもらった。話がわかる人だ。
もらった連絡先の紙を見る。日曜だが繋がるだろうか。見学を中断し、外に出て電話してみた。
若い男性の声が聞こえる。落ち着いた受け答えだった。受け付けておりますと簡単に返事をいただいた。
予約や料金、必要なものを確認しメモを取った。さっきいただいた紙の裏にペンを走らせる。
予定が決まり次第、予約の電話をもう一度すればいい。案外さっくりと話がついた。
凌乃の練習時間はまだある。もう見ている必要もない。道場の中で挨拶し、先に帰ることにした。
歩きながら他の連絡も済ませてしまおう。そう思って、土日も何もないと言っていた瓦先生に電話をかけた。
『おう、どうしたきゅーさん』
「ご無沙汰しております。少しご相談させていただけますか?」
『相変わらず硬いな。どんな話だ』
「急で申し訳ありませんが、どこかで練習に参加させていただけるような機会はありませんか?」
『ついにやる気になったか!』
「ああ、いえ、何といいますか……」
『悩んでんだな。いっちょ直接会って話そうや。来週暇あるか?』
「実は土曜日が睡蓮のライブでして、それにファン……えっと、客として行きますのでそれ以降でしたら」
『じゃ、来週の日曜な。来る時また連絡くれや』
「はい、ありがとうございます」
失礼しますと続けて電話を切った。
一息つく。電話続きで喉が渇いた。自販機を見つけてお茶を買った。
立ち止まって少し考える。日曜で仮予約しちゃったけれど、瑞香さんに声をかけるべきだろうか。
同行してくれるという話だったので、明日聞いてみよう。今日はもう、電話をしたくなかった。




