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23歳10_Invisible scars

 挨拶だけのつもりでも、道場主のいる部屋に行くには道場に顔を出すことになる。

 ドアを開け、道場の中に向かって頭を下げた。

「ご無沙汰しています」

 すぐに声がかかる。「おー、九!」「どうした、殴りに来たか」と、色んな声で出迎えられた。退会したというのに、ありがたい反応だ。

 凌乃も振り返って「あれー?」って言っている。すぐにトレーナーに叩かれ、ミット打ちを再開させられる。

 道場主のお弟子さんで、現場を仕切っている師範代さんがやってきた。

「おう、今日はどうした」

「今日はお約束いただいてないんですが、先生はいらっしゃいますかね」

「暇そうにしてるよ。会いに行ってやってくれ」

 いつもの二階にある個室にいると教えてもらい、頭を下げて一人で階段を上がった。

 コンコンとドアをノックする。どうぞという返事が聞こえてドアを開ける。

「失礼します。ご無沙汰しております」

「おぉ、君か。久しぶりだね」

 ソファを勧められた。道場主も奥のテーブルからやってきて、向かい合ってソファに腰かける。

「綺麗になったね」

「そうですか?」

「うん、洗練されている。迷っていない」

「ありがとうございます。発散できる場所を、ようやく見つけられました」

「それは何よりだね」

 うんうんと楽しそうに頷いてくれる。いつも通り、穏やかな雰囲気の道場主だ。

「その報告に?」

「はい。それと、これを」

 ケースに入れた扇子を、テーブルを滑らせるように渡した。気に入ってくれるだろうか。邪険にされるようなことはないと高をくくっていたが、改めて考えると近場の安物だ。反応を待って少しドキドキする。

「ほぉ。面白い品だね」

「近所で買ったものですよ」

「それでも嬉しいよ、ありがとう」

 道場主はケースから扇子を取り出すと、ゆっくりと開いて絵柄を確認した。藍色の紙に黒い骨組み。男性向きだなと思った一本だ。

「香りもついているね」

「落ちつく香りだと思いました。先生には必要ないかもしれませんが」

 落ちつかせるような香りは、という意味のつもりだった。男性に面と向かってプレゼントを渡すのは初めてだったので、思った以上に緊張して言葉が少なくなってしまう。

「そうでもないよ。うん、白檀か」

 見事に香りを言い当てた。凄い、私は嗅いでもよくわからなかった。

「お詳しいんですね」

「ケースに書いてあるよ」

 白檀の香り。うん? 今更気づいた。確かにケースに書いてあった。

 取り繕うように言ってしまう。

「ご存知でもあったんでしょう?」

「どうだろうね」

 ほっほっと楽しそうに笑う道場主に、遊ばれた気分になってしまう。どうせ知っていたのだろう。


 他愛のない話をした。今は、施設の主と客の関係だ。前より気軽な話し相手に感じた。

 相変わらず先生と呼ばせてもらっているが、プレゼントを受け取ってもらったことで勝手ながら親しみを感じている。

 以前は気負って話していた。教わった身で、勝手なことを言って申し訳ありませんというへりくだった気持ちがあった。

 二十分ほど話しただろうか。自然とお互いに笑みが浮かび、満足のいく話ができたことに喜びを感じる。

 さて、そろそろお暇しなければならない。立ち上がりながら確認した。

「お邪魔しました。また来てもいいですか?」

「いつでもおいで。見ての通り、暇してるからね」

 贈ったばかりの扇子でゆったりと扇いでいる。風格があって似合っていた。


 凌乃を待って道場を出た。「また来いよ」と色々なところから声をかけられた。

「また来週お願いします! ありがとーしたー!」

「ちゃんと言えー!」

 中から怒声が聞こえた。

「ありがとうございました!」

 悪戯っぽく凌乃が笑う。そして、改めて深く一礼した。

 凌乃は、少し礼儀が欠けているところがある。今の様子を見て確信した。挨拶くらい、もう少し丁寧にするべきだ。

「急にどうしたの? 迎えなんて珍しい」

「糸遊と将棋道場に行って、買い物したらちょうどいい時間だったからね」

 頷きながら凌乃は、糸遊の持つ紙袋に興味を示した。

「それが結葉ちゃんへのプレゼント?」

「うん、他にもあるよ。これは凌乃ちゃんの」

 糸遊が扇子を一本取り出した。赤い紙の扇子だ。

「ありがとねー。糸ちゃんが選んだの?」

「連理ちゃんだよ」

「まじ? ありがと。暑かったから助かるわー」

 私も糸遊も上着を着るくらいの気温なのに、この時期に外で扇いでいる。練習明けとはいえ、そこまで暑いこともないだろうに。

 それにしても、道路で扇子を扇ぐ人を初めて見た。どこかのドラマの旦那様のようだ。

「寒くなってきた」

「調子に乗るから」

 一度扇子を預かって鞄の中へ収めた。凌乃が寒がって糸遊に絡みつき、二人はキャッキャとはしゃいでいる。

 前を歩く二人を見比べた。どちらも背がすらりと伸び、大人っぽいボディラインに見える。

「凌乃は今何センチあるの?」

「身長? 百六十六とか七だったかな?」

 ちょい伸びたかもと、頭に手を当てている。

「糸遊も同じくらいよね」

 糸遊が凌乃を見て目線を確認する。少しだけ見上げる形だった。

「確かに糸ちゃん伸びてるね。もう、結ちゃんくらいあるかも」

「そんなにかなぁ?」

「瑞香さんほどじゃないけどね。あたしも少し見上げるし」

「糸遊はまだまだ成長期だよ!」

「それでダンスは苦しんでるんでしょ?」

「うーん、そう言われると確かに、そろそろ成長止まってほしいなぁ」

 贅沢な話だった。二十センチ以上、上の目線の世界の話だ。

「お尻の話?」

「お尻の話禁止!」

 バチーン。凌乃の背中を糸遊が引っぱたいた。本当に、ことあるごとにネタにされている。

 痛がると思ったら、やせ我慢で耐える凌乃。そのままこちらを振り返った。

「成長と言えばさ。最近一番成長してるの、連理さんだよね」

「私? 嫌味ならご飯抜きにするよ」

「違うって。女としてだよ。元から綺麗だったけど、最近色気凄いの気づいてる?」

 色気? えっちぃ奴か。指導対局の女の子にも、道場主にも言われた。

「何人かに言われたけれど、正直自覚ないよ。身だしなみも最低限しか気にしていないし」

「そこなんだよねー。あんまり飾らないっていうかさ」

 聞いてる最中に首筋が寒くなってきた。かんざしを抜いて髪を降ろすと、首周りが暖かくなる。

「そういうとこ! 髪を上げたりまとめたり。エロいんだよその動きが」

「わかる! 糸遊も真似したい」

「あんたは万年ポニテでしょうが」

「外せばいいの?」

「ほらほら、危ないよ。はしゃぐのは帰ってからにしなさい」

 人も車も少ないとはいえ、夜の路上だ。転んだりでもしたら怪我をしかねない。

 はーいと答える二人を、自販機の前で呼び止めた。温かいお茶を三人分買い、温まりながら足を動かした。

 二キロ近くある、道場から自宅への道。本来なら車かバイクでも使う距離だ。それを並んで歩くのが楽しかった。

 この辺走って帰ってたっけなぁーと、少しだけ懐かしくなる。


 結葉の誕生日まで、まだ数日あった。

 本命の巾着袋は隠しておいて、今日のお土産として采女と結葉に扇子を渡した。

 それらしい機会がなければ、なかなか手にしないものだ。珍しさに喜んでもらえた。買って大正解だと嬉しくなる。


 翌日、出勤前に浮草にも渡した。行きつけになった純喫茶は浮草のバイト先だ。

「お客さーん、困りますぅ。お仕事中にこういうのは」

「別にいいよ」

 浮草の小芝居を店主が切り捨てた。この二人は相性がよすぎる。

 しっかりとバリスタとしての修行を積んだという店主は、四十過ぎの女性だった。

 この人の淹れるコーヒーは本当に美味しい。私はいつもブレンドを頼んでいる。

「淹れたてが一番だから」

 という理由で持ち帰りもしていない。事務所へのお土産に欲しいくらいなのに。

 そういう、職人気質なところが格好いいと思う。それでいて、浮草のような変な子も受け入れている。この人もある意味変人なのだろう。

 それにしても、事務所の近くでこんな店に出入りできるのは幸運だった。浮草に感謝している一番のポイントかもしれない。

 店主と話しこむことはあまりないけれど、通う度に微笑んで声をかけてくれる。そういうところも大人だと思った。

「扇子って結構パリッとしてるんだねー」

「濡れちゃまずいでしょう。後にしなさい」

「はーい」

 カウンターの中で扇子を開く浮草を嗜めている。いつもの光景、浮草は浮草でバイトが楽しそうだ。

 凛とした佇まいの店主を見てしまう。この人なら、男っぽいタキシードなんかも似合うんだろうなと考えてしまった。

「なにか?」

「いえ、すみません」

 追加注文と思われたかな。それならいいけれど。

 コーヒーカップに視線を落とし、店主に似合いそうな服を想像した。タキシード、燕尾服。そういうパリッとした洋服。

 そういうものを着て踊るダンスがあるはずだ。足を打ち鳴らすような、タップダンスって言うんだっけ。社交ダンスだったかな。

 ダンスとなると興味が湧いてくる。最近瑞香さんのレッスンを受けているせいか、どういうジャンルのダンスがあるのか気になっていた。

 時計を見ると、出勤する頃合いになっていた。お会計を済ませて店を出る。

「毎度ありぃー」

「毎度どうもねー」

 二人の声が送り出してくれた。そして、店主が浮草に毒されかけていた。やけに軽い口調だ。

 この純喫茶が居酒屋風になっても、また来たいと思えるだろうか。そうなったら嫌だな。

 事務所までは徒歩三分ほど。今日も瑞香さんにレッスンをつけてもらう予定だ。

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