22歳17_傷だらけの棋士と四人の少女
その日の夜、お風呂あがりの糸遊を呼び、将棋盤を挟んで座った。
普段ならここから将棋のお勉強の時間だ。ただ、今日はもっと違うことを伝えたかった。
「今日いいことを聞いてきたんだ」
「そうなんだ」
「聞いてくれる?」
「うん、教えて」
道場主から教えてもらったこと。頭の中で整理していたから、伝えるのに十分もかからなかった。
糸遊は考えている。うーん、ふむ、うーん。悩んでいる様子も可愛い。
糸遊はうんと頷くと、真っすぐに私の目を見つめてきた。
「連理ちゃん」
「なあに?」
「糸遊ね、それ知ってるよ」
「そうなんだ」
「うん、剣道で習った」
「そうなんだね」
教えるつもりだったのに、糸遊はもう知っていた。自分でも意外なことに、残念な気持ちはなかった。嬉しくなって続きを待つ。
「糸遊からも教えてあげるね」
「何を?」
「深呼吸の先」
先って何だろう。
小さな呼吸音の後、糸遊の雰囲気の変化を感じる。集中している時のようだ。
「このままね、息と一緒に考えを吐き出すの」
「ブツブツ言ってる奴?」
「うん」
「できるだけゆっくり、一回を長く」
「できるだけ長く」
「そう」
今巡っている思考はない。落ち着いているので何かを思い浮かべるところから始める。
目を瞑り棋譜を思いだした。現役最後の対局だ。三百手超の長い棋譜、全てを流れとして記憶していた。
ゆっくりゆっくりと吐き出す。迷った局面もすらりと符号が口からこぼれた。意識がふわーっと軽くなった。
落ち着いて納得できた時、こういう感覚になったっけ?
「わかった? それだけだよ」
「これでいいの?」
「うん。ふわっとした?」
「した」
「じゃあ、大成功だね」
これまでは頭の中のものがぐるぐると回り、ちょうどいい落としどころが見つかった時、ようやくこの状態に入っていた。
転がっていた玉がストンと穴の中に落ちるような感覚。正に腑に落ちるという感覚そのものだ。
今までの考え方とは違うアプローチなのだろう。それか今までが遠回りだったのかな。
「糸遊は凄いね」
「連理ちゃんの方が凄いよ」
「そうでもないよ」
「ううん、すぐにできたもん」
道場主の話の後だからだろう、凄く落ち着いていたからだと思う。
糸遊と道場主、二人を会わせてみたいな。
どんな会話になるのか、楽しみになる。
ただ、まだいいかな。糸遊が会いたいと言ったらにしよう。
焦らず、ゆっくりゆっくり、ゆったりゆったり。急ぐことは何もない。
翌日の出勤から気分が違っていた。
確認作業を終え、暇な時間ができる。ただ、焦りはなかった。
外を見たり、資料を読んだり、二人と話したり。それでも三人の話が途切れる瞬間はある。
全員が暇を感じる時間帯だ。
二人はそれぞれのリラックス法がある。やることもある。
これまで、余裕がないのは私だけだった。
今こそ実践するべきだろう。椅子に座ったまま正面を見て、目を細めて呼吸に意識を集中した。
ゆっくり息を吸い込む。
少しずつ吐き出す。
もう一回。
吸ってー。吐いてー。
うん、いい感じだ。
もう一回。
吸ってー。
「ひっひっふー」
「邪魔しないで」
「ごめん、見てて面白くて」
笑う木蓮さんを追い払い、少し吸い直して、また吐いた。
よし、落ち着いた。
「連理ちゃん、なんだか仙人みたいになってきたね」
「浮世離れしてる?」
「そんな感じ」
それも悪くない。道場主が仙人みたいな雰囲気の人だ。あの人に似ていると言われるのならば、誉め言葉として受け取れる。
「昔はずーっと張りつめてる感じしたもんね」
「多分、余裕がなかったせいだね」
「今はあるの?」
「全部余裕です」
「言うねぇ」
私たちの会話を聞きながら瑞香さんがクスクス笑っている。
和やかな雰囲気を楽しんでいると、ガチャリと事務所のドアが開いた。亜嵐さんが久々に顔を出した。
「久々だな」
「あ、おつかれさまです」
三人で亜嵐さんに頭を下げた。
ちょうどいい、四人のレッスンを見てもらおう。
Wildflowersは三人より四人の方がいい。これまでは言葉で伝えるだけだったけれど、本物を見れば意見が変わるかもしれない。
木蓮さんが手を打っていた。レッスンの光景を動画に納めていたのでそれを見せる。いつの間に撮っていたんだろうか。
「これだけでは判断はつかんが、言いたいことはわかった」
亜嵐さんがちらりと時計を見る、そして私と木蓮さんを見て言った。
「すまんが夕方六時までだ。それまで待って揃わなかったら後日にしてくれ」
どんなに早くても全員が揃うのは四時半。結葉以外は心配ない。
しかし結葉は遅い時、事務所に着くのが六時半なんてこともある。
このチャンスを逃したくない。その一心でメッセージを送った。今日何時頃になりそうか尋ねた。
あ、まずい。まだ授業中だ。しまった。
いや、結葉なら電源を切るか、マナーモードにしているだろう。
念のため、先に迎えに行くことも考える。電車の大回りに比べれば少しは早く到着できるはずだ。
深呼吸して考えなおす。今焦って何になるというのだ。
そもそも、どのタイミングで学校を出られるかの方が重要なのだ。返事を待って、それから考えよう。
ただじっと待っていても無駄だったので、四人で簡単な会議を始めた。
主に私たちからの報告会、そして亜嵐さんからのデビューに関する周知事項の通達だ。
二十分程で終わり、緩い雰囲気になった。
亜嵐さんと瑞香さんが立ち上がり、飲み物を補充している。
ほっと落ち着くとまた不安になった。目の前にいた木蓮さんに声をかけた。
「迎えに行った方がいいかな」
「気が早いよ」
確かに、まだ授業も終わってないだろう。
「なるようになるって。落ち着いたんじゃなかったの?」
「亜嵐さんのせいで落ち着かなくなった」
「わからないこともないけど」
「何が誰のせいだ」
「私と亜嵐さんが会う時、大体私が大変な思いをするって話ですよ」
「退屈だったんだろ。ちょうどいいじゃないか」
「そういう話じゃありません」
「ほーう」
亜嵐さんが顔を近づけてきた。じっと目を合わせる。
「その割にずいぶん落ち着いたみたいだが」
「昨日は取り乱していました」
「気持ちはわからんでもない。私も焦ってばかりだ」
「亜嵐さんの場合は忙しいからでしょう?」
「忙しさの原因は何だと思う?」
「時間ですか」
「待ち時間だよ」
そうなんだ。言われてみれば確かにそうだ。待っている間にあれができた、これができたと後から思うことがある。
「特に人の反応待ちのな。お前が三人を預かるか、必死に考えていた時もそうだった。答えを待ってずっと焦らされた」
この人のこういうところ、何だか憎めないんだよなぁ。
木蓮さんを示し、亜嵐さんが言葉を続ける。
「こいつみたいに」
「おおん?」
「全く焦らない奴相手、の時は特にこちらが焦らされる」
「嫌だなー。褒めても何も出ませんって」
確かに、木蓮さんが焦りを見せることは少ない。面と向かって話し合う時、一方的に焦らされることもある。
木蓮さんは常に余裕を持って構えているのだろう。時間がないと伝える時も、あと何分と目測をつけてくれる。
話し込む三人から視線を外し、時計を見上げて考えた。
もうすぐ誰かが帰ってくる。
ただいまと言われておかえりと答える。
職場というより第二の家になったような、そんな気分になっていた。




