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22歳10_傷だらけの棋士と四人の少女

 順位戦最高峰への挑戦は夢でもあった。

 それを十年という区切りで成し遂げようとした。

 無謀だった。

 限界まで続ければ、まだチャンスはあるかもしれない。

 それでもここまでと決めた。運任せの挑戦なんて真っ平だ。

 仮にこれから全部勝てても、運がよければでプレーオフ進出。

 そこで勝てたら頂上への挑戦権を獲得できる。

 ただ、他人の負けを祈ってのおこぼれちょうだいは嫌だった。

 自力の目がないなら終わりにしよう。

 全部勝って終わりにしよう。


 袴を予約していた。

 黒を基調とした地味めのものだ。

 レンタルではなく購入を決めた。

 残り三戦の勝負服だ。

 以前師匠に引退の相談した頃、採寸してもらい予約していた。

 凌乃に化粧を頼んだ。

「ばっちり仕上げるから任せて」

 瑞香さんにも監修してもらい、隙はなかった。

 愛用のかんざしで髪をまとめる。心も引き締まる思いだった。


 既にいくつかの棋戦を辞退していた。そのころから予想されていたことだった。

 報道陣に囲まれるが、「関係ないでしょ」という態度で通り過ぎる。

 私の引退は既定路線に乗っていた。

 それでもここからの三連戦、どれも負けるつもりはない。


 一戦目、奇襲奇策の通用しない相手だ。

 棋風と指しまわしの重厚さに心が折れるかと思った。

 得意な状況に持ち込めない。ずっとずっと苦しい時間が続いた。

 ただ、一つだけ光明が見えていた。持ち時間だ。

 私の早指しは短期決戦用。そう自分で考えていた。

 それだけではなかった。時間差による優位は長時間の対局でも活きた。

 時間配分のお陰で辛勝する。

 しかしここからだ。


 二月の対局。永世タイトルホルダー。伝説の一人だ。

 全盛期はとうに過ぎている。そのはずなのに、簡単に勝たせてくれるような相手ではなかった。

 まるで、「終わるのならば、ここで介錯してやろう」と言っているように思えた。

 終わる奴に星を渡さんと言わんばかりの猛攻だった。受け将棋に潰されかけたあとの、この攻め将棋。

 自分のバランスが崩れかけるような錯覚に陥った。

 本当に殺されるのかと思った。攻めと急戦が持ち味の、私の棋風が完全にお株を奪われていた。

 相手の先生が立ち上がる。少しだけ息を整える時間ができた。

 深呼吸する。

 糸遊に教えた立体視で分析した。糸遊に教えたのは各階層に一面ずつの基本だけ。

 私の中では各階層に複数の盤面が並んで見えた。ただ、現在地からは三階は見えない。

 まだ二階に行ける。一階に寄っているのは理解できた。

 糸遊の真似をしてみる。首を縦にコクコク。

 これ、いいかも。

 他の人には首の運動のように見えるだろう。下手したら奇行と思われるかもしれない。袴姿のお陰でごまかせたと思う。

 対局相手が帰ってきた。首の運動ですよー、まだまだやりますよー。無言でそんなアピールをしたつもりになる。

 お、なんだこんな手が。

 ふと見つけた一手に希望が見えた。三階への景色が一気に広がる。

 気が付けば微笑んでいた。なんだ、視界が狭くなっていただけだったんだ。

 昔、負けそうになったら諦めの気持ちで浮かんだ。私を笑わせたら勝ちなんて噂された。

 それは古い私の話。今の私は別物だよ。笑みを浮かべて悠然と手を進める。

 最後は楽しんでいた。

 相手の手が予想通りに動いた。うん、それしかないよね。最後に応じた手を見て相手が息を吐いた。

 相手が頭を下げる。

 ありがとうございました。

 この時点で他の挑戦者候補が勝利したことを知る。

 プレーオフの条件はなくなった。これですっきり終われる。


 最後の対局。

 これまでの対局とは違い、遠距離の移動があった。ここで最後なんだと改めて思い知る。

 相手は永世タイトルホルダー、しかも複数持っている人だ。

 生ける伝説だ。普通なら勝てっこない。でも、どんな棋士も勝率は百パーセントではない。

 道を譲った時に頭を下げてくれた人だった。若輩者相手にも腰が低い素敵な先生だ。

 先に対局室に入られる姿を見る。やはり礼をしている。倣って礼をした。

 対局室に入る瞬間の私を見ていた。うん、と頷いてくれた。

 将棋盤の前に座る。おや、と思った。和服を着ておられた。順位戦の男性参加者は基本スーツのはずなのに。

 まだまだ対局時間前だった。普通なら対局相手と会話なんてしない時間だ。

 お互いに将棋盤を見つめている時、ふいに声をかけられた。

「お辞めになられるそうですね」

「はい」

 込み上がってくるものを感じる。まだ対局前だというのに、感情的になってはいけない。

「いい一局にしましょう」

 普段なら舞い上がりそうになる言葉だ。それでも冷静に一言だけ返す。

「はい」

 この人が最後の対局相手でよかった。

 最後に挑む側でよかった。私が上座だったら、きっと駒を出す時に手が震えていただろう。

 ゆっくりと、相手と交互に駒を並べる。その時間すら名残惜しかった。

 対局開始の合図をされる。

「よろしくお願いします」

「よろしくお願いいたします」

 挨拶をはっきりとした。

 相手はうんうん頷いていた。癖なのは知っていた。

 前の二戦とは違う感覚があった。

 糸遊を見る時に似ている。集中している糸遊を見る時、私も集中できていた。

 多分あの状態だ。きっと今、いい感じなのだろう。


 昼食休憩に入った。対戦相手は席を離れている。

 手持無沙汰になり、映像用カメラが並んでいる方を見た。カメラの配置って、こうなっていたのか。

 不意に興味が湧き、ちょっと寄ってみる。何となく頭を下げる。照れくさくなった。多分奇行だと言われているだろう。

 席は立たなかった。固形の栄養食とゼリーを大量に持ち込んでいた。必要な時に摂取すればいい。

 昼食休憩の終わりを待つ。落ち着かない。上を見る、下を見る、左を見る、右を見る、カメラがある。

 急に馬鹿らしくなって、ハハハと笑ってしまった。見えない相手と笑っているような自然な笑みが出た。

 あとで見返したらとんでもなく恥ずかしい様子だろう。

 でも、それは今の私じゃない。未来の私よすまん。


 この人との対局は二度目だった。

 他の順位戦が終わったのか、報道陣が騒がしくなる。

 もうすぐ二百手を越えるだろう。局面は混迷していた。

 入玉は嫌だった。最後まで指させてくださいと、祈りながら指した。

 開始直後の、集中を自覚したあの感覚はもうない。

 それとは違う、どこかぼんやりとした感覚で将棋盤に向かっていた。

 この手はどうですか、こちらはどうですかと、お互いに質問する手を指し続けている。

 お互いの手がお互いの楔になる。逃げ道がなくなる。どう払うか考える時間はなかった。

 深夜になっていた。

 将棋界の一番長い日なんて言われる日だ。

 私たち以外にも続いている対局はあるのだろうか。

 まずい手を指された。きついな、もう終わっちゃうのか。

 三百手を越えている。後手の私が偶数手だ。

 身体の力が抜ける。ふっと、何かが抜けた感覚になる。ああ、来る。

 これ、三階の手がある。そうか、もう終わりなんだ。

 急に寂しさを覚えた。でも、手を緩めるわけにはいかなかった。


 将棋盤の上で対話した。

 そろそろ終わりますかと尋ねる。

 まだまだと応じられる。

 ではもう少しと提案する。

 いいでしょうと対応される。

 面白いなぁ。私今笑ってるのかなぁ。糸遊見てる? もう寝ててもいいんだよ。

 お互いの楔が仇になる。会話の場所がなくなった。

 ぴったりの詰みが見える。最後になりますと、宣言する一手を指した。

 では最後までと、丁寧に応じてもらえる。ありがたい。

 勝って終わった。あれを勝ちと言うか怪しかった。不思議な感覚だった。

 譲ってもらった勝利ではない。会話中に偶然、相手側に隙ができてしまった。

 満足した。

 本当に楽しかった。

 心の底からお礼申し上げた。

 ありがとうございました。


 引退届を出さなければならない。帰りの新幹線でぼんやりと考える。

 そして相談に乗ってもらえる棋士を見つけなければ。

 最後の相手がいいな。できることならば、彼に相談したい。

 彼等は内から、私は外から。いい提案になればと思う。


 対戦相手だった大先輩からお話があると連絡を受けたのが翌日の夜だった。数日後に予定を合わせた。

 連盟を経由した連絡、喜んで応じた。

 対局で使った袴ではなくスーツ。ビジネスに繋がる場だ。それなりの覚悟を持って臨んだ。


「本当におつかれさまでした」

「本当にありがとうございました」

 横でとても偉い引退棋士が見てくださっている。

「わざわざお呼び出しする程のことでもなかったのですが」

 小さな箱を渡された。扇子だった。

「最後の記念にと思いまして」

「ありがとうございます」

 ありがたく頂戴した。これに対するお礼、というのは大袈裟な話になる。


「で、ご相談というのは?」

「はい。こちらをご確認ください」

 持ってきたパソコンを開く。

 状況を見せ、提案した。

 将棋界で得た収入の一部を使い、仮想通貨で膨らんだ利益。これを計画的に寄付したいと申し出た。

「ありがたいお話です」

「恩返しには足りませんが」

「いえいえ、十分過ぎる程です」

 引退棋士も頭を下げた。私も今ではそちらの立場だ。

 正月に考えていた突拍子もないこと。将棋界への恩返し。手続きが済んで安心した。


 仮想通貨を現金化するには税金がかかる。

 寄付したい額に対し結構な割合で持って行かれる。国の仕組みだ。仕方ない。

 元は全て将棋でいただいたお金だった。膨らんだ分だけ返す、それだけだ。

 とはいえ、隠し財産としていくらかは残しておいた。いつ誰のために、どんなお金が必要になるかわからない。

「これからどうなさるんですか?」

「はい、実は」

 簡単にアイドル関係の話をした。

 上手く伝わらず「あなたが?」という顔をされた。とんでもない。

 改めてそういう事務所に勤めることを話した。

「そうですか」

 大先輩は楽しそうに言う。

「実は私の妻も元アイドルです」

 存じてますと応えて笑った。有名な話だった。

 お互いに笑って終わった。細かい話は今後、お互いの代理人が話すことになる。


 報道で将棋界の恩知らずと書かれた。

 これを払拭するためではなく、恩返しのために寄付を申し出た。

 年間一億、最短で十年間。それを可能な限り続ける。

 最初の時点で税金を差し引いて十億残るよう現金化する。

 専門家に依頼した。その中から毎年一億ずつ寄付する契約を結んでもらった。

 現金化でしっかりと税金を払う。絶対に漏れがないように依頼した。

 あー、すっきりした。


 公式のサイトを見た。

 引退棋士欄に名前が載っている。

 九連理。そして永世棋昇と書かれていた。


 あはは、もう移動されている。信頼できる仕事だった。

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