23歳80_Invisible scars
平日のジム通いで泳ぎ終えたあと、最近の服の着心地に違和感があることを思いだした。
水泳で引き締まった分、体型が変わってしまったのだろうか。
水着はフィット感がある分あまり変わった気はしないのに、ジーンズのベルトを締める時、いつもよりきつくしないと緩く感じる。
これは下着周りも新調する必要がありそうだ。
来週からは四人娘も夏休みに入る。その時に衣類の新調を一緒にしてもいいけれど、今は少し急ぎたかった。一度気になると服の違和感がずっと付きまとう。
かといって今すぐお店に行ってもまだ営業時間外だ。いつも通り浮草のバイト先で時間を潰し、一度出勤してから木蓮さんや瑞香さんに今日の予定を尋ねることにした。
「おはよー、連理さん」
「おはよう浮草。ブレンドお願いね」
「あーい」
それだけの会話でいつもの席につく。
最近は浮草がコーヒーを淹れることも増えてきた。その時はいつもの冗談が聞こえてこない。店主も真剣に見守り、問題がなければ浮草がコーヒーを持ってくる。何か問題があれば店主が淹れなおした。
本格的に喫茶店の店員になるつもりだろうか。それとも、コーヒーの淹れ方を本格的に学ぼうとしているのだろうか。
「はい、お待ちどーさま」
「ありがとう」
ものすごく小さなカップでコーヒーが出される。市販のカップではありえない、ミニチュアのドールハウスのおもちゃだった。
そういう児童小説は読んだことがある。人形を入れたおもちゃの家の鍵を回すと、中の人形が動き出すファンタジーだ。
さすがの私もそこまでは小さくない。こんなものどこから持ち出したんだか。
じっと浮草を見つめる。無表情の浮草は私の視線にたじろかない。
「これ、いくらになるの?」
「なんと九割引き! カップサイズも九割引き!」
「いつものサイズでお願いね」
「はーい」
すぐにいつものコーヒーカップが運ばれてくる。このお店はついに、そういう仕込みまでするようになったか。
「君のまかないもあれで出そうか」
「衛生観念はどこに行ったんですか!」
「君にもあったのか」
「当たり前でしょ」
「だったら何であれで出したんだ」
「連理さんはいいの!」
お前もうクビになれ。危うく口に出しそうになるのを、コーヒーを啜って飲み込んだ。
コーヒーを楽しんで浮草が待ち構えるレジに向かう。まだまだいたずらし足りない表情だった。
「浮草が次に遊びに来る日が楽しみだね」
「うわぁ、根に持つんだ。大人げなーい」
「普段から子ども扱いするくせに」
軽口を叩いて店を出る。対浮草用のおもちゃの食器を買うのも悪くない。家で使わなければプレゼントと称して、送りつけてやるのも面白いだろう。
今日の出勤は私が一番乗りだった。
木蓮さんか瑞香さんがいれば軽く確認だけして買い物に行きたかったのに、こういう時はうまく噛み合わないものだ。
そんな日に限って亜嵐さんが朝から出社してくるので、本当に色々と都合が悪くなってきた。
「おう、早いな」
「おはようございます」
社長室に向かう亜嵐さんを一度は見送り、必要な設備の電源を入れて回る。すると亜嵐さんが顔を突き出してきた。
「九、今日は暇か?」
「暇と言ったら語弊がありますけれど、急ぎの予定はありませんね」
「そうか。暇そうならバイト代をカットしてやりたかったんだが」
「それなら正式に休みくださいよ」
「一応は練習とマネージャーの補佐だからな。その辺は二人の上司と相談しろ」
「勝手に値切ろうとしたくせに」
亜嵐さんは悪い笑みを浮かべ、社長室に引っ込んでいった。
程なくして瑞香さんが出勤してくる。事務員さんたちもやってきたが、木蓮さんはなかなか来ない。
「おはよう瑞香さん。木蓮さんどうしたのかな?」
「この間のロケの振り替え休日よ」
「あー、そんなこともあったっけ」
そうだそうだ。結葉と凌乃を連れていってもらったんだ。
じゃあ、今日は買い物に行くのはまずいかなぁ。一人でぼんやりと考えながら、本日の事務所の予定を確認する。
「暇な事務所だこと」
「本当にね」
横に瑞香さんが立っていた。駄目で元々、どうせ暇ならいいだろうと思って尋ねてみた。
「今日さ、午後抜けてもいいかな?」
「いいんじゃない? 特に予定がないから木蓮さんも休み取ってるんだし」
「そこはほら、私がいないと困るーみたいなことはない?」
「ないない」
「木蓮さんがお休みだから、私に事務所にいてほしいとかは?」
「連理ちゃんに木蓮さんの代わりが務まるの?」
何を言っても木蓮さんと比べられる。ちゃんと社員として勤めている人と比べられたら分が悪い。
「えーっと、夕方には戻るね」
「いってらっしゃい」
事務員さんたちも軽く見送ってくれる。もう少し、こう、引き留めてくれる人はいないのだろうか。
お昼過ぎとなると、外は暑くてたまらなかった。
車の移動でよかった。訓練目的ではなく、涼む目的でもう一度泳ぎたくなる。
ジムの時からの着衣の違和感を解消するべく、高校時代から愛用のお店に向かった。
色々とサイズを測り直してもらう。店員さんもお馴染みの奥様なので、気兼ねなく相談できた。
計測結果は、以前燈火さんに自慢気に公表したサイズより規格上はダウンしている。というより、全体が引き締まったということだろう。ウエストは特に引き締まっていた。
やはり水泳の影響だ。泳ぎ始めて約半年、それに適した身体つきになった実感はあった。
店の中でサイズが合った下着とは別に、運動時にも使えるものを再計測したサイズで注文する。このお店なら安心だ。走っても揺れ感の少ない、それでいて痛みの出ないものをしっかりと作ってもらえる。
気分よく店を出た。こういうものはさすがに、結葉に頼んでどうこうできるものではない。下着作りはそれなりの専門知識がいるらしい。
あの子たちに身体つきの変化があった時も、このお店で相談に乗ってもらったものだ。最近は急激な体型の変化を訴える子はいない。成長期も一段落ついたということだろう。
色々入った袋を載せて車を出した。出かけると言ってからまだ二時間とちょっと。思ったより時間はかからなかった。
学生の休み期間に入る前の平日の午後、改めて考えるとそんな時間に来店する女性なんて少なくて当然だ。
夕方からのレッスンには出るつもりだけれど、今戻っても少し時間を持てあます。
そういえば、しばらく金井さんと連絡を取っていない。土日になると思いだすのに、土日に連絡するのは迷惑になりそうだから段々と連絡の間が空いてしまっていた。
コンビニの駐車場に入り、飲み物を買って車に戻った。そして金井さんに電話をかけるとすぐに出てくれた。
『こんにちは、連理ちゃん。どうかした?』
「こんにちは。特に用はないけれど、平日ならお邪魔にならないかなと思って」
『ちょうど暇してたところなのよ。子供もぐっすり眠ってるからね』
「へー。じゃあ、今からお邪魔しに行っても大丈夫かな」
『お仕事は大丈夫なの?』
買い物に出たことや、バイトとして軽く扱われたことを冗談交じりに報告する。金井さんは全て笑ってくれた。本当に癒し系だ。
「多分十五分くらいで行けると思う。一時間くらいなら時間もあるし」
『一時間だけ? もっといてくれてもいいのに』
「あんまり長居するわけにはいかないからね」
『うん。あんまり気を遣わないでね』
電話を切って車を出した。確かこの辺には和菓子のお店があったはずだ。
お子さんにはあげられないだろうけれど、金井さんと旦那さん用にお土産を持っていきたい。
久しぶりに金井さんに会える。出産直後のお子さんとの写真を見て以来、金井さんの姿を拝めていなかった。
お土産を助手席に置き、わくわくとした気分で車を走らせた。
金井さんとのおしゃべりは楽しかった。
話は自然と睡蓮とその周り、そしてライブと将棋の仕事の話になる。
「充実してるんだね」
「うん。事務所での立ち位置だけは納得してないけれど」
「それは信頼されてる証拠だよ」
「そう思いたいよ。ただ、事務員さんたちのノリがよくなったのが逆に不安」
「連理ちゃんはどこでも可愛がられるよね。先輩方と連絡取る時も、連理ちゃんが出演している放送のことが話題に出るんだよ」
将棋関係のことはバックダンサー時代の同僚たちには伝えていない。それを先輩方が知っているということは、睡蓮か金井さんが広めたんだろう。
「じゃあ、色々と恥ずかしい姿も見られたわけだ」
「そうだね。放送のコメントで、ちょっと卑猥なことも言われてたよね」
「それは睡蓮だよ」
「え?」
「睡蓮がコメントで私をいじってる」
「睡蓮さんが?」
あとは燈火さんのコメントもあったけれど、あの人のコメントはアカウントごと削除されている。ネットの海に消えたコメントだ。
「この間、もうやめてって言ったんだよ。そしたら、『ライフワークだからやめない』って逆に火をつけちゃった」
「睡蓮さんらしいね」
金井さんは楽しそうに笑っている。
お子さんを生んで、ダンサーをやっていた時よりいくらかふっくらとした印象だ。
それから今日の買ったものの話、今やっていること、そして来月海外旅行に行くことも話した。
「本場のダンスかぁ。私もクラシックの方なら見てみたいんだよね。お土産話期待してるね」
「うん、生きて帰れたらね」
「縁起でもないこと言わないの」
嗜められてお暇する。小一時間だったが楽しい時間だった。
車に乗りながら思いだして呟く。
「しかし、連歌ちゃんとはねぇ」
金井さんの娘さんの名前だった。睡蓮の蓮ではなく、私の名前と同じ連。
どうしてそういう名前にしたのか尋ねたけれど、金井さんは教えてくれなかった。




