23歳76_Invisible scars
やってしまった。やらかしてしまった。
あんなに事前に頭の中で決めていたのに、大盤解説会で思いきり「常さん」と呼んでしまった。
その日は朝から忙しかった。
お昼前に到着すればいい解説陣の私とはいえ、ある程度時間に余裕を持って出る予定だった。
九時に家を出れば余裕で間に合う場所。しかも車で行けるし、糸遊も一緒なので気が楽な状況だ。
そんな中、朝から電話とメッセージが大量に飛んでくる。
睡蓮から、桜蓮から。
燈火さんから、研究会のメンバーから。
応援はありがたい。ただ、私の対局ではないのに、解説役という仕事なだけなのに、あちこちから来る連絡に慌ててしまった。
糸遊の元には牡丹さんからの連絡もあったらしく、応援の言葉を伝聞で聞かされた。
ありがとうごめんなさい急いでいるんですもう出たいのに電話がとまらないんです。
もういい、無視だ。こいつらどこかで結託して私にプレッシャーをかけている。どうせ師匠や瑞香さん経由で広がったのだろう。
研究会に入ってから初の大盤解説会だ。盛り上げてくれる気持ちは嬉しいが、混乱させるのはやめてほしかった。
勝手な被害妄想で気持ちを切り替える。今慌てたところで何にもならないじゃないか。自分にそう言い聞かせた。
ナビでは車で片道一時間ちょっと。九時を少し過ぎてしまったが、まだまだ余裕のある時間だった。
「糸遊、行くよ」
「うん。スマホどうするの?」
「任せた」
「えー?」
運転中、糸遊が私への通話を全て折り返してかけてくれた。
相手は驚いたことだろう。ふふ、朝から色々やってくれるから仕返しだ。一番迷惑を被ったのは糸遊になってしまった。
「喉乾いた」
「コンビニ寄るね」
三十分は喋りっぱなしだった糸遊が疲れきっていた。可哀想に、酷いことをする大人もいたものだ。
水と緑茶、飲むヨーグルトにコーヒー。
思い思いの物を買ってコンビニを出る。目的地まであと半分、少し遅いペースだが問題ない。
局面が動いたか糸遊に確認してもらう。今までの四局とは違って、お互いじっくりと囲う様子ではないらしい。
「でもあんまり動かないね。多分お昼すぎまで変わらないんじゃないかな」
「糸遊はそう思うんだね」
「うん」
糸遊なりの大局観が育ってきたのだろうか。速度予測ができるのは悪いことではない。
しかし今日は五番勝負の第五局目。一日決戦の最終日だ。どこで何が起こるかわからない。
だから早く出たかったんだ。それなのにあの連絡ラッシュ。仕事の妨害として文句を言いたくなったが、それぞれ悪意があってのことではない。だから余計むしゃくしゃした。
こういうのもちゃんと管理できるようにならなければ。今回は糸遊に助けてもらった。八か月後はそうもいかないかもしれない。
景色のいい土地に着いた。まだ時間があるので少しだけ立ち寄る。会場のホテルは海辺だが、ここは低い山の上。少しだけ気分を切り替えておきたかった。
車から降りて思いきり深呼吸する。何度か深く、長く深呼吸をして思いだした。雑な深呼吸では落ちつかない。最後の一回をゆっくりと、ゆったりと吸い込むことから始めた。
糸遊も一緒に深呼吸している。
お互い落ちついたね。無言で目が合った。笑い合って車に乗り、今度は気楽に音楽をかけた。
「おはようございます」
関係者としての糸遊の入場処理を済ませ、一緒に控室に向かった。
おや、まだ誰もいない。解説陣はともかく、立会人と副立会人のどちらかがいると思ったのに。
まあいいか。私が遅れたわけでもないし、適当に寛いでいよう。糸遊と一緒に荷物を置いて座っていると、見知った姿が目に入った。
「あら、連理さんおはよう」
「おはよう橋見さん。何でいるの?」
「何でって、朝連絡したじゃない。常さんの仕事でもあるから見学に行くって」
「そうだったっけ?」
糸遊に丸投げしたから覚えていない。そんなメッセージもあったような、なかったような。
「ということは、常さんはもう来ているの?」
「いいえ。大遅刻してるみたい。私は別の電車だったんだけどね」
「電車かー」
それはそれでいい景色が見られたんだろうなぁ。甲乙つけがたい選択肢だった。
「連理さんは車なんだ」
「うん。糸遊にスマホ対応丸投げしてた」
「だから私のこと知らなかったのね」
糸遊はえへへと笑いながら将棋盤に手を伸ばしている。
これまでの棋譜を再現するのだろう。ちょうどいい、じっくりと見せてもらおうじゃないか。
見覚えのある展開だ。というか、私がゲスト解説で入った時の私と若手棋士の展開がそのまま再現されていた。
糸遊がミスだと指摘したポイントの少し前、その状態で現局面は止まっている。
別の棋戦でこれを出して負けていたのに。棋昇位は何か別の展開を見つけて、あえて選んだのだろうか。
立会人と副立会人の先生がやってきた。立ち上がって挨拶をする。橋見さんと糸遊も続いた。
立会人はコンピューターを使わないという噂の古風なスタイルの棋士。私の最終年度の順位戦で、土をつけてくれた一人だった。
副立会人の先生は、逆にオンライン対局を頻繁に行う振り飛車党の中堅棋士だ。先日糸遊が勝った相手だった。
思わぬ巡り合わせもあるものだ。あの時の相手が糸遊ですよと伝えていいものかどうか。もしかするとここで感想戦もできるかもしれない。
挨拶を終えて二人がまた話しはじめた。近くにいるので全部聞こえているが、二人が気にする様子はなかった。
「いえね。レーティング的にはそこまでの相手だったんですよ。ただ、妙に鋭い手があって、面白いと思って指してみたらこれがなかなかに激しい展開になりまして」
「オンラインの将棋だから思いきった手の人も多いんでしょう? だいたい君は素性を隠してないらしいから、相手も勢いで指したんじゃないですか」
「そうは見えなかったんですよね。ちゃんと基礎からやり込んでる感じがしまして」
「内容を覚えているなら並べてみてくださいよ」
「わかりました」
これだけでは糸遊相手とは特定できない。ただ、話の雰囲気からすると、何となく糸遊が相手の時の対局じゃないかなと察せられる部分があった。
実力派プロが並べる棋譜をトッププロが見ている。予想外の展開にしめしめと思い、ついでに並べる様子を見せてもらった。
立会人の先生が私に気づき、声をかけてくださった。
「九先生もネットで指されているんですか?」
「はい。今も毎日将棋を指してます。ネット対局は二日に一度は使っていますね」
「それはそれは」
あんまり長く続く話ではなかった。副立会人の振り飛車党棋士が終局手前まで並べ終え、どこが疑問手だったか語り始めたからだ。
ああ、これ。やっぱり糸遊相手の対局だ。今日の仕事がなければ今頃研究会で話していたはずの盤面、今も糸遊は棋譜を持ち歩いているだろうか。
「この先の記憶が少し曖昧なんですが、最後はしっかりと寄せられてしまいました」
糸遊が盤面を覗きこんでいる。私の後ろからでも糸遊の背丈なら見えるだろう。身長差がここでは非常に役に立った。
「あっ」
糸遊も気づいたらしい。思わず声が出てしまったのを慌てて隠そうとする。でも、目の前の二人は糸遊をじっと見つめていた。
ここで私ですなんて言えたら凄い度胸だ。自分があなたに勝ったんですと宣言するようなことになる。糸遊もどう言えばいいかわからず、私の背中をツンツンと突いてヘルプを求めてきた。
「実はその対局相手、この子なんですよ」
「九先生のお弟子さん?」
「はい。糸遊、あの時の棋譜覚えてる?」
「うん、書いてるのあるよ。えっと、あります」
糸遊が持ち歩いているメモを開いた。色んなページにたくさんの棋譜が書かれている。その中の一つ、今の展開とその先の終局まで記された内容がそこにはあった。
副立会人の先生がその手順通りに並べる。立会人の先生が唸った。悪くない反応だ。
「失礼を承知で言いますが、途中から九先生が指してたなんてことは」
「ないです。ちゃんとルールを守ってますよ」
「あーよかった。変に疑ってすみません」
もしかすると、なんてことが頭を過ったのだろう。この先生も素直な人だ。だからネット上でプロだとバレバレのIDを使い続けている。
「千振さんでしたね。よかったら一緒にこの展開を考えてみませんか?」
「はい!」
糸遊が目をキラキラさせながら盤面に臨んだ。二人の思考がぶつかる。面白い展開になってきた。こちらまでわくわくしてしまう。
お昼過ぎ、これから大盤解説会場へ移動しようというタイミングで常務さんが現れた。
「遅れて申し訳ありません」
「ギリギリセーフですよ」
「いやぁ、今日は相方が経理さんでよかった」
既に準備していた聞き手の女流棋士が「経理さん?」と不思議そうにしている。
橋見さんがここぞというところで日頃の不満をぶつけた。
「こういうところで面倒になるから、そういうあだ名はやめてって言ってるのに」
「お局も、痛い。わかったから、橋見さんもすみません」
いきなりの暴力行為、橋見さんがちょっとつねっただけだが、急展開に聞き手の女流棋士は目を白黒させている。
二人は止まる様子がなかった。まるで夫婦のように橋見さんが常務さんのネクタイを整えている。
仕方なく私が聞き手の女流棋士に事情を説明した。
「ごめんなさい。実は私たち三人同じ研究会で、変な役職名があだ名になっているんですよ」
「そうだったんですか。いや、びっくりしました」
今日の聞き手はこの人一人だ。何かあったら橋見さんや他の見学者のヘルプが入るだろうし、プレッシャーに感じてはいないようだった。
なのに、大事な仕事が始まろうというこのタイミングで身内ネタが始まり、変に驚かせてしまったことを反省する。
といっても、私に責任はないと思っているので涼しい顔をしておいた。
今日の私は上着を軽く羽織るタイプのパンツスーツ姿。踵を上げるような悪あがきはしていない。
首筋を涼しくするために、今日は最初からかんざしで髪をまとめていた。
やっとまともな仕事が始まる。そういう気の緩みがあったのかもしれない。時折「常さん」と言いかけ、「つ」が出たところで「次の手は……」とごまかした。
それを常務さんはニヤリと笑って、「次」の手ですかぁと、妙に強調して言うからヒヤリとさせられた。
心強いと思ったのが甘かった。代表と並んでこの人は研究会のお調子者枠だ。これが専務さんだったら、どれだけ平和な大盤解説会になったことだろうか。
将棋の展開は午前中の前例の棋譜から、棋昇位が読みを大きく外す手を指して大混戦模様になっていた。
これがあの棋譜から辿り着ける展開だったのか。思わず唾を飲みこんだ。私の発想になかった展開だった。
糸遊と何度も何度も確認したのに、こんな手はどちらも思い浮かばなかった。そもそも私も糸遊も、糸遊が指摘したミスの手までは私の手順にミスはないという結論を出していた。
完全に見たことのない局面になっている。面白い。AIの評価値や候補手なんてどうでもいい。どちらを持ちたいなんて断定できないような、非常に難しい局面だった。
感覚で言うならタイトルホルダーの棋昇位が有利だ。ただこれは応援の気持ちが入っている補正込みにも思えた。冷静な判断とは思えないので、常務さんに話をうかがう。
「そうですね。わたしも若干後手有利と考えています。AIではだいぶ後手有利と出ていますが、そんなに簡単ではないようですね」
仕事用に一人称を「わたし」に切り替えている。これもプロ意識というものなのだろう。遅刻ギリギリだったことはさておいて。
実際遅刻しそうになった理由も常務さんのせいではなかった。単純に交通機関の混雑による遅延、謝られたけれど謝られるようなことではない。
基本は三人のローテで解説を回し、立会人と副立会人の先生がたまに会話に混ざってくる。
今回の大盤は一段目が私の手の届く範囲だった。棋昇戦の設備と私は相性がいいらしい。他の棋戦もこれにしてくれたらいいのに。
それでも私の身長では、他の先生のように斜めの位置から中央の五筋ラインに手は届かない。申し訳なく思いながら、その筋の駒を触る時は少しだけ大盤の前に立たせてもらった。
お昼の大盤解説会が一旦終了になる。しばらく硬直状態になるだろうという解説陣の意見の一致をもって、大盤解説会は一度休憩に入ることになった。
お客さんもまとまってトイレや喫煙所に移動する。私たちも一度控室に戻ることになった。
糸遊がお茶を準備してくれた。私も常務さんもお礼を言って一口啜る。あぁ、美味しい。
聞き手の女流棋士と橋見さんが談笑していた。元々面識はあったのだろう、今回でより仲よくなったみたいだ。
「こりゃしばらく暇になりそうだね」
「そうですね」
常務さんと私で同じ見解。この局面においては私の方が詳しかった。
糸遊が現局面まで並べてくれる。それを見ながら常務さんが呟いた。
「これで連覇になると、また永世の候補が増えてしまうな」
「今日と、あと二回ですか」
「そう簡単にはいかないだろうけどね。今期はさすがに持っていきそうだけど」
誰かが一方的に勝ち続けるというのは、他の棋士にとって屈辱的な面もある。大半の棋士は自分が阻止してやると思いつつ、表には出さずに謙虚な姿勢を貫いているものだ。挑戦権を得るというのは、その代表者の責任を負うということでもあった。
常務さんもそう思っているのだろう。言葉には出さないが、いずれ自分がという思いが伝わってくる。同じ研究会に入った以上、私も全員の挑戦を全力でサポートするつもりでいた。
軽く糖分を摂取し、リフレッシュのために化粧室で歯を磨いた。
口の中がすっきりして頭もリセットされた気分になる。控室に戻ると、そろそろ行こうと常務さんと聞き手の女流棋士に合図された。
普段通りを意識しすぎたのかもしれない。いきなり私と常務さんの解説になり、一緒に駒を動かした。
私から対角線の位置の駒を常務さんに動かしてもらう際、「常さん」と口にしてしまい、思わず硬直してしまう。
ニヤリと笑った常務さんが、「わかりました経理さん」と悪ふざけで即答する。
やってしまった。やらかしてしまった。
そして、一瞬でカバーされた。そうだ、大っぴらにすることではないが、研究会は大抵の棋士が入っている。そこに引退棋士の私がいるというだけなので、隠し通す必要があるわけではない。
常さん? 経理さん? 会場から色々な疑問の声が聞こえてくる。
このままではお客さんも集中できないだろう。冗談を交えて説明した方がよさそうだった。
「いつもの癖が出てしまいました」
「あはは、いつもなら経理じゃないって怒るのに」
「もう、からかわないでくださいよ」
「すみません、身内ノリが出てしまいました。研究会が一緒なもので」
さらっと常務さんが暴露してくれる。ああ、助かった。話し上手な人でよかった。
関係者席にいた橋見さんが胸を撫でおろしている。一番ドギマギしたのは彼女だろう。
引退棋士が研究会? でもまだ強いらしいぞ。まだまだ若いしな。色んな声が聞こえてきた。
「面白い話はないのかー?」
「そうだーついでに聞かせてくれー」
ヤジのような盛り上げのような、温かくも悪戯っぽい声援に苦笑する。
「というところで私は交代のようなので、続きは先生にお任せします」
「あーこらこら」
構わずスタッフの指示に従って聞き手女流と入れ替わる。嫌な汗をかいてしまった。糸遊の隣に腰を下ろし、ペットボトルの水で喉を潤した。
「やっちゃったね」
「やっちゃったよ」
糸遊と思わず笑い合う。
「もう、どうなることかと思ったよ」
糸遊の隣にいた橋見さんからも文句を言われる。仕方ないじゃないか、声に出ちゃったんだから。
聞き手の女流棋士が常務さんを問い詰めている。どういう研究会なんですか、何か変わったことはないんですかと。
「変わったことといえば九先生がいることですね。本当に変な環境だと思います」
くそう、その場に私がいないからって好き勝手言ってくれる。
「今日も見学に来ているおつぼ……あー、橋見女流も一緒でしてね」
とんでもない巻き込み事故だ。橋見さんがガバリと立ち上がり、これまでにないほど鋭い眼光で常務さんを睨みつけた。
もしもの時はヘルプで入ってほしいと言われていた橋見さんは、そのままスタッフからマイクを受け取り壇上に上がる。
悪戯っぽく笑った聞き手の女流棋士が降壇してきた。私に目配せしてくる。私も笑って応えた。
夫婦漫才のような解説が始まった。これまでの橋見女流という理知的なイメージのブランドが崩れさり、思った以上に常務さんにどぎついことを言うので会場が盛り上がる。
私も聞き手の女流棋士も知らん顔。糸遊がモニターで棋譜をチェックし、動きがあったら教えてくれた。この子が一番周りを気にしていない。
焦った挑戦者がミスをした。
そのまま流れるように終局する。夕方の六時過ぎ、対局者の二人がこちらにやってくるという。
棋昇の防衛成功だった。第五局までもつれたことで、どうなるかと騒がれていたタイトル戦が一つ終わりを迎える。
立会人と副立会人と一緒に、二人の対局者が登壇した。大盤を使って要所の説明が入り、それぞれのインタビューが始まる。最後に防衛した棋昇が手を振りかざした。
「鍛えました」
そして私の方を見てニヤリと笑う。
あーくそ、これ、私がこの人から防衛して永世の資格を取った時の真似だ。
しかも私の棋譜を参考にして勝ちまで繋げた最後の一勝。ある意味意趣返しをされた気分になる。
私が三年前の防衛成功時に、「鍛えてますから」と得意気に言ったのに対し、「鍛えました」と返してくる。
面白い先生だ。思いきり笑ってしまった。
「なーんで、私の顔を撮ってるんだかね」
控室で帰り支度をしている時に、終局後の放送を一部見せられる。
まるで棋昇位と私に因縁でもあるかのように、棋昇位の宣言後、私の笑顔がドアップで撮られていた。
「これで研究会の件も目立たずに済みそうだね」
常務さんは呑気なものだ。橋見さんもずっと気分悪そうにしていたのに、私のアップの画面を見て笑い転げている。理知的なキャラはもう崩壊していた。
インタビューの直後、少しだけ棋昇位とお話した。
「すみません、つい思いつきでやってしまいました」
「私も三年前、思いつきだったのでお互い様ということにしておきましょう」
「棋昇位の大先輩にそう言っていただけて光栄ですよ」
まるで友人のような会話だった。この人も師匠と同じくらいの年代だろうに。
大先輩か。だったら永世まで取ってくださいな。そう思いながら笑顔を向けた。
またいずれ、どこかで。はっきりとしない約束をして言葉少なに別れる。引退棋士の立場も悪くない。




