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23歳72_Invisible scars

 朝の出勤前、浮草がバイトする純喫茶へ向かった。

 途中で雨が降りだし、傘を差しながら慌ててお店に駆けこむ。

 閉じた傘を傘置きに入れようとすると、古風な編み笠が目に入った。武士でもいるのかこのお店は。

「らっしゃい。雨降ってきたんだ」

「見ての通りだよ」

 迎え入れてくれた浮草が憂鬱そうな顔でカウンターに戻る。いつものようにブレンドを注文した。

「てんちょー、雨だって」

「傘は?」

「持ってきてません」

「貸してあげるよ」

「編み笠はちょっと」

「大丈夫だよ。見た目だけだから」

「傘の意味がない!」

 店主の趣味だったんだ、あの編み笠。不思議な人だと思っていたけれど、どんどん謎が深まる女性だ。

 届いたブレンドコーヒーを啜りながら外を見る。雨が強くなってきた。二人の会話が聞こえてくる。

「変な趣味してると婚期が遅れますよ」

「結婚してるよ」

「嘘!?」

「子供も三人いる」

「ええ!?」

 急なカミングアウトがカウンターの中から聞こえる。正直意外だった。

「編み笠は、旦那の形見なんだ」

「え? そうなの?」

「嘘だよ」

「形見が?」

「全部」

「どこから全部?」

「傘を貸すところから」

「貸す気なかったの?」

「あれはオブジェだからね」

 相変わらずめちゃくちゃ言っている。今日も平和だった。

 コーヒーを堪能し、席を立った。外を見ると少しだけ日が差し、雨が弱くなっているようだ。

「今のうちに走れば濡れなくて済みそうだし、浮草が傘使っていいよ」

「ありがとー。連理さんは今日ずっと事務所?」

「そのつもり」

「ラジャー!」

 ここから事務所まで徒歩二分。今なら小走りで行けば濡れずに済みそうだ。


「おはようございます」

 事務所に入って朝の一礼。まだ木蓮さんしか来ていなかった。

「おはよー、連理ちゃん。昨日はありがとうね」

「本当にね」

 朝は寝坊するわ、帰りの車の中で睡蓮と暴れるわ。普段のしっかり者のイメージが崩れてしまった。

「それはさておき。なかなか面白いもの見せてもらったよ」

「見たんだ」

「燈火さんもやるもんだね。エクステ一つで、連理ちゃんがああも変わるなんて」

 スマホをパソコンに繋いで画像を見ている。睡蓮から共有を受けたのだろう、燈火さんとのペアでそれぞれが踊っている動画も再生された。

「髪を切ってもらったお礼に遊ばれてあげたんだよ」

「遊んでもらったんじゃないの?」

「そうとも言う」

 どれどれ。スマホで見るよりパソコンで見た方が、ダンスのシーンの迫力が違うというものだ。木蓮さんのデスクに椅子ごと寄って、昨日の動画を一緒に見た。

「おはよー。何見てるの?」

「おはよう瑞香さん。これ、昨日撮った動画」

「ふーん。あ、連理ちゃん髪切ってる」

「わかるの?」

「わかるわよ。いつも私が切ってるんだから。浮気したのね」

 浮気と言われてもね。苦笑して瑞香さんを見上げた。瑞香さんも先週と違う髪型になっている。

「瑞香さんこそ髪切ったんだね」

「そうよ。土曜日に美容室に行ったから」

「いつも同じお店に行くの?」

「その時の気分と予約次第ね」

「瑞香さんこそ尻軽じゃん」

「なんですって? この、連理ちゃんのくせにー」

 戯れていると亜嵐さんや他の職員も出勤してきた。亜嵐さんが呆れた表情をこちらに向け、無言で社長室に入っていく。

 あの人にああいう態度を取られると、なんかむかつくな。

 画像と動画を垂れ流していた木蓮さんのデスクに事務員さんたちも集まり、画像と私を見比べられる観賞会が始まった。


 やるべき事務作業はすぐに片付き、衣装のチェックや更衣室の片付けを済ませて、ついでにいつものレッスン着に着替えた。

 そのままレンタルのレッスン場へ行き、軽く掃除を済ませる。続いていつもお世話になっているレッスン場の拭き掃除を始めた。

「やってるな。感心感心」

「亜嵐さん。どうかしました?」

 開けっぱなしにしていたドアに、亜嵐さんがもたれかかっていた。

「木蓮の開いていた動画を見てな。采女からも逐一言われているから、ここの一部をタップダンスの練習用にできるか確認だ」

「あの子はそんなことまで言ってるんですね」

「遠慮がないのはいいことだ。お前の教育の賜物だな」

「皮肉で言ってますよね」

 拭き掃除を終わらせて、入口から見て右奥の一番使用頻度が少ないスペースに立ってみせる。

 以前燈火さんを呼んで確認してもらった時もこの辺りだった。タップダンス用のリノリウムのフロアに貼り替えるか、上からシートを重ねる工事をすればタップダンスにも使えるという話だ。

 そのことを伝えつつ、アイドルの舞台として使うスペースを想定した場合の、幅や奥行きも簡単に意見した。

「お前、結構考えてたんだな」

「さっきの動画見たんですよね。あのセミプロの方に、ここを一度見てもらったんですよ」

「そうか。専門家ならそういう業者の伝手もあるかもしれんな」

 亜嵐さんはふむふむと勝手に頷いている。私も掃除を終えて暇になったので、一緒に考えるふりをしながら将棋のことを考えた。

 そういえば今日は棋昇戦の第四局目の日だ。出勤日だから気にしないようにしていたけれど、この結果次第で来週休みをもらう必要がある。

「どうだ? いい案でも浮かんだか?」

「いえ、将棋のことを考えていました」

「お前はそういう奴だったな」

 私の後頭部を小突いて亜嵐さんが出ていった。これ、パワハラだよね。前にもセクハラされたし、訴えたらお金取れるんじゃないだろうか。

 一人で暇になった。なかなかに広いレッスン場だと思うけれど、Lotusの使うレッスン場はもっと豪華だと聞く。それよりも格上のユニットがあると睡蓮は言っていたし、上には上がいるということだろう。

 スマホで棋昇戦の中継を流しつつ、一人でできる型をおさらいした。今は練習中の曲はない。Wildflowersと浮草の持ち曲は一通り練習して身体に叩きこんでいる。

 たまにあるこういった一人の時間、何の道具もなしにできる型は私の習慣になっていた。


 レッスン場に瑞香さんがやってきた。

 型の途中だったので視界の端で捉えるだけにする。ゆっくりと、ゆったりと、落ちついて通して終わらせる。いい気持ちになっていた。

「今日は早いね」

「下でみんな着替えてるところよ。連理ちゃん、もしかしてずっとやってたの?」

 時計を見上げた。もう四時過ぎ、みんながやってくる時間だった。おやおや、二時間もやっていたのか私は。

「全然気づかなかった。残務とかなかったよね」

「大丈夫大丈夫。バイトちゃんに手伝ってもらうことも今はないしね」

 瑞香さんが開けっぱなしにしているドアの向こう、廊下から騒がしい声が聞こえてきた。

「あ、そうそう。今日は他の事務所の人が見学と合同練習に来るから、それだけ気に留めておいてね」

「えー、私聞いてないよ」

「週末に決まったのよ。さっき亜嵐さんから言われて、私も知ったばかりなんだから」

「うちの子たちは知ってるの?」

「私と一緒に聞いてたからね」

 瑞香さんも大きく伸びをして準備運動を始める。

 将棋を垂れ流しにしていたスマホを回収し、いつもの五人と挨拶を交わした。

 凌乃が糸遊と準備運動をしながら声をかけてくる。うちのアイドルの中ではこの二人が一番背が高い。

「連理さん聞いた? 見学十人くらい来るんだって」

「そんなに? 飲み物とか出した方がいいのかな」

「そういうのはあたしたちの仕事じゃないし、知らないよ」

 ウォーターサーバーは、予備のタンクが横に置いてある。水分補給は大丈夫だろう。

「今日雨だったでしょ? こんな日に見学ってのも大変だね」

「ここに来る頃には雨止んでたよ。もしかしてずっとここに引きこもってたの?」

「うん。将棋見ながらずっと型やってた」

「修行僧みたいだね」

 修行僧という言葉に糸遊も微笑んだ。二人は背中を合わせてお互いの身体を伸ばしている。

 ふと思いついて凌乃に尋ねた。

「見学ってまさかLotusじゃないよね?」

「さすがにライブ前には来ないでしょ」

「そうだよね」

 直近のライブがないWildflowersも浮草も気楽なもので、今は新たに取り入れられるものがないか試行錯誤している段階だ。

 それぞれの課題も三月に指摘した通りで、あれからもうすぐ四か月。徐々に改善している様子が頼もしかった。


 二代目カエルに任命された浮草は、今日もみんなの実験サンプル。瑞香さんが浮草をエアーソフト剣でぺしぺしと指摘しながら、Wildflowersの面々のいい教材になっていた。

「浮草ちゃん、あなた連理ちゃんみたいにもっとブレなさいよ。指摘し甲斐がなさすぎるのよ」

「ふふん。二代目は初代を越えるものだからね」

 勝手なことを言ってくれる。確かに浮草の動きの完成度は素晴らしい。純喫茶でパントマイムやロボットダンスを披露するだけあって、いつも動きにメリハリが利いていた。

 内線が鳴る。瑞香さんは指導中だったので近くにいた私が対応した。

『お客さん来たから、もう十分くらいでそっちに行くね』

「はーい。伝えておくね」

 木蓮さんからの内線内容をみんなに伝える。誰も緊張している様子はない。うんうん、いい感じだ。

 今は大きな音がすることをしていないので、レッスン場のドアを開けておいた。

 休憩間際の少女たちが戯れている。采女が糸遊にちょっかいをかけた。

「こらー! 采女ちゃんまた触ったでしょ!」

 あーあ、こんなタイミングでまた采女がやらかした。俊敏な二人の追いかけっこが始まる。

「じゃ、私たちは迎え入れもあるから休憩しましょうか」

 瑞香さんの指示で、同い年の三人は飲み物を手に談笑を始めた。二人のじゃれ合いはいつものことだ。

 采女は素早いし身体の動きが柔らかい。しかし、糸遊はそれ以上に体力があるし、直線的に捉えられるところに采女が動くと……あーほら捕まった。

「糸遊ちゃん重い! お尻が特に!」

「お尻お尻うるさーい!」

 采女の柔らかさでも、あの強制海老反りは厳しいだろう。たまにはきつめのお灸でいい気味だ。

「こんばんはー」

 入口から数人の女の子が顔を覗かせ、海老反りで戯れている二人を見て困惑している。

「あれは放っといていいので、こちらにどうぞ」

 広いスペースに案内する。休憩中の三人と数人の見学者が気軽に声をかけ合った。

 どうやら以前から交流があったらしい。私がマネージャーを降りてから、みんなが今回みたいな交流で出かけていたので不思議はない。

 最後に入ってきた四人はその交流の輪から外れていた。どうやら今回の新顔のようで、見学というより視察のような雰囲気だった。

 隣にいた瑞香さんが意外そうな声をあげる。

「あら、Cloudreamじゃない」

「聞いたことあるけど、何だっけ?」

「Lotusよりも売れてる人気のユニットよ。その中核メンバー」

「なんでそんな大物が来てるの?」

「知らないわよ」

 二番目に背の高い、大和撫子って感じの女性が私を見ていた。

 もう一人、涼し気で中性的な顔立ちの子とこの大和撫子、他の二人と比べても落ちつき払っている。

「こんばんは」

「あ、こんばんは。えっと、どうしよう。みんなと挨拶するんだっけ?」

 急に話しかけられて慌ててしまい、思わず瑞香さんにヘルプを求める。

「それは休憩のあとでいいでしょ」

「そっか」

「九連理さんですね。お初にお目にかかります。甲峰牡丹と申します」

「これはどうもご丁寧に」

 ペコペコと頭を下げてしまう。恐らくあちらの方が年下だろうに、落ちついた佇まいにこちらが緊張してしまった。

「いつも将棋で見ておりました」

「あら、それはそれは」

 将棋と聞いて急に緊張感が飛んでいった。そっち方面なら私が緊張する必要もない。

「よかった。今日はあなたに会いたくてきたんです。噂には聞いていたんですよ。アイドル事務所で現役さながらの訓練をされているんだとか」

「どこからの噂?」

「蘇芳睡蓮さんです」

「木蓮さーん、どういう教育してるのー?」

「知らんよ」

 最後に入ってきた木蓮さんは、笑ってレッスン場の奥に行ってしまう。

「で、私と会ってどうしたいの?」

「いえ、実物を見てみたかったと言いますか。噂通り小柄なんだなと」

「ほう、いきなり身長いじりするんだ。こっちのでっかいのはどう思う?」

「檀さんとは以前から面識あります。最近もお会いしましたね」

「ねー」

 瑞香さんは楽しそうに相槌を打つだけ。頼りにならない人だ。

 くそう、身長いじり勢が増えた。涼し気な顔のもう一人も面白そうにこちらを見ている。牡丹さんが紹介してくれた。

「こちらが従姉妹の藤。苗字は同じ甲峰です」

 ずいっと藤さんが寄ってくる。どこかの劇団員のような、芝居がかった雰囲気がある人だ。

「どうも。あの、髪触ってみてもいい?」

「え? 別にいいけれど……」

「気をつけてくださいね。藤は髪フェチなので」

 牡丹さんの急な耳打ちにぞわっとした。妙に色っぽい話し方だ。

「おー! 超さらさらー。牡丹より綺麗」

「わざわざ比較しなくていいの」

 これはこれで普段とは違う感覚だ。おもちゃにされるのは一緒だけれど、身長や胸ではなく髪主体。悪い気はしなかった。

「じゃ、そろそろレッスン再開しようか。見学のみなさんも一緒に自己紹介してくださいね」

 瑞香さんが仕切り、みんなが輪になって座る。こういう時、私はどちらの立場になるんだろうか。練習生的な扱いか、マネージャー補佐みたいな扱いか。

「連理ちゃんはこっち」

 木蓮さんに引っ張られて横に立たされる。みんなを見下ろせるいいポジションだ。

 それぞれの所属事務所とユニット名、個人の名前で自己紹介が進み、Wildflowersのいつものダンスで合わせが始まった。

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