23歳69_Invisible scars
二つの防衛戦を抱えていた棋昇位が負けた。
棋昇戦はこれで二勝一敗だが、もう一つの大きなタイトルは二勝四敗で失冠してしまっていた。
これで調子が狂うだろうか。それとも、こちらでは負けまいと更に力を発揮するだろうか。
第五局までもつれ込めば、私が解説のお仕事に行くことになる。そうあってほしいような、ならないでほしいような複雑な心境だった。
結葉と凌乃のロケの前日、あろうことか木蓮さんが泊まりに来ると言い出した。
「二人が移動するより、私が移動した方が効率的でしょ?」
「大丈夫? 一晩睡蓮と話せなくてショック死しない?」
「私を何だと思ってるの?」
事務所でのふざけた会話。瑞香さんが笑いながら聞いていた。
当日は電車移動から新幹線移動になるのだから、どうせなら駅近くの私のマンションの方がいい。朝の時間のロスを防ぐための木蓮さんの提案だった。
こちらとしても一人泊まるくらい問題ない。冗談を言ったものの木蓮さんの配慮をありがたく思い、土曜の夜は少しいいご飯を用意した。
そして、ロケ当日。三人は揃って寝坊した。
木蓮さんに叩き起こされる。目の前に木蓮さんがいるのはわかったが、よくわからないまま上半身だけ起き上がった。
「連理ちゃん駅まで送って!」
「揃いも揃って何でそうなるの?」
頭が働かないまま、寝ぼけまなこでジーンズに着替える。
三人には寝坊な時間でも、私の起きる時間にはまだ早い。
新幹線の駅まで車に乗せて、何とかかんとか三人の乗車時間に間に合わせた。
ある意味泊まりに来てもらって正解だった。木蓮さんが単独で寝坊した方が、とりかえしがつかないくらい大変なことになっていたことだろう。
……私も人のことは言えないか。
思いだして苦笑する。いつかの将棋の仕事で寝坊して、瑞香さんに送り迎えをしてもらった。
日曜の朝。大きな駅付近とはいえ、平日ほど車はない。
眠気はあったが少し遠回りして帰った。普段見ない景色だ。たまには見て回るのもいいだろう。
完全に目が覚めた頃、ようやく自宅に到着した。このまま朝のチェスでも楽しもう。先週の研究会から色々と試してわかったことがあった。
まずは糸遊との練習対局で振り飛車の練習。同時にフィッシャールールも取り入れたら、お互いに将棋になっていなかった。これは一緒にやらない方がいい。何より、糸遊にフィッシャールールはまだ必要なかった。
橋見さんの相手になる女流棋士は、将来の糸遊の相手にもなる。私の振り飛車の練習相手に糸遊はちょうどよかった。お互いに学ぶことが増えた。
フィッシャールールを採用しているオンラインの将棋サイトに、私と同等の指し手がいればよかったが、さすがにそんな相手は見つからなかった。覚えたてのチェスの方が、フィッシャールールで時間感覚を養うための訓練になることに気づいた。
自分の古いパソコンと、四人の勉強用のパソコンを並べて起動する。
片方で将棋、片方でチェス。上手く切り替えができないのなら、同時進行で両方練習してしまえ。無謀と思ったが案外いい練習になった。
言ってしまえば練習対局の多面指しだ。そう思えば案外気楽に構えられた。
最初は頭が混乱したけれど、数日毎朝やっていると慣れてきた。寝起きの糸遊に呆れられながら、それでも対局を繰り返した。
ただ、マウスの操作は左手では難しかったので、左手はタッチパッドで操作していた。間違わないように気をつけて操作すると、思った以上に時間を使ってしまう。
「またやってる。頭おかしくなっちゃうよ」
「ご飯お願いね」
「またー? もう、連理ちゃんゲームに夢中な子供みたいだよ」
実際そうだった。簡単なご飯なら糸遊も作れる。昨晩の残りもあることだし、今日の朝ご飯はそんなに手間はかからないはずだ。
采女はいつも朝が遅い。学校がある日はいつも凌乃に引っ張られて起きてくる。今日はその凌乃が朝からいないので、今頃夢の中だろう。
練習対局をしながらご飯に手を伸ばす。行儀が悪いと糸遊に手を叩かれた。仕方ない、キリがいい所で切り上げよう。
「コツとか掴めてきたの?」
「うーん。チェスの方は成長を感じるけれど、振り飛車は難しいね。将棋は人間相手じゃないと感覚がわかりづらいよ」
寝不足のまま頭を使っていたので欠伸が出た。集中が途切れたらすぐこれだ。カフェインがほしくなる。
もう少ししたらジムに行く時間だ。いい加減采女を起こしてご飯を片付けなければ。そしてコーヒーを飲みたい。
「采女のこと起こして来てくれる?」
「わかった」
二人分の食器を片付けながらコーヒーの準備をする。廊下の先から「こらー!」という糸遊の声が聞こえた。またお尻を触られたのだろう。
こうなる気がしていた。ごめんね、糸遊。私も眠いから、采女のセクハラに付き合いたくなかったの。
眠そうな采女を糸遊が肩を揺すりながら部屋から出てくる。二人にはカフェオレを用意して、私はブラックを優雅に啜った。
「あーさーだーよー。采女ちゃん起きてー」
「ねむー」
采女は寝間着がはだけて妙に色っぽい格好だ。人のことをえろいだの何だの言うくせに、この子もだいぶ魅力的に育っていた。
「私たち、燈火さんとジムに行くけれど、采女はどうする?」
「行くー」
カフェオレで目が覚めたのだろう、ぽけーっとしながら采女が答えた。
「じゃあ、食べたらすぐ着替えてね」
職員の燈火さんがいるので采女の見学くらいは大丈夫だろう。コーヒーを飲み終え、改めて身支度を済ませた。
今日は午後からどうしようかな。研究会はないし、今のところ呼び出しもない。帰って将棋とチェスに明け暮れるのもいい。
「準備できたよー」
采女がいつもの調子でやってくる。玄関に座って靴を履いていると、二人がかりでもたれかかってきた。
「重いよー。置いていくよー」
「連理ちゃん髪の毛ながーい」
「糸遊よりながーい」
「急に幼児退行しないの。ほら、行くよ」
よくある悪ふざけ。でも、確かに髪を切りたい。日曜は美容室も混むだろうしどうしたものか。
ジムで采女のことを相談すると、見学用のストラップをもらった。
着替えながら燈火さんと雑談する。燈火さんは髪をあまり伸ばしていない。黒基調で、青緑色のラインが何本か入った洒落た髪をしていた。
「どのくらい切るつもりなんですか?」
「十センチくらいだね。基本は変えるつもりないし」
「私が切りましょうか? 揃えるくらいならできますから」
「本当? でも、どこで切ろうか」
「連理さんのお部屋に行ってみたかったので、ジムのあとでどうでしょう? 鋏なら買って行けばいいですし、そのままお部屋で使ってもらってもいいですから」
「それならお昼は奢らせてもらうね」
「ふふ、楽しみにしてますね」
本当にお上品に笑う人だ。私もたまに真似したような笑みになるけれど、こんなにお上品に笑えているだろうか。
お昼ご飯の前に百円均一のお店に立ち寄った。燈火さんはこういうお店によく来るらしく、自分のヘアカット用の道具も揃えているという。
「え、自分で髪切ってるの?」
「そうですよ」
さっきのジムの会話の続き、車で話していたらそんな展開になった。
「ついでに髪を留めるゴムなんかもほしかったので、車で連れてきてもらえて助かります」
「私、燈火さんのことお嬢様みたいな人と思ってたけれど、結構庶民派なんだね」
「お嬢様だったらジムの受付なんてしていませんよ」
それもそうだ。お嬢様なら優雅に紅茶でも飲んでいた方が絵になるだろう。
そんな助手席の燈火さんに、采女が問いかける。
「燈火さんって連理ちゃんと同い年なんだよね?」
「そうですよ。同い年のお友だちです」
「連理ちゃんのことどう思ってるの? やっぱりえろい?」
「采女、調子に乗らない」
「そうですね。元々将棋で見ていた人なので、思ったより話せる人だなっていうのと」
言葉が止まり、私の胸元に視線が集まる。
「小柄なのに大きいですよね。画面越しよりも迫力満点でした」
「それは、褒めてるんだよね?」
「はい。それはもう、本当に」
今度は糸遊からの質問だ。
「将棋指してる時の連理ちゃんは格好いいよね?」
「はい。それはもう」
さっきと同じフレーズなのに、今度はなんだか嬉しくなった。
「ただ最近は解説の場面ばかりなので、格好よさと面白さが両立していますね」
「糸遊もそう思ってるよ」
「糸遊さんともお友だちになれますね」
「うん。もうお友だちだよ」
「あら、嬉しい」
ふんわりと温かな雰囲気に、采女はなぜか悶え苦しんでいた。
百円均一のお店の中、燈火さんに続いてあちこち物色する。モバイルバッテリーなんかも置いていて驚いた。これが百円? いや、結構するじゃないか。
何が百円均一だと言いたくなったが、采女も糸遊もそんなことは気にしていない。そういうものなの?
色々見て回ると、三百円やら五百円を越える品があちこちにあった。そういう時代なんだ。しみじみと感じる。
ただ、ゴム紐みたいな小物は百円プラス消費税程度でお買い得だった。こういうのは消耗品だ、使い捨て前提でいくつか買っておいてもいいだろう。
采女も糸遊も思い思いの品を手にしている。シンプルな学用品から、高校生が使うかわからないようなストッキングまで。いや、アイドルとして使うことはあるのだろう。きっとそうだ。
近くに買い物籠を見つけたので放り込んだ。ほぉ、トランプまで置いているのか。安いし二つほど買っておこう。
小さなチェスセットもある。これは五百円ちょっと。ついでに買っちゃえ。
「それネックレス?」
「いやー、眼鏡用のチェーンみたい」
采女と糸遊がアクセサリーを物色していた。そういえば睡蓮にもらったネックレス、あまり使っていなかった。
「眼鏡にチェーンなんているの?」
「ほら、外国のメイドさんとかお婆ちゃんとかが、本を読む時にぶら下げたりするアレだよ」
「じゃあ采女ちゃんもメイドさんになって付けてみたら?」
「メイドなら糸遊ちゃんでもいいでしょ」
「じゃあ一緒に着ようよ、メイド服」
やれやれ、そんなもの簡単に手に入るわけがないでしょうが。
「じゃあ、これも買っちゃおうか」
パーティー用のコスプレグッズ、メイド服まで揃っていた。百円均一侮りがたし。
「でも結構するんだね」
「うへ、手持ち足りたかな?」
「こっちで買ってあげるから、籠に入れちゃいなさい」
これは私の欲だった。二人のそういう格好も見てみたい。いや、アイドルなんだからそんな衣装もあって当然だろう。何もやましいことはない。
采女が遠慮なく籠に放り込んでくる。眼鏡のチェーンも入れていた。自分で買うという糸遊の小物も入れさせた。レジがバラつくと面倒だと言って半ば強引に。
「連理ちゃんありがとう」
「いいのよこれくらい」
素直にお礼を言う糸遊とは違い、采女はこのチャンスに乗じて色々買おうと物色を再開していた。
「お荷物いっぱいになりましたね」
鋏を二種類、あとは付け髪? 何だかカラフルなものを燈火さんがいくつか持ってきた。
「何それ?」
「エクステですよ。知りませんか?」
「燈火さんの髪みたいな?」
「はい。私のは染めてますけど、これはワンタッチのアレンジに使えるタイプです」
「案外安いんだね」
「ええ。どうせ髪を切るなら、色々試してみるのもいいかなと思いまして」
あ、私で遊ぶ気なんだ。
髪を切ってもらうついでだ、少しくらいならお人形さんになってあげてもいいかな。
「それもここに入れちゃっていいよ」
「あら、メイドさん」
「私のじゃないからね」
「そんなに否定しなくても大丈夫ですよ」
きっと燈火さんは勘違いをしている。これはこの二人のものだ。私は着ないからね、多分。
最後にドバっとお菓子が放り込まれた。急な重さにびっくりする。
「私、連理ちゃんのこと、凄くいい人だなって思ってたんだ」
「これ全部私が食べてあげるよ」
「あー、いじわるー」
調子に乗る采女を無視して、これ以上荷物を増やされないうちにレジに向かった。
糸遊も燈火さんもクスクスと笑っている。あーあ、今日采女を連れてきたの失敗だったかな。




