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23歳67_Invisible scars

 ジロジロと見られている。

 ジムで水着に着替えたあと、糸遊と燈火さんとプールへ歩いている最中、燈火さんの視線が常に絡みついていた。この人も采女みたいなセクハラ体質じゃないだろうな。

 準備運動を終えた糸遊が真っ先に泳ぎ始める。私もプールに入ろうかというところで、燈火さんから声がかかった。

「連理さん、少し触ってもいいでしょうか?」

「え、どこを?」

「肩甲骨の辺りです」

 至って真面目な様子だ。警戒心が薄れて身を任せる。

「ふむふむ。少しだけ胸の方も失礼しますね」

「え?」

 急なことに身動きを取れずにいると、燈火さんの繊細な指が私の脇から胸の下の辺りを撫でた。

「なるほど……」

「何がなるほどなんですか?」

「いえ、昔からよく鍛えられているようなので、どういう感じなのかずっと気になっていたんです。打撃系の運動をしていた方のように、広背筋から胸筋が発達しているので胸も自然と大きくなったんですね」

「セクハラされると思った」

「そんなことしませんよ。連理さんはいつも姿勢がいいので、一緒に踊る時に合わせやすいと考えていました」

 これまで誤解していてごめんなさい。放送のセクハラコメントも、実はこういうことを調べたかったからなのだろう。采女とは違うんだ。タップダンスに関しては早口で恐いことがあるけれど、それ以外は見た目通り綺麗な人らしい。

「一緒に踊るって、私が燈火さんと?」

「はい。嫌ですか?」

「嫌どころか光栄だけれど、レベルが違いすぎるでしょう」

 ダンススクールでは一方的に教わる立場だ。知識も技術も桁違い。張り合えるのは体力と根性だけって感じ。采女のセンスをいつも羨ましく思う。

「最初はそういうものですよ。どこかで実戦を経験すれば、案外すぐに追いつかれてしまうかもしれません」

「ないない。素人目に見ても、燈火さんの凄さはわかるもの」

「ふふ、それこそ光栄です」

 糸遊の一往復目が終わった。糸遊は基本クロールメイン、足もよく動いている。そして、大きなお尻がとてもセクシーだ。

 あれで高校一年生か。将来は相当にモテるだろうな。今は幼さが残っていて可愛がられてばかりだけれど、背丈はもう凌乃とほぼ一緒で私はいつも見上げている。

「燈火さんは何センチあるの?」

「八十センチです」

「じゃなくて、身長」

「百五十七だったと思います。もう、何を言わせるんですか」

「勝手に答えたの燈火さんでしょ」

 直前に胸の話をしていたせいで、どうやら勘違いさせたらしい。いい情報をもらった。

「燈火さんくらいが平均身長なんだよね」

「そうですね。連理さんはやっぱり気にしてしまいますか?」

「数字より扱いの方がね。常に何かしらでいじられてるから、たまに気疲れするよ」

 目つきがこんなだから、いじってもらえるだけありがたいんだけれどね。大盤解説会だといいネタになるし。

「そろそろ私たちも泳ぎましょうか」

「うん」

 日曜の午前なので人は多い。糸遊の使ったレーンを交代で泳ぎ、それぞれのノルマを消化した。

 やはり泳ぐのは気持ちいい。走るのも好きだけれど、こっちの方が全身を動かした気がしてバランスのよさを感じた。

 それでも毎日泳ぐわけにはいかないので、たまに走りに行くけれど。

 ジムから出て車で燈火さんを送りがてら、アイルランド行きのメンツとの顔合わせの相談をした。

 七月下旬の予定を空けてくれるというので、また今度詳細を決める約束をする。

 私と糸遊はこのまま研究会だ。泳いですっきりした頭で指す将棋は面白い。今日もたくさん学ばせてもらおう。


「こんにちはー」

「よろしくお願いします!」

 いつもの研究会、今日は人が少なかった。代表と常務さんがいない。

 棋譜を並べていた橋見さんに声をかけた。

「少ないですね」

「こんにちは連理さん。二人は午前撮影だったんだけど、長引いてるらしくね」

「撮影?」

「ほら、ドラフトで同じチームになったでしょ? あれのチーム顔合わせで、どこかに行ってるみたいで」

「なるほど。専さんは別チームでしたね」

「はい。お陰で今日は平和ですよ」

 近くにいた専務さんも会話に混ざった。糸遊は手を洗って、主任さんと若さんの対局盤面を覗きに行っている。

 平和か。確かに平和だ。いないのが一番口数の多い二人だけに、部屋が広く感じる。

「実は代表にドラフトで呼ばれたの嫌だったとか?」

 橋見さんの意地悪な質問に専務さんは苦笑するだけ。最初は無愛想な感じだと思ったのに、慣れてくると意外と表情に出すことがわかった。

「選ばれないよりは光栄ですよ。まあ、あの二人と同じチームで揃ったらちょっと考えましたけど」

「私もそれは嫌ですね。ずっと喋ってそうだし」

 思わず口を挟んでしまった。

「わかる。しかもしょうもないことばかり言って、相手より味方を混乱させそう」

 私に同意する橋見さんは、普段の鬱憤を晴らすかのように饒舌だ。

「そうそう、連理さん。今日は私の相手をお願いできる? もうすぐ二次予選があるから対策したくて」

「いいですよ」

 糸遊がリーグ戦で負けた棋戦、橋見さんは女流枠で参加している。これを勝ち上がれば本戦トーナメントだ。

「そのあとで僕もお願いしますね。こっちも対策したい相手がいるので」

「はい。それぞれ相手の情報とかありますか?」

 二人ともそれぞれのトーナメント表と、有力な候補を示してくれた。備え付けのパソコンで棋譜を探る。ふむ、これをベースに仮想の対戦相手になればいいのか。

 しかし、対局したことのない女流棋士の真似か。橋見さんの棋風はだいぶ勉強して慣れたけれど、想定の相手が得意とする振り飛車はあまり得意ではない。ここにいるみんなが居飛車党ということで、こういう場面では私にお鉢が回ってくるようになっていた。

 発想を転換して、今私にできることは何だろうと考える。振り飛車とチェスに連動性はないかもしれないが、最初から派手に動くという点では類似する点も多い。

 そして専務さんの相手の棋譜を見ると、これも相手は振り飛車党だ。専門家レベルの有名人だった。

 まずは橋見さんの相手の棋譜確認に十分間の時間をもらった。類似局面を想像し、使っていない将棋盤で駒組みを再現する。棋譜としてインプットするために、視野を狭めるイメージでブツブツと言葉を出力した。

 十分間では大した成果に繋がらないかもしれないが、思い付きで指すよりはマシだろう。過去覚えた局面と照らし合わせる。自分が指す側ではなく、相手が指した対局を参考に対策の対策を立てるイメージ。少しだけ理解が進んだ。


「よし、やりましょう」

「はい。よろしくお願いします」

「よろしくお願いいたします」

 橋見さんと将棋盤を挟んで座る。それぞれ持ち時間三十分、時間管理と記録は専務さんが担当してくれた。対振り飛車ということで、近くで見て勉強するつもりだそうだ。

 最近学んだ相居飛車の持久戦とは違う、序盤から動きのある展開。むしろ、橋見さんの想定する相手よりも速いペースで私の駒は動いていた。

 橋見さんの指し手が止まる。私も集中していたのだろう、ふと顔を上げると若い三人もこの盤面を観察していた。そんなにじっと見るほどでもないんだけどな。

 私の棋風を暴風雨と例えた、常務さんと専務さんの考えは正しいと思う。単純に手の激しさが私の棋風ではない。糸遊を鍛えたような、相手に息継ぐ暇を与えないような高速の指し回し。要は時間攻めが得意だった。

 相手は息苦しく、私はゆったりと緩急をつけられる終盤戦。これは単純に戦略というより、男性よりも色々と用事で立ち上がる必要がある場面が多かったことで、身についた癖でもあった。

 そしてもう一つ、私は姿勢をほぼ崩さない。将棋盤の前に座った以上、最初から最後まで姿勢を崩さずに座り続ける覚悟を持っている。身体を鍛え続けた理由の一つでもあった。こればかりは身長が低いことがメリットになったと思う。

 さあ、橋見さん。その崩れた思考体勢から、どんな手を見せてくれるの?

 考え込んでいる橋見さんをじっと見つめた。視線に気づいた橋見さんと目が合う。覚悟を決めたように橋見さんの手が動いた。

 崩れたか……。少し残念に思う。焦らせてしまったのなら申し訳ない。実戦形式とはいえ対策段階だ、今はそこまでやる必要もなかった。

 ただ、これは糸遊相手でも崩さなかった流儀。勝敗を決める以上、研究でもなるべく早く決着をつけること。時間の優位があっても、先に答えが見えている場面では相手の十秒後きっかりに、機械のように手を進めた。

「ありません」

「はい。ありがとうございました」

 元々橋見さんの得意な時間設定ではない。本来はもっと時間を使って、より綿密な計算を重ねるタイプだ。三十分の持ち時間は息苦しい思いをしたことだろう。

「一番時間を使われたところですが」

 一手一手、こちらの思考を盤に再現しながら解説する。解説の仕事の経験がここでも活きていた。相手に伝わりやすいように話す。候補から除外する手はしっかりと理由を述べ、最善と次善の基準を明確に示した。

「なるほど……」

 橋見さんもじっくりと思考に耽っている。負けた理由を考える時に感情的にならない。プロ意識の高さ、そして研究者気質な性格の表れだ。

「おう、帰ったぞ」

 代表と常務さんがやってきた。挨拶をして橋見さんに視線を戻した。ふふ、糸遊みたいに盤面に集中している。考えるのが楽しくて仕方ないのだろう。

「橋見さんと指してたんですか?」

「はい。今後当たる相手の振り飛車を真似てみました」

「専務、棋譜見せて」

「ああ」

 常務さんが隣で棋譜を見て、使っていない将棋盤で再現を始める。この中では一番オールラウンダーに近いこの人なら、もしかすると私の真似事振り飛車の弱点を見つけてくれるだろうか。

「お局は序盤から自分の駒組みに集中しすぎだね。ここで簡単に串刺しに誘導できたのに、気づけてないみたいだし」

 私も気づいていなかった単純なミス。相手のミスを攻めきれなければ勝ちは遠のく。将棋の基本だった。

「お局はやめてって。そこ再現してくれる?」

「えーと、最初からの方がいいか。結構簡単な手順なんだけど」

 こちらで盛り上がっていると、一番奥の席で代表と主任さんの練習対局が始まった。これだけ人数が固まっていたら口も出しにくいのだろう。小さくともありがたい配慮だった。

 私も慣れない振り飛車でミスがあった。ここでミスを正せば、次の練習相手として進化できる。改善できるところがあるなら見つけたい。私も必死だった。

 後ろから体重をかけてくる人がいる。糸遊かと思ったら隣にいた。若さんだった。思わぬ接触に驚いたが、全員で常務さんの再現手順に夢中になってしまう。

「はぁ。こんな簡単なことにも気づけないなんて」

「仕方ないよ。どうせ経理さんお得意の時間攻めくらってたんだろ?」

「よくもまあ、そんなにあだ名ばかり先に浮かびますね」

 専務さんはそうは呼ばない。常務さんは叩かれないようにあだ名を正すことがあるけれど、基本は先にあだ名で呼んでくる。実は相当頭がいいのではないだろうか。


 昔覚えた棋譜を逆の視点で利用する。これまであまり考えたことがなかった。自分のペースに巻き込むには、相手をどう誘導すればいいのか。そういう手順を見つけるための、叩き潰すための材料としてしか見ていなかったものだ。

 解説の仕事が入ったあたりから、そういう思考は一変したと思う。常に双方向で見る必要があった。そしてここでの練習対局は、普段の自分を相手にしているような感覚を求められることが多い。

 これまでになかった感覚が入ってくる。それが楽しい。楽しくて仕方ない。さっきの改善点は洗い出せた。早く次の将棋を指したくなった。

「じゃあ、次は僕とお願いします」

「はい、やりましょう」

 端の席で専務さんと向き合う。入れ替わりで橋見さんが記録係になった。

 常務さんは若さんと糸遊と二面指しをするらしく、長い座卓の真ん中を陣取った。ドラフトイベントのフィッシャールールの練習で、色んなパターンをやりたいらしい。少し騒がしくなりそうだ。

 専務さんとの対局はやはり負けてしまった。指定の振り飛車とはいえ、やはり付け焼き刃ではトッププロには歯が立たない。それでも悔しかった。もう一度私のやり方で指したくなる。ただ、そんなわがままは言えなかった。棋戦を控えている現役相手に、引退棋士の私が自分の都合を押し付けるわけにはいかない。

「ありがとうございました。これは勉強と自信になりますね」

「自信にされても複雑なんですけれどね」

「はは、ごめんなさい。いやぁ、さすがに連理先生の手は鋭いのでヒヤヒヤしましたよ」

 うぐぐ。この人、まろやかにした師匠タイプだ。あそこまで自由人ではないし、常識のある人だけれど、どこか皮肉屋なところがあるようだ。

 橋見さんを交えて意見交換をする。今回はどちらも先手を持たせてもらったので、先後逆だった場合の構想も盤面で再現した。これはこれで奥が深い。チェスの線対称な局面から始まるような、将棋とは違う対称性が頭に浮かんだ。

 こういう思考を混ぜても大丈夫なのだろうか。将棋とチェスは頭を切り替えるべきものだとネットにもあったし、このままだとどこかで沼にハマってしまうかもしれない。

「はい、二連勝。次の方どうぞー」

 隣で常務さんが調子に乗っていた。面白い、こっちも試してみたかったんだ。専務さんに許可を取って常務さんの目の前に座る。

「よろしくお願いいたします」

「経理さんはフィッシャーのご経験は?」

「いえ、ありません」

「ルール説明は大丈夫ですか?」

 はいと頷いて常務さんを急かした。この時点で私は負けていたのかもしれない。


 早く指せば時間が増える。余裕が増える。そう思って時間があっても焦ってしまう。秒単位の時間の使い方、これまで経験がなかった感覚だ。思ったより難しいぞ。

 チェスの意識は薄れていたはずなのに、ふとした瞬間に頭に浮かぶ。勝手に勘違いして桂馬とナイトの利きの位置を間違えかけた。余計な時間を使ってしまった。大慌てで手を進め、チェスクロックをタッチする。

 焦った割には善戦したと思う。しかし、経験の差以上に、フィッシャールールの難しさを知った。

「いやぁ、経理さんなかなかやりますね」

「うぐ、悔しいです」

「経理さんなら慣れたらすぐ強くなりますよ。元々早指しなんだから、時間が増えることを意識しすぎないようにすれば」

 なるほど。必要以上に時間を意識しすぎていた。確かにそうだ。序盤は慣れた手順をサクサク進めることが、時間を増やす利点になっていた。これに楽しくなってしまった。その感覚をどこまで持っていいのか、わからなくなったのが原因だろう。

 課題が増えてしまった。練習相手になれるように振り飛車を研究し、フィッシャールールにも慣れる。チェスもやりたいけれど、将棋の最中に思い浮かぶようでは駄目だ。切り替えもちゃんとできるようにならないと。

 しばらくは糸遊相手の練習対局も振り飛車主体にしようかな。その上でお互いにフィッシャールールに慣れる。そうすればお互いに将棋を深く理解できる気がした。

 その日はもう一度橋見さんと練習対局を指して終了になった。思った以上に頭を使って、お腹が空いている。

「よーし飯行くか」

 代表の声を待っていた。よし、たらふく食べるぞ。

 この研究会では、代表の次に私が食いしん坊だ。

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