23歳62_Invisible scars
あのあと、代表に言われた。
「傷のことはあれこれ言いたくないけどよ。そうまでして将棋を続けたいと思ったんなら、お前さんは誰より将棋が好きなんだろうな」
ただ嫌な記憶を忘れたいだけ。それができないから、他のことで記憶を薄めたかっただけ。勉強以外に覚えて意味のあることが将棋以外になかった。当時はそれだけだった。
代表は優しい。というより優しすぎると思った。もう私のために二度も涙を見せてくれている。まだ交流を始めて二か月と経っていないのに。
居酒屋を出る時は大変だった。大の大人が男二人で、小さい女を泣かせたように見えていたらしい。大声を出すでもなく、個室でのんびり話していただけなのに、私が涙で腫れぼったい目をしたせいで二人は疑いの目を向けられていた。
睡蓮のライブには一人で行った。結葉と糸遊は忙しくしているし、凌乃も自動車学校がある。采女はアイルランドの費用に回してよと軽く断られた。浮草にも声をかけたが、その場で采女が断ったからか同じように断られた。
涙腺が緩いままだったのだろう。睡蓮のライブのあと、一人寂しさを覚えて泣いてしまった。感動のせいだったのかもしれない。
もし睡蓮に先日の話をしたら、睡蓮は泣いてくれると思った。睡蓮の涙を見たことがないくせに。
料亭で不意打ちでお礼を言ったら泣きかけていたんだ。彼女が優しいことを、私は知っている。
そんな涙はまだ見たくなかった。睡蓮を感動で泣かせる。それが私の至上命題だった。
だから、今日は睡蓮に顔を見せられなかった。こんなに泣いてばかりの私を見たら、睡蓮も泣いてしまうかもしれない。
恒例になったライブ後の呼び出しを断った。ごめんね、睡蓮。今の私は泣かずに会える自信がない。
最近の生活は安定していた。
泳ぎ、踊り、将棋を指す。バランスよく過ごせている。歌の練習も続けている。
夜のレッスンに練習生は一人しか残らなかった。四月に入った他の二人は、思った以上の辛さに弱音を吐いて辞めてしまったらしい。
私たちは慣れっ子になった瑞香さんの指導は、どうやら新規加入者にとっては鬼のしごきだったようだ。
あの中で一番踊りが苦手と自称する結葉でさえ、練習生には高い目標だった。私の考えていた以上にWildflowersは成長している。それでも冬の一大目標、大規模会場に届く見通しは見えなかった。
凌乃と桜蓮がアイルランド旅行の参加を決めた直後、Wildflowersの九月末のライブが決定した。
スケジュールがタイトになる。これだとライブに支障が出る気がした。大慌てで亜嵐さんと木蓮さんに相談を持ち掛けると、意外な返事をもらった。
「九月の末のライブはもう動かせないんですか?」
「ああ。ただし、旅行は行ってもらって構わん」
「いいんですか? 確かにこっちもキャンセルは利きませんけれど」
「目先のライブのためだけに、今後の見識を広める機会を失う方が問題だろう」
木蓮さんが受けて続ける。
「それに、八月中はそんなに気合も入らないだろうしね。夏休みが終わる前にリフレッシュさせとくのもありだと思うよ」
「それより残る二人はどうするんだ? 結葉と糸遊は行かないんだろう?」
「それは現在検討中です。二人とも家事はできますから」
「檀に一緒に住ませるか?」
「いや、それは瑞香さんの負担が大きくなっちゃうし。桜蓮を連れていってもらえる分、うちで預かってもいいよ」
木蓮さんのところに? ちょっと待て、私ですらお邪魔したことがないんだぞ。ずるいぞ二人だけ。
「それなら安心だな。ついでに睡蓮のレッスンの邪魔でもさせてやってくれ」
「本物の邪魔なら追い払いますよ。まあ、結葉ちゃんと糸遊ちゃんならいい子にしてくれそうだけど」
ずるいぞ! 私もそこに行きたい!
「お前なんて顔してるんだ」
「変な顔してました?」
「嫉妬にまみれた小者中の小者、身長よりも小さく見えたぞ」
「その喧嘩買いました」
「やめなさいって。ほら、連理ちゃん行くよ」
負けた気分で木蓮さんと一緒に社長室を出る。最後に亜嵐さんを振り返ると、胸の前で両手を動かしてにやにやしていた。
「私もそれなりに色んな人見てきたつもりだけどさ、社長に喧嘩売るバイトなんて連理ちゃん以外知らないよ」
「あの人は生涯の敵だよ!」
最後のあのジェスチャー、私の大きなものは胸だけだと言わんばかりの動きだった。セクハラで挑発するなんて万死に値する。
「睡蓮ちゃーん、ライブよかったよー」
『何? 急に気持ち悪い』
こうなったら直接睡蓮にアポを取り、口実を作って先に蘇芳邸に遊びに行ってやろうと思った。
思い立ったら即行動、社長室を退室後すぐに睡蓮に電話をかけている。
「この間はごめんね。ちょっと目が腫れぼったくてさ」
『蜂にでも刺されたの?』
「蜂よりも睡蓮の言葉が突き刺さる」
『ふーんだ。人が呼んだ時に来なかったからだもんね』
「ペンネーム『SUIREN』さんからのご質問に答えたのに」
『あはは、見た見た。まさか選ばれるなんて思わなかったよ』
「あの時見てたの?」
『ううん。レッスン中だったから、帰って桜蓮と見ただけ。何かあった?』
燈火さんのセクハラ発言からのBANの流れ、ネタとして面白いから伝えてみた。
『あの燈火さんがねぇ』
「正直睡蓮のコメントだと思ったよ」
『まあ、私がいればそれくらいのことはしでかしてたけどさ』
しでかしてたと言うあたり、もう確信犯だ。
「まあ、コメントはほどほどにね」
『言論統制をーやめろー』
「判断は私じゃないからね」
他愛もない会話を続ける。そうだ遊びに行きたいと言いたかったんだ。
「一緒に出かけた時さ、部屋に上がっていいって言ってくれたでしょ?」
『うん。なーに? アイドル睡蓮ちゃんのプライベートに迫りたくなっちゃった?』
「まあ割と知ってる方だと思うけれど。アイルランド行きの前に、後悔のないようにと思って」
『聞いたよ。飛行機にびびってるって』
「私にプライバシーはないのか」
『ないよ。今週末遊びにおいで』
「わかった!」
『急に元気になっちゃって。可愛いなぁ連理ちゃんは』
通話を終えて大満足。真横に立っていた木蓮さんに白い目で見られていた。
「ずっと聞いてた?」
「うん。よくもまあこんなに堂々と、人の妹を誑かせられるもんだと感心してた」
廊下に出ていたはずなのに、木蓮さんもいたことに全然気づかなかった。
今週は色々あった。金曜日にようやく午前からフリーになり、久々に純喫茶へ向かう。
「お帰りなさいませお嬢様」
「急にどうしたの? 気持ち悪い」
いきなり何なんだ。普段通りの制服なのに、メイド喫茶みたいなことを言いだして。
「てんちょーこの客出禁にしまーす」
「ブレンドでいいかな?」
「はい、ありがとうございます」
「店員の意見を無視するなー!」
「私の指示を聞けない店員はいらないよ」
「ひどい!」
落ちつくなぁ。このお店。
「あ、今日はプリンも食べようかな」
「あーい、プリンいっちょー」
「君の言い方は本当にラーメン屋みたいだね」
二人のやり取りが聞こえる。本当に打合せはしていないのだろうか?
お喋りしながらも二人はテキパキと働いている。会話とのギャップがいつも大きなお店だ。
「ねー店長。八月の終わり頃、一週間くらいお休みもらうね」
「どこかに行くのかな」
「アイルランドに友だちと行くのー」
「君にも友だちいたんだね」
「友だちくらいいますぅー」
「私は違うからね」
「薄情者!」
必要以上に突き放すなぁ、あの店主は。
「はい、ブレンドと特製プリンお待たせ」
「私も浮草の友だちなの?」
「うふふ、私と連理さんの仲じゃないですかぁ」
「出禁にしようとしたくせに?」
「仲よしだからこその冗談でしょ?」
「旅費考えないとね」
「あーん。いけずぅー」
浮草のボキャブラリーはどこから降ってくるのだろうか。何にしても面白いことに変わりない。
コーヒーとプリンをじっくりと味わった。ああこれこれ、本当にここのコーヒーは美味しい。
プリンも私好みでしっかりとした弾力がある。睡蓮の家に行く時、お土産にプリンを持っていけないかな。
スイーツなら持ち帰れるはずだけれど、土曜日の朝から品はあるんだろうか? そう思ってカウンターを見た。
カウンターの中で浮草がスマホを開いている。
「スマホの充電忘れてたー」
「はい充電器」
「ありがとー」
このお店ではありえないくらい平和な会話が聞こえる。耳がおかしくなったのかもしれない。
帰り際に明日のお昼前の営業状況を尋ねた。お土産にプリンを人数分持ち帰りたいと店主に伝えると、いい返事をもらえた。
「事前に言ってくれるのは助かるよ。明日お待ちしています」
「助かります」
お会計を済ませて店を出る。いやぁ久々に満喫した。案の定、喫茶店っぽくない挨拶で送り出される。
しかし浮草は売れっ子なはずなのに、ここでの仕事を辞める気はないようだ。
二か月先のお休みもこの時期から許可を得ているあたり、本当に居心地よく過ごしているのだろう。
ただ、悪乗りが減る様子はなかった。やはりもう一度、お寺修行のような場所に連れていくべきだろうか。




