23歳61_Invisible scars
もうすぐ睡蓮のライブがあるという平日、お昼から将棋会館に呼び出されていた。
左に師匠、右に代表。並んで座っている。目の前には鬼の形相の女性職員と理事の棋士が一名。ずっと笑っている理事は、一月に一緒にお仕事をした立会人の先生だった。
先日のドラフト会議における、代表のルールを無視した行為について。名前の出た私と師匠まで呼び出されてはいるが、実際は代表に対するお説教だ。
「放送局の方で面白おかしく扱ってくれたからいいものの、どういう神経であんなことをしでかしたんですか!」
ヒステリックな女性職員だった。四十歳を越えている、結構綺麗めな人なのに残念極まりない。
「んなこと言ったってよ、盛り上がったんだしいいじゃねーか」
「家の中ではすぐ謝るくせに、味方が増えたらこの態度ですか!?」
とんでもないことに代表の奥様だった。将棋会館に代表が足繁く通っていた頃、代表が引っかけた年上の女性職員だ。
「なんで私たちも呼ばれたんですかね」
「僕が知りたいよ」
私と師匠はどこ吹く風。何なら自宅でやってくれってレベルの夫婦の会話だった。一応職務だからここで話しているはずなのに、完全に家庭内の喧嘩になっている。
「この間の健康診断でもお酒は控えるように言われていたでしょう? 毎晩毎晩飲み歩いて、帰ってからも寝酒だとか言ってビールを空けるし」
「付き合いってもんがあるんだよ。女は黙ってろ」
女なので黙っていよう。下手に関わりたくない。
「九先生聞きました? この時代に男尊女卑発言ですよ」
「あー、いえ、そうですねー」
黙っていようと決意した瞬間これだ。女同士の連帯感を求められても困る。
左の陰気な自由人と、右の陽気な自由人に挟まれ身動きが取れない。いつ話が終わるのかもわからない。頼りにしたい理事の先生は笑っているだけ。将棋界の地獄はここにあった。
「で、用件は何なんだよ。お説教ならもう聞き飽きたぞ」
あーあー、また火に油を注ぐようなことを……。ガミガミガミガミ、奥様の怒りは止まらない。一呼吸ついたところで理事の先生がようやく口を開いた。
「相変わらずですなぁ」
「見てないで先生からも何とか言ってやってください!」
「まあまあ落ちついて。本題は別にあるんですから」
だったらお説教もいらなかったじゃないか。そんなことを言おうものならまた始まるだろう。大人しく話の続きを待った。
「お腹空いたね」
「師匠は黙っていてください」
何でこの状況で呑気でいられるんだこの人は。呼び出しに片道四時間もかけて来ておいて、まともな言葉がお腹空いただと?
「えー、いいですか? はい、みなさんが静かになるまでずいぶん経ちましたね」
どこかの学校の先生だろうか。聞いたことのあるフレーズだった。理事の先生が続ける。
「先日のドラフトの結果を受けて、色々とご意見をいただいております。一番多いのは、九先生を出せというご意見」
「光栄です」
糞真面目に答えてしまった。この部屋の雰囲気が異常すぎて情緒が追いつかない。
「ドラフトをやり直せなんて意見もありますが、これはさすがに話になりませんね。ということで、次回以降のドラフト会議では、選ばれる二名までの枠は現役棋士と明確に定義したルールになりました」
ほら駄目だった。代表の心意気はありがたかったが、これで可能性もなくなった。フィッシャールール、面白そうだったなぁ。こっそり期待してしまった分、落胆も大きくなる。
「二名までの枠?」
師匠が突っ込みを入れる。既存のドラフトが三人チームだから私は違和感を持たなかった。でも、改めて指摘されると二名までっていうのもおかしな話だ。
「これはまだ暫定の話なのですが、チーム数は大きく変えずにチームの枠を拡大する話が出ています。そこに女流棋士やアマ強豪、そして引退棋士を入れる形で企画を盛り上げたいというお話です」
「それはいいですなぁ。やった甲斐があったというものです」
「調子に乗らないでください!」
代表の軽い返答に奥様が語気強く応じる。ずっと怒ってるよこの人。
「あのドラフト企画はもう何度か続いているので、ルールのテコ入れを考えていたようですよ。そこで引退棋士の名前が出たので、これは面白いと話題に上がったわけです」
「そこまで計算しておりました」
「黙ってなさい!」
代表の調子乗り発言とセットで奥様の怒声が鳴り響く。そんなに広くない部屋なので耳がおかしくなりそうだ。師匠は耳に指を突っ込んでいる。本当に自由な人だ。
「というわけで、あなた方三名には発起人の先生と放送局相手に交渉に臨んでほしいわけです。頼めますか?」
「まあ、その辺は俺一人でいいんじゃないですかね?」
「そうですね。お二人は巻き込まれた立場ですので、相談役のような形でご協力いただけますと」
一応私と師匠にも確認の声がかかった。師匠の立場を考えて口を開く。
「私は構いませんが、師匠はしょっちゅう来られるわけでもないでしょう?」
「はい、被害者なので辞退します」
私に対してだけでなく理事や職員の前でもこの態度。本当にプロなのだろうか。
理事の先生は笑いを我慢しながら師匠に返事をする。なるほど、こういう師匠みたいな人が笑いのツボなんだ。
「では改めまして、現棋殿位の先生は忙しくなると思いますがよろしくお願いしますね」
「おう! 任せとけ!」
「立場をわきまえなさい!」
今日一番の大声だった。いやいや、凄い空間だった。
師匠と代表、二人に挟まれて小さな会議室から出る。あんなに大きな声を出されるのなら、もっと広い部屋にしてほしかった。
「師先生、どうですかこのまま久々に一献」
「いいですね。連理も飲めるようになったんだろ。付き合いなさい」
「はい……」
ずいぶんと軽いお誘いだ。結構な一大事の相談と大役を請け負ったはずなのに、代表はもうお酒に頭が向いている。
師匠と代表は過去に接点があったようで、気軽に言葉を交わしていた。確かに電話で久々のような話し方をしていたし、師匠も代表さんと呼んでいる。嫌な包囲網ができてしまった。
師匠の帰宅は新幹線になるので、お昼過ぎから大きな駅の居酒屋に三人で潜り込んだ。
ここからなら三者の帰宅は別方向になるが、それぞれ帰宅の手段に不便はない。
体格と年齢的に代表が座る向かいに、私と師匠が横並びで座った。二人がビールを頼み、私はハイボールを注文する。ついでに色々と一品料理も頼んでおいた。
「いやぁ、上手いこといきましたよ」
「本当に面白いことをしてくれますね」
「わはは。連理が来てから面白いことだらけですわ」
二人が盛り上がりはじめた。私は黙って料理を分け、たまにハイボールで口を濡らすだけ。
「連理がプロになった時は、どんな奴なんだと楽しみにしてたんですがね。昔はどうだったんですか?」
「感情を出さない、無表情な子でしたよ。それはもう、将棋で勝てばいいんだろって生意気な雰囲気で」
「今とは正反対じゃないですか」
「ええもう。せっかくプロになったというのに、喜びの表情一つ出さなくて」
それはなんというか、師匠から出された条件があまりにもきつかったから。喜びがどうこうというより、何とかノルマを達成した感じだった。
「三段リーグを圧倒的な成績で突破でしたからな。とんでもないのが出てきたって盛り上がったもんです」
「僕が全勝じゃなければ辞退しなさいって伝えておいたんですよ」
「それでやり遂げてしまったと。連理お前、とんでもない師匠を持ったんだな」
「はい。それはもう」
ここまではまだ笑い話で済む。いいだろう、もう、私の昔話は。これ以上話が進むと、誰にも言っていないことを言わなければならない。
頼む、話が変わってくれ。そう祈りながら二人の話を聞き続けた。
「連理の当時の強さの秘密は……」
「それが僕にもよくわからなくて……」
少しずつ二人の話が聞きとりづらくなる。たった二口しか飲んでいないハイボールで酔っぱらった気分だ。
「連理? どうした?」
「あ、いえ」
隣の師匠が気にかけてくれる。いつもの調子で気丈に振る舞ってしまった。
「大したことじゃないんです。意外とハイボールが濃かったから驚いてしまいました」
「普段もっと飲んでんだろ? おら、水で薄めりゃ飲めるだろ」
どうせなら炭酸水で薄めたかったが、代表の指図に従って水で薄めた。ただの嘘だけれど、これでごまかせただろうか。
「ほんで、実際どうだったんだ? 連理、お前さんが一年目は馬鹿みたいに勝ちまくってたのは知ってるけどよ」
「えーっと、それは……」
言いたくない。言ったらずるいと思われる。そんなの将棋の勝ち方じゃないって思われる。ずっとそう思って、師匠にも隠し続けてきた秘密だ。
いつか糸遊には伝えるつもりだった。でないと私の幻影を追いかけてしまうから。違うんだよ、真っ当な方法じゃないんだよって、言い訳しなければならないことをずっと言えずにいる。本当は早く言わなきゃいけないってわかっているのに、その覚悟がまだできていない。
「連理。言いたくなければ言わなくてもいいよ。僕は直接聞いていないけど、僕の師匠から様子は聞いていたからね」
そうだ。大師匠なら、すべてを知らなくても察していた部分があるはずだ。それを師匠は聞いている。ならば隠し通せる話でもないか。
ここにいる二人は、人に吹聴するような人ではない。師匠はずっと見守ってくれた人だ。代表は私の過去を聞いて泣いてくれた人だ。代表のお喋りは有名だけれど、個人のことは黙ってくれている。そのことを研究会の誰にも言っていない。信頼できる大人たちだ。
恐い。プロになる資格なんてなかったと怒られるんじゃないか。今ここにいることも否定されるんじゃないか。そんな不安がよぎった。
それでも、これ以上二人に隠したくない。ちゃんと伝えたいという思いが上回る。いずれ糸遊たちにも伝える予行演習だ。そう思えば気が楽になる。
言おう。全部言ってしまおう。この二人なら理解してくれるはずだ。
「映像記憶ってご存知ですか?」
「なんだそりゃ。いや、聞いたことがあるような……」
師匠を見る。ちょっとだけ頷いた。このまま聞きに徹するつもりなのだろう。わかりました、代表に向けて話します。改めて覚悟を決めた。
「記憶力過剰とか、完全記憶とも言われるようです。大学に入る頃に調べたんですが、私には映像記憶に類似した画像記憶能力がありました」
「見たものをそのまま覚えちまうってあれか」
「はい」
「それがどうした?」
「私は昔からその画像記憶に悩んでいました。見たものを勝手に覚えてしまう、私の意思とは関係なくです。本当に小さい頃、小学生に上がる前に、この覚えすぎという状態を止める方法を見つけました。それが自分を痛めつけることでした」
代表も黙ってしまった。本当はもっと楽しい飲みの場になるはずだったのに、ごめんなさい。それからぽつぽつと、思いだしながら話を続けた。
私は小学校に上がってすぐ、両親を亡くしました。その頃には自分の手足を木や石、岩なんかにぶつけていました。
よく泣いていました。覚えたくない、頭がおかしくなる。止めるには痛い思いをするしかない。全部が辛いって。
両親は事故で亡くなりました。私を突き飛ばして助けてくれた代償でした。
その両親が死ぬ瞬間を、私は今もはっきりと思いだせます。他のことをどんなに覚えても上書きできません。画像として記憶したものを私は忘れられなかったんです。
その瞬間はいつでも思いだせます。でも、その瞬間から泣けなくなりました。覚えたくなくても、それを止めるために痛い思いをしても、涙は出なくなりました。
ただ、痛みは覚えすぎを止めてくれるんです。だから、やめられませんでした。
一息つく。当時は泣けなかったけれど、今思いだすことが辛くて泣きそうになる。
まだ、話は始まったばかりだ。薄いハイボールで口を濡らす。視界がぼやけていた。
両親の死後は祖父の元に行きました。他に身寄りがありませんでしたので。数年間は勉強ばかりしていたと思います。泣けなくなると同時に、笑えなくなっていました。気味悪がられるだけなので、外で遊ぶことも友だちを作ることもしませんでした。
勉強の覚えすぎを感じたら木を、そして岩を殴り、蹴りました。どうしようもなくなって頭がおかしくなったと思った時は、馬鹿みたいに走り続けました。おかげで今の体力と身体能力が身につきました。身体の鍛え方の本もあったので、それを覚えて色々練習しましたから。
しばらくして将棋を覚えました。たくさんの盤面を画像として覚えたのが小学校の高学年頃です。しばらくして師匠に出会い、無理矢理弟子にしてもらいましたね。
全員倒すから弟子にしてくださいって言いました。この記憶力があれば誰にも負ける気がしませんでした。同年代の子供との練習を棋譜集めとしか思っていなくて、手に入る限りの棋譜を盤面に再現して覚えていました。
奨励会に入った翌年に中学校に進学し、祖父が他界しました。祖父のことは大好きでした。なのに、祖父との思い出に笑うことも、祖父の死に泣くこともできませんでした。
ひたすらに勉強と将棋、あとは身体を鍛えるばかりでした。
爺ちゃんは何度も止めてくれた。そんなに自分を傷つけちゃいけないって。
それでも頭がおかしくなるくらい色々記憶に焼き付いて、一度覚えたものをじっと見つめて我慢したっけ。
覚えれば覚えるほど、辛い記憶は薄くなる。そう思って我慢した。
爺ちゃん、言うことを聞かなくてごめんね。いっぱい心配かけたよね。
思わず上を見てしまう。涙はもう止まりそうにない。
祖父が亡くなってからは、短期間だけ師匠にお世話になっていましたね。そのあと大師匠の元へ行き、それまでと同様に勉強と将棋、身体強化の日々です。
中学二年で三段に上がった時は、やっとここまで来たという気持ちだけでした。本当に自分でも驚くくらい無機質で、泣きも笑いもしないので、奨励会で会った人たちからは気味悪がられていたと思います。
その当時でも既にコンピューターによる将棋の学習が進んでいましたから、私の知らない盤面がたくさん見つかりました。おかげで簡単には負けませんでしたね。三段リーグ初年度の前半は当時のライバルたちの情報を取りにいき、集められるだけの棋譜を集め、盤面に再現して覚えました。
中二の後期の三段リーグで橋見さんとも当たりました。申し訳ない話ですが、当時は敵とすら思っていませんでしたね。この先当たる全ての人間で勝つつもりでした。師匠に全勝でなければ辞退しろと言われた時は、本当に最後のチャンスだと思いましたよ。
だから死ぬ気で対策しましたし、覚えられる限りの盤面を覚えました。棋譜にない局面まで、とんでもない量を記憶したはずです。
ただ、その頃から覚えたはずの局面が抜け落ちている感覚がありました。記憶の隙間がぽっかり空いたような感覚です。その時に気づいたんです、私のこの記憶力は時間制限付きなんだと。いつか、見ただけでは覚えることができなくなるんだと察しました。
三段リーグの結果はさきほどお二人が話していた通りです。
二人がさっき話していてくれてよかった。
この話を最初から最後まで、自分の口で語るのは気力が持たない。
正座している手に涙が落ちる。それでも言いきらなければ。最後まで話さなければならない。
弟子入りする時に師匠と約束しましたね。プロ活動は十年までにすると。そして全員に勝ってやめると。結果、全員に勝てたわけではありませんが、一応は結果を残して八年で引退した次第です。
プロ入り前からその頃はまだ、新たな盤面をそれ程苦労することなく覚えられていました。多少記憶に抜け落ちがあっても、これまで覚えた量でカバーできました。
そして、中三に上がりプロも一年目が始まります。順位戦以外の仕組みは曖昧にしか覚えていませんでした。
C級2組は運よく一期で抜けられましたが、あらん限りの記憶を振り絞って対策していました。最初から年間通して、対局者の名前がありましたから。
他の棋戦は相手のことをどう調べるかもわかっておらず、ほぼ予選の序盤で負けていましたね。
馬鹿みたいに勝てたのは順位戦だけです。実際は他の棋戦は大した成績ではありませんでした。さっきのお二人の話は、順位戦の成績が印象強かったからだと思います。
高校に上がり、師匠のお陰でこちらに拠点を移して一人暮らしを始めました。その頃にはもう、画像記憶能力はほぼなくなっていたんだと思います。だからといって何も覚えられないのではなく、棋譜と連動させて口に出したり、手を動かせば覚えられました。多分普通の人と同じ覚え方ですね。
「そこからは以前、代表に話した通りです」
恐らく瑞香さんから師匠にも伝わっている話だろう。瑞香さんとお互いに救われたと感謝し、泣き合った話。そして糸遊を弟子に取った経緯まで。
気がつけばボロボロと涙が出ていた。最後の方は淡々と、事実を語るように話していたはずなのに。自分でもわけがわからず泣いていた。
軽蔑されるだろうか。私がやっていたことは、ただ覚えたことを利用していただけ。要はカンニングだ。人よりカンニングが上手かっただけ。絶対にバレないカンニングで勝ち続けた。
二人から言葉がなかった。今思ったことを口にする。
「要はカンニングですよ。覚えたことをただぶつけるだけ。強い人の指し回しを覚えて、並べて真似するだけの卑怯者です。本当の将棋の強さじゃなかったんです」
「連理」
師匠が止める。それでも止まらない。
「軽蔑しますよね。自分の弟子がずっとカンニングしていて、それでプロになるなんて言って、全員倒すなんて言い張って。頭の中のカンニングぺーパーを作れなくなった瞬間ボロ負けですよ。情けない弟子でごめんなさい」
「連理、ちょっと黙りなさい」
師匠は泣いていない。ただ事実として聞いていてくれていた。代表は涙を浮かべている。この人は怒らないのだろうか? こんな卑怯者を、邪道でプロ入りした人間を、研究会に誘ってしまったことを後悔していないのだろうか?
「僕からお話してもいいですね」
「ああ」
師匠が代表に確認を取り、私に真っすぐに身体を向けた。
「おおよそは聞いていた通りだった。ただ、そこまで画像記憶が重いものだったとは思いもしなかった」
「知っていたんですね」
「君の大師匠が気づいていた通りだったね。ただ、君の師匠は僕だ。気づいてやれなくて本当に申し訳なかった」
土下座で謝る師匠にどうすればいいかわからなくなった。気がつけば、頭をあげてくださいと手を伸ばしていた。
「君のことをずっと弟子だなんて宣言しておいて、本当に情けない。連理が引退していなければ、代表さんに鞍替えを勧めていたところだ」
「俺の手に余る話だ」
二人が笑い合う。そんな話はどうでもいい。問題は私のやってきたことだ。
「軽蔑しないんですか? 弟子が卑怯な手で勝っていたこと。そんな卑怯者を研究会に引き入れたことを後悔しないんですか?」
「カンニングっつったってなぁ?」
「何か問題あるんですかね?」
「え?」
軽蔑しないの? だって、真っ当な方法じゃないよ。こんな勝ち方でプロ入りしたなんて、人に言える話じゃないでしょう?
「要は研究したことをやっただけだろ? 仮に今お前さんにその記憶力があったとしても、俺たちはただ『すげー奴』としか思わねーよ」
「それよりも、記憶力が人並みになったみたいな言い方だったのに、どうしてそのあとで勝てるようになったのかが気になるね」
その程度の認識? カンニングがただの研究?
この人たちがおかしいのか、それとも私がおかしいのか。なにもわからない。
「その後のことはざっと聞いたけどよ。要はその昔覚えたものを、今上手く使って強さを維持してるんだろ? むしろ昔以上に強くなってるみたいだがな」
「えっと、思考法を変えました。覚えたことを局面ごとに分類して、それぞれの手順に導くにはどうするか。ひたすら相手を研究して相手の思考を読むようにしたんです。瑞香さんのおかげで、人を『見る』ことと、『知る』ことの大事さを知りました。それで時間をかけて、少しずつ強くなりました」
強くなるために、恥ずかしい思いをいっぱいした。お礼の言い方、挨拶の仕方、頭の下げ方。全部ゼロから覚えなおした。笑みも涙も出なかったけれど、やってよかったと思えるようになった。
高校に入って、覚えすぎ対策でものに当たる必要がなくなっても、そういう恥ずかしい思いを忘れるために防音室の中で鉄板を殴った。これを活かせると思って高校で拳法の部活に顔を出したら、先生からそんなものは部位鍛錬ではないって怒られたっけ。
「お前さんが後悔していたのも、苦しんでいたのもわかる。ただ、それは恥ではないし、カンニングとも思わねぇ。ただの才能だろ? むしろ、その才能を失ってからの方がお前さんは強い。だから俺が今の連理を研究会に呼んだことは間違ってねーと思う」
「ありがとうございます」
間違っていない。そう言ってくれた。嬉しくてまた涙が出る。私の今に至る過程を認めてくれた。軽蔑されると思ったのに、追放されても、縁を切られても仕方ないと思ったのに。
「僕は話しにくい師匠だと思う。それなのによく我慢したね。連理は立派だよ。我慢させてごめんな。よく頑張ったね」
ずるい。そんな言い方をされたら、もう涙が止まらないよ。
師匠が頭を撫でてくれる。この人は本当にずるい。一番欲しい言葉を、一番効果的な時にだけ投げてくれる。ずるい。
金井さんに甘えた時が最後だと思っていた。金輪際誰かに甘えて泣くことなんてないと思っていたのに。
今日話したことはいずれ糸遊に、他のみんなにも話すことになる。将棋のことがわからなくても、卑怯なことをした人間だと思われるかもしれない。その認識は変わらなかった。
二人は理解が深かった。今回はそれに甘えられただけかもしれない。
みんなは優しいから、軽蔑せずに許してくれるだろう。そんな気はする。それでも、この手足の傷のことを、原因をすべて話す時、私は再び泣いてしまうのだろうか。




