23歳60_Invisible scars
夕方手前、ある程度局面が進んだことで解説に熱が入った。
お互いにしっかりと囲ってからの空中戦、私の棋風ではなかなか発生しない盤面になっている。
だからこそ面白かった。対局者と同じ時間を共有し、自分にないものを再現して考えられる。それも、タイトル戦という大舞台の対局だ。
「九先生、九先生。ちょっとスピードを落としましょう」
女流の先生の小声ではっとする。カメラの前だった。思った以上に熱が入り、視聴者を置き去りに盤面を動かしてしまっていた。
「失礼しました。現局面に戻します」
小さく深呼吸する。やってしまった。謝罪が必要になるかなと思って放送画面に視線を移した。思ったより批判のコメントはない。助かった。
夕方、もう一度質問コーナーに入った。今回はコメントを拾う形だ。自然と前傾姿勢になり、流れるコメントに目を通した。
髪はウィッグ? いえ、地毛です。
チェスにご興味は? ありますけれど、ルールを知っている程度なので今後挑戦するつもりです。
何カップ? 質問コメントは削除された。無視。
女流の先生にも質問が飛ぶ。次の棋戦の抱負は? そろそろタイトル期待してます。
なんだ、私よりも女流の先生の方が将棋関係のコメントが多いじゃないか。
それもそうだ。今後を期待される女流棋士と、既に引退している棋士。少し寂しさを覚えた。それでも後悔はない。
もし師匠との約束通り十年間という期間だったら、今がその最終年だった。だとするとプロを続けていてもあと十か月。あまり大差のない幕引きになっていたことだろう。
お二人の身長差は? 女流の先生と目を合わせる。お互いに答えなかった。
今日の対局者二人の印象は?
そういう質問を待っていた。そうだなぁ、何から言うべきだろうか。女流の先生が先に答えてくれている。その間に考えを頭の中でまとめた。
スタッフも関心を持っている質問のようだった。期待の視線を向けられ、私が口を開く番になった。
「まずは挑戦者の先生ですが、この舞台を楽しまれているようですね。午前に比べるとリラックスされているようですし、こういうじっくりとした進行が得意なようですので」
「九先生は対局経験がおありですよね」
「はい。受け潰されそうになった記憶があります。何とか勝ちを拾えたのを今でも覚えています」
「では、棋昇についてはどう思われていますか?」
少しだけ考え直してから口を開く。今の画面上の印象より、直接話した時のことがいいだろうか。
「まずは、緩急の揺さぶりに動じない、非常に高い対応力を持った先生という印象です。先日大盤解説でお話させていただいた時も、どこか飄々とした印象を受けましたね。植物に例えるなら柳のような人でしょうか」
「九先生との対戦成績は四勝四敗だそうですね」
手元に配られた資料を見つつ、女流の先生が話を進める。この時間になっても凛とした佇まいが崩れていない。
「はい。その数字だけを見ると、それなりにいい勝負と思われるかもしれません。ただ、一昨年のこの場面で三連敗でしたので格付けされた気持ちはありますね」
本当にボコボコにやられた印象しかない。その四か月前にも代表に棋殿戦でボロボロにやられた。ただ、持っていたタイトルを全て失ったことですっきりして開き直った結果、順位戦は好調な出だしを切れたのだ。
「棋昇が柳なら九先生は暴風雨と、面白いコメントがありますね」
研究会の誰かがコメントに紛れ込んでいるのだろう。常務さんか専務さんか、それとも話を聞いていた他の誰かだ。頷くだけに留める。
「九先生は今でも将棋の研究を進められているそうですが、どのようなことをされているのですか?」
コメントを読んだ女流の先生が、深掘りした質問に仕上げてくる。聞き手として優秀なのはわかるが、どうにも答えづらい話だった。
「まあ、その、ご縁がありまして研究会にお邪魔させていただいたり、将棋道場にお邪魔させていただいたりですかね」
糸遊のことはまだ言わない方がいいだろう。プレッシャーに感じるような子ではないが、今はまだ必要以上に注目を浴びさせたくない。
この間将棋会館で姿を見たというコメントもある。そうだった。橋見さんと合流する前、将棋会館内の将棋道場を覗き見していたことがあった。
「それはどういう状況で?」
「用事ついでに将棋会館の近くを通りまして、時間があったのでたまには覗いてみてもいいかなーと思いまして。本当に、考えなしに気軽に立ち寄ってしまいました」
いくつか嬉しい反応があった。「可愛かった」「男の子みたいな格好だった」「髪ですぐわかった」だって。
なんだなんだ、ファンみたいなコメントじゃないか。
「みなさん、ありがとうございます」
コメントを見ながら思わず口に出してしまった。自分の発言も合わせて、面白くなって笑ってしまう。
こういう世界もあるんだ。いいなぁ。声だけでは聞きとりづらいことでも、文字で見えると違うありがたみを感じた。
ただ、今日の私は結構いい感じのスーツ姿だと思うのだけれど、スーツが似合っているというようなコメントはなかった。ちょっと残念に思う。
局面が動いた。棋昇戦に夕食休憩はない。このまま終局まで苛烈な指し合いが続くことが予想できた。
中盤で開いた僅かな差、それを棋昇位が順当に広げている。挑戦者には厳しい局面だ。攻防一体の逆転手でもないかと盤面を動かして検討するが、都合のいい手は見つからなかった。
「AIの評価値は挑戦者やや有利なようですね」
「え?」
私が見落としている? 候補手を見せてもらう。えー、これはないだろう。人間的に難しいよ。思わず眉を寄せてしまった。
「この候補手で並べて見ましょうか」
女流の先生に声をかけて駒を動かした。
あまり時間はない。挑戦者が考えている間に一つの結論を出したかった。
挑戦者がこの手を指せたとしてもまだ互角。ただ、恐らくそうはならないだろう。
「指しましたね」
「やはりこちらでしたか」
私がAIを見る前に示した候補手、なんとか粘る一手だった。AIの評価では次善手となっている手だ。
ただ、これでは勝てそうにもない。棋昇位がミスさえしなければ、流れが変わることはなさそうだった。
それから約三十分後、挑戦者が投了した。対局室がたくさんのカメラのフラッシュで眩しくなる。
あれ、目を閉じてても眩しいんだよね。
しばらくしてオンラインの解説も終了になった。カメラに向かって挨拶。そして女流の先生とスタッフの方々にも挨拶。とても楽しく過ごさせてもらった。
まだ夜の七時過ぎだ。長引かなくてよかったと思う反面、スマホに届いている大量のメッセージが不安になる。
まずは家族関係。私が出かけている間に事件は起こらなかったか。それが心配だった。
あー、よかった。普段通りみんな学校から事務所へ直行、合間に私の映っている放送を見てからレッスンを開始したらしい。
瑞香さんと木蓮さんからはからかいのメッセージ。職場でずっと見ていたようだ。仕事をしろと誰も言わなかったのだろうか。
燈火さんからもメッセージが届いていた。「BANされてしまいました」と。何のことだろう?
電車に揺られながらメッセージを見る。笑いそうになることばかりだった。みんな好き勝手言ってくれちゃって、こっちは電車の中で笑ったら不審者に思われてもおかしくないのに。
電車を降りて駅から出てすぐ、ふと思いついて燈火さんに電話をかけた。
『こんばんは連理さん』
「こんばんは。BANされたって何の話?」
『はい。今日の放送を見ていたんです。連理さんがとても楽しそうにお話していたので、私も盛り上がってコメントしてしまったのですが』
普段は見るだけでコメントをするようなことがないので、どういうことを書き込んでいいのかわからなかったという。なるほど。
「具体的にはどのようなコメントを?」
『背泳ぎの話の時に胸のことを少々』
「燈火さんだったの!?」
睡蓮だと思い込んでいた。あまりにも直接的な書き方だったので、燈火さんの印象が崩れた。
『はい。警告されてしまいまして、これは駄目なんだと理解しました』
「それはまあ、ああいう場面だからね。駄目だよそんなコメントしたら」
『反省しています。なので、夕方のコメントではカップ数を聞くだけにしたんです』
そのコメントもすぐ削除されていた。なるほど、それでBANされたと。
「自業自得だね」
『うぅ。今度アカウント作り直します』
この様子だとまたやらかしそうだ。本当に見るだけにしてもらいたい。
「今度専門家を紹介するよ」
浮草にネットリテラシーを叩き込んでもらおう。しかし、燈火さんの興味はそこになかった。
『それで何カップなんですか?』
反省していないようだ。挨拶もせずに電話を切ってやった。
帰ったら案の定、今日の放送の観賞会。レッスンを終えた四人と一緒に、ご飯を食べながらテレビに映した動画を見た。
将棋の内容の部分はさくっと早送り。采女がリモコンで操作して、上手いこと時間を短縮してくれた。私のメインのお仕事なのに。
最初に燈火さんがBANされたことだけ、ネタとして伝えておいた。采女が真っ先に反応する。
「えー、削除されたコメント見たかったなぁ」
「今度燈火さんに聞きなさい。さっき電話で叱っておいたから」
何を思い付いたのか、采女がニヤリと悪い笑みを浮かべた。燈火さんの名前を出さない方がよかっただろうか。
最前列に采女と凌乃、そして結葉がテレビの前に座ってご飯を食べながら観賞している。私はテーブルからその様子を遠目に眺めた。自分の顔をドアップで見るのは恥ずかしい。
早々に食べ終えた糸遊だけは将棋盤の前に座り、対局の進行状況に合わせて駒を動かしていた。もう立派な棋士の顔だ。
睡蓮の質問が読まれた時は特に盛り上がった。みんなすぐに反応して、アイドルのことを私がどう答えたのか興味深そうに見ている。
「詳しくないって、逃げたね連理さん」
「実際そんなに詳しくないもの」
「はぁー、これだから」
やれやれと頭を振る凌乃に、結葉も采女も笑って同意した。
おやつのシーンは特に盛り上がった。画面を見ると、おやつを目の前に待てを指示されている犬みたいに見える。女流の先生の話を聞きながら、卑しくもロールケーキを凝視している自分の姿があまりにも恥ずかしかった。
「うわぁ、私こんな感じだったんだ」
「連理ちゃん、ペットみたいで面白いよ」
結葉にまで言われて泣きたくなってしまう。
他にもマグネットが強くて動かすのに力んでいるシーンとか、深呼吸して上半身の動きが見えたシーンのいかがわしいコメントだとか、観賞会というより私を笑うための時間はすぐに過ぎた。
時計を見る。まだ誰もお風呂に入っていないのにもう十一時だ。明日も学校があるのにこれはよろしくない。
「はいはい、今日はもう切り上げて。さくっとシャワーを浴びてらっしゃい。寝る時間でしょ」
采女からリモコンを取り上げる。さっさとパソコンも閉じて追い払った。食器は仕方ない、私が片付けよう。
三人が逃げるように退散する。その三人を見ていた糸遊が楽しそうに笑っていた。
「連理ちゃん、可愛かったよ」
「糸遊までからかわないでよ」
「そういうつもりじゃないんだけどなー」
糸遊の隣に座ってぐったりと頭を預ける。糸遊は棋譜を並べ終えたばかりで、他の候補手を検討していた。
「采女ちゃんが早送りしちゃったからわかんなかったけど、将棋のこと真剣に考えてる連理ちゃんは格好いいんだもん」
「それを可愛いって言ったの?」
「うん」
そうか。真剣に将棋を考えている姿は格好いいし可愛いのか。よくわからない。
睡蓮のライブみたいなものだろうか。浮草もそうだ。ソロでライブに出てる子はずっと表情を見ていられる。真剣で、楽しそうで、凄く可愛くていつも綺麗だ。
そういう魅力が私にもある? それとは違う見え方なのかな?
ずるずると糸遊の肩にもたれていた頭を落とし、糸遊の膝に落ち着いた。これはなかなかの寝心地だ。
「くすぐったいよ」
「今日くらい甘えさせてよ」
「仕方ないなー」
以前とは逆の立場になってしまった。身長差もかなりついてしまったことだし、たまには甘えさせてもらおう。
膝枕のまま伸びをする。手が糸遊のお尻に当たった。ほう、これは……。
「連理ちゃん?」
「いやぁ、糸遊も成長したね」
思わずポンポンと触ってしまう。采女の気持ちがよくわかった。これは触りたくなる感触だ。
糸遊が不意に立ち上がり、私の頭が床に落ちた。ゴツッという鈍い音と共に頭に痛みが走る。
「今日はこれで許してあげる」
笑顔で言う糸遊を下から見つめた。ちょっとこわい。
「反省します」
「よろしい。じゃあ将棋盤片付けておいてね」
本当にいつもと反対の立場になってしまった。それでもあの感触は忘れられない。本当によく育ってくれた。




