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23歳59_Invisible scars

 五月末、もう一つの女流予選があった。

 最初はリーグ戦方式で、上位が確定と思われるようなアマチュアの強豪が二名、糸遊と同じく無名のアマチュアが一名による、計四名のグループだ。最悪の組み合わせだった。

 案の定糸遊は負けた。一勝二敗。もう一名のアマチュアが強豪に一矢報いたが、二人が二勝一敗で終わった。

 相手が悪すぎた。糸遊とはもっと上で当たってくれればよかったのに。

 救いはあった。強豪相手の二戦、どちらも内容はよかった。ただ、終盤力の差はメンタルだけではどうしようもなく、時間に追われた糸遊がミスして敗着となった。

 もっと時間配分を考えるという課題は見えた。早指しメインでの経験を補強するため、深く読む練習を追加していた。これで混乱が生じてしまったらしい。

 だからといってこれまでと同じように指していたら、恐らく序中盤で形勢が決まっていただろう。難しい塩梅だった。

 代表とも話し合ったことがある。糸遊の早く結論を出してしまう癖を、もっと深く読む練習で対応力を増やしたいと。

「俺はまだそんなに糸遊の将棋を知らねぇからな。連理がそういうならやらせていいんじゃねーか?」

「私は誰かに教えるのは糸遊が初めてなんです。だから、教えていることが正しいか自信を持てないことがあります」

「経験豊富な奴が正しいとは限らんだろ?」

 あっと思った。道場主の言葉だ。いつも考えて悩んでいる、そして相談していると言っていた。

「ただ、明確な間違いなら俺も他の奴も指摘できる。常務でも専務でも、お局でもイテッ」

 無言の橋見さんが掃除機で代表を小突いた。代表がわざとあだ名で呼ぶのはわかるけれど、橋見さんの反応が早くてびっくりする。

「では、気になったらまた相談させてください」

「おう。あんた本当に糸遊が大好きなんだな」

「糸遊だけじゃないですよ。他の三人も大事ですから」

「こういうの親馬鹿って言うんだよな」

 橋見さんに同意を求める代表を睨みつけた。私の視線を気にも留めていない。

「そうですね」

「橋見さんって、実は私の敵側ですか?」

「そんなことありませんよ」

 怪しい。この間のスマホ強奪からの代表へのパスは、明らかに私で遊んでいた。

 この二人はすぐにすっとぼける。掴みどころがないのはこの研究会の特性なのだろうか。

「ところで、ここに来るといつも二人いますけれど、どういうご関係なんですか?」

「夫婦だよ」

「ちょっと、代表」

 そのリアクションはどっちなの? この間橋見さんを送り届けた住所はここから離れていた。ここも別に代表が住んでるわけじゃなさそうだし、あれ?

 しばらく私の反応を見ていた代表がニヤリと笑う。

「冗談に決まってんだろ。何固まってんだ」

「あ、そうですよね。そっかー、ですよね」

「代表は私の叔父さん。お父さんの弟さんです」

「ああ、それで」

 身の回りの世話? というかここの掃除もしているのか。あー、びっくりした。

「ご自宅ではかかあ天下で、いつも奥さんの尻に敷かれてますよ」

「そんなことまで言うこたねーだろ? 連理が俺に惚れてたらどうすんだ」

「連理さんが? ありえませんよ」

「はい、絶対にありません」

 よくもまあ、この風体でそんなことを思い付くものだ。丸坊主、でっぷり、コワモテ。いや、この容姿だからこそ言える冗談なのか。

 長居すると色々と余計なことを知らされそうなので、用事があると言い訳して立ち上がった。二人はずっと言い合っている。

 今日は出勤前のジム時間を削って相談に来ていた。泳げないのは残念だったけれど、疑問が晴れてよかったと思う。

 お礼を言って退室した。糸遊への指導方針は間違っていない。少しだけ自信になった。

 その自信を持って、今週のオンライン解説に臨める。おかげでやる気が出た。


「お久しぶりです。本日はよろしくお願いいたします」

「よろしくお願いしますね。九先生とご一緒するのは温泉以来ですか」

 橋見さんに比べると幾分若く、華やかな印象の女流棋士。人気の理由は容姿のよさだけでなく女流としての実力の高さにもある。

 惜しくもまだタイトルを手にしていないが、何度も挑戦しているだけあって女流としての段位も上り調子の先生だ。

 六月に入って早々の将棋のお仕事。引退直後はこんな形で依頼を受けるなんて、夢にも思わなかった。


 今回は、二つの棋戦を同時に防衛するタイトルホルダーへの期待を胸に秘め、オンライン解説に臨んでいる。

 挑戦者はこれまで目立った経歴のない棋士。年代としては若手と中堅の間といったところで、歳の頃は専務さんと同じくらいだろうか。和服に慣れていない様子で緊張している印象を受けた。

 放送が始まる。女流棋士と挨拶し、紹介を受けて席に座った。立っている時より少しだけ目線が近くなる。

 現地の解説だけでなく、オンラインの解説にも慣れている人と一緒でよかった。色々と話を振られ、放送中のカメラを忘れるくらい楽しく話せた。

 盤面の動きは緩やかで、どちらも序盤の序盤で駒組みを進めている段階だ。当分ぶつかり合いもなさそうだった。

 それでも仕事は仕事。ずっと雑談しているわけにもいかないので、これまでの駒の動きをマグネットの盤面で再現する。

 代表に指摘されたことが役に立った。持久戦模様からの駒組みを練習していたおかげで、こういった緩やかな局面に対しても候補手が思い浮かび、滑らかに口が動く。

 ありがとうございます、代表。今頃奥様の座布団になって見ておられますか?

 しかし、このマグネット式の将棋盤、思ったより磁力が強い。ベタンと吸い付くように駒が張り付く。意外と力仕事だったんだと今更ながらに実感した。

 対局者が注文したおやつの紹介に入った。二人とも飲み物のみ。現タイトルホルダーの棋昇位はアイスコーヒー、挑戦者は抹茶スムージー。どちらも美味しそうだ。

「私たちが一月にご一緒したところもお茶の産地でしたね」

「そうですね。今回も近くにお茶の一大産地がある場所です。九先生はこの辺りのご出身ですよね?」

「地方としては近いのですが、二つ隣の県ですね。まだ行ったことのない土地なので、いずれ行ってみたいです」

 お互いに柔和な笑みを浮かべながら、そして変化のない盤面にやきもきしつつ話だけ進める。

 大盤解説の時は動きがあったところからの出演だったので、こういう動きのない午前の時間の使い方がわからない。

「では、お時間もまだあるようなので、質問のコーナーに入ります。先生、お座りください」

 事前に募集していた質問だとかで、放送局側で差し障りのないものを分類してくれているはずだ。それでも安心していると色々といじくり倒すような質問が飛んでくるので、警戒心を持って対応する。

「では、ペンネーム『SUIREN』さんからのご質問です」

「その方の質問はやめておきましょう」

 睡蓮、隠す気すらないじゃないか。今月ライブのくせに、ここまで調べる暇があるなんて思いもしなかった。

「駄目ですよ。えー、九先生へ質問です。『引退して一年が経過しましたね。なにか新しい趣味などは見つかりましたか? 例えば可愛いアイドルに目覚めたとか、是非お聞きしたいです』とのことです」

「はい、ノーコメントでいきたいと思います」

 放送の画面をこちらに向けられる。逃げるなとか、ちゃんと答えろというコメントが流れていた。

「あら、ノーコメントでは納得されないようですね。改めて、九先生どうでしょう?」

 こっちがそれなりに忙しくしていたことを知っているくせに、タチの悪い質問だ。なんだ、可愛いアイドルって。睡蓮の名前を出してほしいのか?

「そうですね。アイドルとかその辺のことは詳しくないのですが、ご縁がありましてライブに行ったことはあります。とても盛り上がって楽しかったですよ。先生はどうですか? アイドルのライブに行ったことは?」

 ここでの会話はお互いに先生呼びになってしまう。相手の方が年上で、女流としての現役棋士でもあるからだ。

「私はありませんね。機会があれば是非行ってみたいとは思っています。九先生は、他にご趣味などは?」

 あ、まだ続けるんだ。睡蓮に質問されているみたいで、変に意識しちゃって答えづらいんだよなぁ。

「最近は週二回から三回ほど泳ぎに行っていますね。背泳ぎが好きになりましたよ。肩の動きを意識しつつ、呼吸もしやすいので」

「あら、九先生も水泳を。私も学生時代に水泳をちょっとやっていたんですよ」

 ほうほう。それは視聴者も興味を持つことだろう。コメントを見る。背泳ぎでおっぱい浮いてそうだと? こいつ睡蓮だろ。そして運営に削除されている。

 調子に乗りすぎたな。ざまあみろ。内心ほくそ笑みながら女流の先生と質問コーナーを進めた。

「では、次の質問。これは私も気になっていました。ペンネームは特にないそうです。えー、『先日のドラフト会議で名前が出たのは仕込みですか?』とのことです」

「私もドッキリでひっかけられました。現棋殿位の先生とは少し交流がありまして、直接苦情をお伝えしております」

「その時はなんと言われましたか?」

「えー、非公式戦だから別にいいだろと、子供じみたこと言ってましたね。本当、何を考えているのやら」

「あの先生はそういうお話や悪戯が大好きですもんね」

「本当に困ったものですよ」

「では、少し踏み込んだ質問になりますが私から。実際に出てみたいとは思いませんでしたか?」

「え……。あー、そうですね。チャンスをいただけるのならばとは思いますが、この話続けて大丈夫ですか?」

 スタッフの反応を見る。他の放送番組の話題になるのでNGにならないだろうか。そういう期待をしたのに、ディレクターの方が続けてくれとカンペを示してきた。

 のらりくらりというわけにはいかず、可能ならばとか色々条件付きの答えで何とか乗り切った。女流の先生もスタッフも笑っている。視聴者も楽しんでいるようだった。

「あら、現在一万人も見ておられるようですね。ご視聴ありがとうございます」

「一万人!?」

 思わずカメラを見た。やばい、気まずい。手を振ってごまかす。

 人前に立ち、周囲に笑ってもらえるのは悪い気分ではない。睡蓮も同じような仕事をしているのだ。

 たくさんのファンの前で笑顔になり、ファンを笑顔にするアイドル睡蓮。対して、カメラ経由が中心で人前に立ち、人に笑われる引退棋士の私。

 笑わせるのと笑われるのでは大きく違う。

 ちくしょう、やっぱりあの女、いつか! 絶対! 人前で泣かせてやる!

 気が付けば局面も進んでおり、盤面の解説の再開を促された。まだまだ中盤手前といったところか。差があるとすれば、先手の棋昇の方がやや好きに動けている印象ではあった。

「後手はこのままだと窮屈な展開になりますね。お昼過ぎに急に動き出す可能性もあると考えます」

「例えばどのような形になるでしょうか?」

 そんな感じで対局者がお昼休憩に入ったあとも解説を続け、少し遅れてこちらも休憩に入った。

 カメラのない環境に入りほっとする。女流の先生とはそのまま一緒に、お昼ご飯を取りに外へ出かけた。


 お昼ご飯を番組の予算でいただいた。近場の鰻屋さんだ。とても美味しくて、私たちの選んだ食事も番組用にカメラに収められた。

 私と女流の先生が店内で食事を取る風景も撮られる。自然な感じでいいと言われていたので、特に気にせず食事を楽しんだ。食後も何度かシャッターを切る音がした。特に気にする必要はないだろう。

 お昼過ぎの放送再開直後。まだ局面に動きがなかったので、対局者のお昼ご飯の紹介から始まった。

 現地の美味しそうな食事が並んでいる。こちらも鰻で結構なものをいただいたけれど、やはり対局場の宿泊施設で出される食事は格が違った。

 続いて私たちの食事風景、そして料理の紹介がされる。といっても鰻だ。そんなに長く画面に映してコメントを稼げるものでもない。最後に、お吸い物を飲み干して幸せそうな、腑抜けた顔の私が映された。

「ちょっと、ちょっと!」

「九先生は本当に幸せそうにご飯を食べられますよね」

「そうですねー。じゃないですよ! その前に写真終わりません? ずっとこれ映ってるの嫌すぎるんですけど」

「今日は将棋はもういいので、ずっとこれにしましょうよ」

「駄目でしょ!」

 スタッフにお願いしますよーと声をかけた。奥でディレクターと一緒に笑うスタッフが、ようやく機器を操作して切り替える。そのお願いしているところをアップで撮られて恥を重ねた。本当に恥ずかしい。

「あーもう、顔が火照ってきました」

 せっかくフォーマルなペンシルスカートのスーツで決めてきたのに、どうにも格好がつかない。暑くて上着を脱ぎたくなる。だが、変に動こうものなら何をコメントされるかわからない。

 局面よ動け、ちゃんとした仕事をさせろ。そう念じるもなかなか動かない。

「では、午前までの展開をおさらいしましょうか」

「はい、そうですね」

 うんうん、将棋の解説に来たんだ。同じ局面の繰り返しだろうが何だろうが、ちゃんとした将棋の話をしないとね。


 十五時のおやつタイムで、対局者の注文内容が映し出された。

 フルーツの盛り合わせ、美味しそうだ。鰻で栄養補給してから二時間も経っていないのに、色々あって頭が糖分を欲していた。

「いいなぁ」

「え?」

「あ、失礼しました」

 思わず心の声が漏れてしまう。これだとただの食い意地張りの女でしかない。コメントを見る勇気はなかった。

「そんな九先生に、番組からのおやつが出るそうですよ」

「私だけにじゃないでしょう?」

 それでも女流の先生はうふふと笑って私を引き立て、もとい私で遊んだ。

 小皿で出されたのはカットされたロールケーキ。しかも、フルーツが盛りだくさんのものだった。

 これはなかなか。思わずすぐに手が出そうになる。危ない危ない、ついついすぐに食べそうになってしまった。

 ケーキの紹介を女流の先生が読み上げ、結構いいところのものだと教えてもらう。利用したことのないお店だった。

 コーヒーも運ばれてどうぞと合図をされる。待ってましたと言わんばかりにフォークを動かした。いかんいかん、落ち着いてお上品に食べなければ。スーツに落として汚れでもついたら大変だ。

 おぉ! これは美味しい。現地のフルーツ盛り合わせに負けてないんじゃないか。あっという間に平らげて、コーヒーを啜った。こちらはあんまり美味しくない。浮草のバイトする純喫茶に行きたくなった。

「九先生は食べるのがお速いですね」

「ええ、あんまり美味しくて。え、お代わりもいただけるんですか? はい、ください!」

 空になった小皿をスタッフさんに差し出す。笑顔で応じてもらえた。そしてはっとする。

 家や事務所にいる時のノリでお代わりをもらってしまった。もういい、知ったことか。

 小皿で小さかったので二切れ目もペロリと平らげた。コーヒーは飲み干していたので、水で口の甘味を流す。ほっと一息ついて現実を思いだした。まずい、これ全部カメラに映ってるんだった。どうしようという目で女流の先生を見る。笑ってケーキを食べている。駄目だ、終わった。

 だって仕方ないじゃないか。甘いものが欲しい時にあんなに美味しいものが出てくるんだもの。ごまかすように解説用の盤面と中継の局面を見比べる。少し動いたが、まだ決め手には程遠い。

「ここで、現地解説の先生と中継が繋がっています」

 カンペに従い女流の先生が対応する。現地の解説担当として何かと私と縁のあるベテラン棋士と、若い女流棋士が映し出された。こちらの画面がワイプ形式で小さくなる。

『九先生はどのような展開を想定されているでしょうか?』

 そんな質問がベテラン棋士から飛んでくる。挑戦者の方に決断が迫られるだろうと、口頭でできる説明で場を繋いだ。

 あちらの控室の様子が映し出される。その中にいた見学棋士の一人にマイクが向けられた。最悪だ。

『九先生のことだから終局まで見えてるのでは?』

 ニヤリと悪そうな笑みで言うのは師匠だった。確かに今回の対局地は私と師匠の故郷から近い。見学にいるのはわかるとして、よりにもよってなぜこの人にマイクを……いや、ベテラン棋士もこれを想定していたのだろう。ニヤニヤしている。

「そんなことはありませんよ。まだまだ難しい局面だと思います」

『そうですか。ドラフトに名前が出たくらいなのに』

「それは今関係ありませんよね?」

『それもそうですね。いやはや、失礼しました』

 ここでもほじくり返される。これでいいのか将棋界。引退棋士で遊ぶ現役棋士に粛清が必要なのでは?

 程なくして中継は終わり、何とか乗り切って休憩に入った。

 あーだめだ、嫌な汗かいた。カメラに映っていないタイミングで上着を脱ぐ。睡蓮がまだコメント欄にいたら、絶対いじられるだろう。正直それどころではない。

 まだまだ局面は中盤だ。頭が働くうちに、ちゃんとした仕事をやり遂げたかった。

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