23歳58_Invisible scars
ゴールデンウィーク直後の出勤日、事務所の従業員全員で会議が開かれた。
私のことではない。いつもの定例会議だ。どの練習生が辞めるとか、追加で入れるとか、ロケの話だったりとか。
特に興味を引く話題はなく、バイトの身としては流れるような会議で楽なものだった。
そして、最後に瑞香さんから動画が提供される。
「ああ、やっぱり師匠経由で……」
軽い絶望感を覚えた。私が亜嵐さんに個別で相談したかったことを、瑞香さんは師匠ルートで仕入れて会議に持ち込んだ。
私にはもう、プライバシーなんてないのかもしれない。
「これは将棋のイベントのドラフト会議の一場面でして、四人目の方にご注目ください」
事務員さんたちも「この恐い人?」と不思議そうに見ている。亜嵐さんは何かを期待するように、少女のように目を輝かせていた。
代表がパネルを開くシーンになる。
『九連理』
爆発するように木蓮さんが笑いだす。瑞香さんも声高々に笑っているし、亜嵐さんもゲラゲラと笑い声をあげた。
『いや、私の知る一番強い人を選んだつもりなんでね。引退棋士は駄目でしたかな?』
「お前、引退してもずっとネタにされてるのか」
「聞いてました? この人大真面目にやってるんですよ。尚更タチが悪いんです」
私の名前がパネルに出された前後のシーンが繰り返し再生される。瑞香さんも笑いながら器用に操作するものだ。振付師はこれくらい器用でなくてはやっていけないのだろう。
「一番恐い顔したおっさんが一番面白いじゃん。この人知り合いなの?」
「将棋の研究会に誘ってくれた人だよ。引退棋士を誘う時点で、頭のネジが取れてる人だって気づくべきだった」
「髪もないしね。あはははは」
事務員さんたちも一人残らず笑っている。普段笑った顔を見せない男性職員なんて、腹を抱えて本気で苦しんでいた。そういうキャラだったのね。今度悪戯してやろう。
「で、面白いのはいいんだけど、連理ちゃんはこれに心配なことがあるって話よね?」
「そこまで知ってるなら瑞香さんから説明してよ」
「やーよ。連理ちゃんから聞いた方が絶対面白いもの」
「別に面白い話じゃないんだけれど」
かいつまんで説明した。師匠や代表を中心に、このドラフトのルールに楯突く可能性があること。それが通ってしまった時に、私に悪評が出る可能性があること。そしてその場合、この事務所に関係する人たちに嫌な思いをさせる可能性があると。
亜嵐さんが即答した。
「ないない。考えすぎだ」
「どうしてそう言いきれるんですか?」
「普段のお前を見てる奴は、誰もそんなこと気にしないからな。最近は悪ふざけも覚えたが、基本は糞真面目で自分から目立とうとしない謙虚な奴だと思ってる」
あとは、チビ、巨乳、実は美人、基本根暗、冗談が通じない、体力お化け、えろい、安月給。褒められているのやら、けなされているのやら、とにかく特徴を並び立てられた。安月給は亜嵐さんのさじ加減だろうに。
「精神的苦痛を理由に早退したいと思います」
「バイトだからいいぞ」
「それはともかく、私が懸念しているのは、練習生とかアイドルとして来ている子のご家族からの印象です」
「だからそれも大丈夫だと言ってるだろう。何なら事務所に目立つコネを持つ社員がいるから娘たちも売れる、みたいな考えもあるからな」
それはそれで保護者を舐め腐った考えだと思うけれど、考え方によってはありかもしれない。
「だから、今回のことはバイトのお前が気にしなくていい範疇だ。それよりあの服の山、責任を持って片付けておけよバイト」
「失礼します」
逃げるように会議室から退散した。結葉の服をこっそり持ち込んで、倉庫代わりにしていたことがバレていた。
仕方ない、会議も終わったことだし今からやってしまおう。
急ぎの事務作業はないので、一人寂しく悔しい思いをしながら衣装保管室に向かった。
持ち込んだ衣装の量に絶望しながら、癒しを求めて電話をかけた。
作業をしながらスピーカーで通話をする。
『はいはい。連理ちゃんどうしたの?』
「人におちょくられて雑用させられてる。癒して金井さん」
『うーん、子供が起きちゃうから少しだけよ』
「それはごめん」
『少しくらいなら大丈夫よ』
服をハンガーにかける手を止めた。ほんの少しの金井さんとの会話に集中したくなる。
「結婚式は秋から冬頃になるんだっけ?」
『そうね。もっと早くできるものだと勘違いしちゃってた』
「何かやれることがあったら言ってね」
『じゃあそうね、披露宴の催しものをお願いしたいかな』
「そういうのって、旦那さんとの共通の知り合いとかがやるんじゃないの?」
結婚式も披露宴も行ったことがない。ただ、片方だけの知り合いが勝手に盛り上がって、他の人に楽しんでもらえるのだろうか。
『ほら、何なら睡蓮さんと連理ちゃんに組んでもらって……』
「睡蓮を呼ぶのは贅沢と思うよ」
『けちー』
「まあ、確かに睡蓮が出れば盛り上がるだろうけどさ」
『でしょでしょ? そこはほら、連理ちゃんから声をかけてもらうとかしてね』
「話してみる分にはいいけれど、あんまり期待しないでね」
まあ、あれで睡蓮はチョロいところがある。経営面に関するプロ意識の低さは、桜蓮の折り紙付きだ。
『やったー。あ、子供起きちゃった』
「急にごめんね」
『いいのいいの。今度遊びに来てね』
「はーい。またね」
癒されたー!
そして週末、糸遊の挑戦が始まる。今回も見学には行かず、朝から現地に送り届けた。
今後は一人で対応することが増えるのだから、毎回送ること自体過保護なのかもしれない。それでも直前まで糸遊の様子を見ておきたかった。
「じゃ、行ってくるね」
「頑張ってらっしゃい。心配はいらなそうね」
「うん、全員倒してくるよ」
私との練習だけでは届かなかった範囲を、主に専務さんに鍛えられて糸遊は自信に満ち溢れていた。
練習対局の一回の結果が大きく響くこの時期は、私との練習対局で自信を失くさせるようなことはしていない。その分、正確な棋力の変化を、私は確認できていなかった。
ドラフトでトッププロから一巡目に選ばれるような棋士、それも複数からという専務さんに鍛えられたのだ。女流候補としてはこれ以上ない環境だったはずだ。
そう思っていた。
十一時半頃、糸遊から電話があった。
『負けちゃった』
一度帰ってジムに行こうかな、なんて考えていたタイミングだった。
負けた? 糸遊が? この時間に?
どう考えても、一回戦が終わったくらいの時間だ。
「えっと、その、一人で帰れる?」
『うん。棋譜覚えてるから、帰ったら見てくれる?』
「わかった。待ってるからゆっくり帰ってきなさい」
『そこまでショック受けてないよ。悔しかったけど』
糸遊お得意の割り切りによるメンタルのリセット。対局後ならいい方向に進むだろう。しかし、一回戦負けとは……。あまりにも想定外の出来事だった。
帰ってきた糸遊と軽く昼食を済ませ、将棋盤の前に座った。
帰りにメモを取っていたのだろう、棋譜を見ながら最後まで並べた。序盤の作戦は成功していたし、中盤も上手く捌けている。しかし、終盤が駄目だった。
詰みはあった。何度もチャンスがあった。なのに、どれも掴めていない。私の最短の詰み逃しをあっさり見破った糸遊が、この程度のことを見逃した?
糸遊も自分でどうなっているのか考えこんでいる。
「最後に詰将棋を解いたのは?」
「多分、ゴールデンウィーク前と思う」
それだけが影響するわけではない。実戦形式で詰将棋以上に難解な場面は何度もあったはずだ。たった二週間近く、詰将棋を怠っただけでこうなるのはおかしい。
不調、で済む話なのだろうか。それ以外に変化はあっただろうか。これは過保護とか甘やかしではないだろう。デビュー前の弟子を師匠が助けるのは自然なことだ。
「糸遊は最近、深呼吸した?」
「え? した、かなぁ? うーん、覚えてないくらい前だと思う」
「前は頻繁にしていたよね? 最近は深呼吸しなくても、できるようになったことが増えたから?」
「そうなのかな。……多分そうだと思う。自信満々な時はそんなことしなくても何でもできる気がして、いつも上手くいって……」
ふふ、意外と簡単なことだったみたいだ。ブツブツと自己分析を始めている。最近見ていなかった光景だ。集中している証拠だった。
「糸遊ストップ。一緒に深呼吸しましょうか」
「うん」
ゆっくり、ゆったり、丁寧に、長く、深く、深呼吸をする。
私もここまでゆっくりとするのは久しぶりだ。色々と悩んでいた頃を思いだす。
それすらも吐き出すように繰り返す。何度も、何度も……。
「わかった」
「わかった?」
「うん。剣道の時もそうだった。上手になって、褒められて、基礎練習を減らしたら勝てなくなったことがあった」
「そうなんだ」
「うん。毎日やってたことをちゃんとやるようにしたら元に戻ったんだ。今の糸遊はそれができてなかった」
「わかったんなら偉いよ。じゃあ、今からやるべきことはわかる?」
「えーと、将棋の練習?」
「違うよ。専さんやみんなに報告。メッセージでちゃんと伝えること」
「うん!」
私も入っているグループメッセージ。普段はあまり発言しない糸遊のメッセージが届いた。
うん。しっかりお礼を言えている。その上で、力を発揮できなくてごめんなさい。凄くいいと思う。
みんなの優しい言葉が届いた。羨ましいくらいだ。まだまだこれからだよ、専務さんの言葉の通りだと思った。
まだその道を目指して一つ目の棋戦だ。その予選を一つは通過できたのだから、次回はもう一つ上を目指す。それくらいの気持ちで長く挑まなければ、棋士になっても続かないだろう。
今はまだ教えてあげられる。でもここからは、私だけでは教えられないことが多くなる。
私とは別の強くなる方法だ。何が本人に合っているのか、確かめながら進むしかない。
師匠の言葉を思いだす。自分と比べてはいけない。確かにそうだ。だから一緒に考えてあげよう。改めて師匠に感謝する。
ただ、あの電話の悪乗りは許さないからね。




