23歳57_Invisible scars
ゴールデンウィーク最後の休みの日、糸遊と一緒に研究会へ参加した。
橋見さんの妹の女流棋士、通称若手さんは名前に「わか」がついていることから若さんと呼ばせてもらった。
常に淡々としている不思議な雰囲気の持ち主だった。そして男性陣への突っ込みが苛烈な人だ。十九歳だという。
奨励会員という少年は謙虚で、渋々主任呼びを受け入れていた。糸遊より一つ上、つまり采女と同い年らしい。
「練習対局で番外戦術ばかり使ってるからA級に上がれないんです」
「お前なぁ。それも含めて練習だろうがよ」
「ここは研究会です。研究の場です。身内にそんなことしてどうするんですか。常さんも専さんも呆れてますよ」
いつもの口論。若さんと代表だ。
振られた常務さんは言い訳をするし、専務さんはマイペースに棋譜を並べていた。
橋見さんはこのパワーバランスに安心しているようだ。どうやら見学の時の代表と常務さんの勢いは、この苛烈な若手女流がいないからこそのものだったらしい。
糸遊は専務さんの向かいに座って一緒に棋譜を確認している。週末から始まる女流棋戦の一次予選の対策だ。既に対戦相手は決まっているので、具体的な対策の手助けをお願いしていた。
橋見さんも参加する予選になるが、幸い糸遊とは別のブロックになったのでそれぞれの内容に集中できる。若さんは昨年の成績からシード選手の位置にいた。
思っていたより騒がしい研究会だった。なんというか、キャラが濃い。橋見さんの経歴の異常さに驚いたけれど、それ以上の濃さがそれぞれにあった。
「連理先生、ご指導お願いします」
謙虚な主任さんに話しかけられる。高校生の割に落ち着いていると思ったら、専務さんの弟だった。
四つの将棋盤に八人。長い座卓の端の席に主任さんと向かい合って座る。
「普通の対局にします?」
「できれば実戦形式でお願いします」
「はーい」
相手は年下とはいえ、ここでは私の方が新人だ。主任さんからは敬語は不要だと言われているが、まだ慣れていないせいでつい中途半端な口調になってしまう。
研究会に通い始めて、私は急戦調ばかりになるので代表からの指導で矯正を促されていた。あえての持久戦模様から、緩急をつけた差し回しを覚えろと言われている。知っている場面に誘導すれば私なら勝てるとお墨付きをいただいた。
今まで勝負を急ぎすぎていたことが看破されていた。覚えた局面から勝ちきるのが私のスタイル。その局面まで誘導するには最短経路の超急戦が一番楽だった。
しかし、実戦ではそうもいかない。相手はその手に乗るものかと色んな対策をぶつけてくる。今は引退しているので、私の研究をして対策するような人はいないが、それに甘えてはいけないと言われていた。
実戦ねぇ。こういう研究会の場で指せるだけありがたい身分だ。引退を決意した時点で公式戦に参加できないことは覚悟していた。それなのに実戦を想定しろというのは、ここでの研究相手としてふさわしい実力を持てということなのだろう。
主任さんとの対局中、テレビ画面にネットの番組が映し出された。代表がパソコンを操作している。
ふと頭をあげると、とあるオンライン放送局の将棋番組だった。最近の将棋界が大きくお世話になっているお得意様だ。
「お、ドラフト発表今日でしたね」
常務さんが目を輝かせて呟いた。
そうだ。代表もタイトルホルダーとしてこのイベントに参加していた。事前収録だったのは知っているが、まさかこんなタイミングで結果を知るとは思いもしなかった。
常務さんか専務さんは指名されるのだろうか。非公式戦とはいえ、指名枠は事前に決まっているので私が呼ばれることはないだろう。
安心して画面を見ていた。主任さんもそちらに気を取られて、練習対局は一時中断になる。
「俺は四番目だったな。面白いもん見せてやるよ」
代表が得意気に笑う。何かパフォーマンスでもしたのだろうか。
序列の高いタイトルホルダーが三名、順当に見える棋士を指名した。被りがあったが、それは他の候補とのくじ引きで決まることになる。
画面内の代表が名前を書いたパネルを堂々とひっくり返した。
『九連理』
「何書いてるんですか!?」
「まあまあ、最後まで見てろや」
ドラフト会議の場が騒然としている。マイクを向けられた代表がすっとぼけて答えていた。
『いや、私の知る一番強い人を選んだつもりなんでね。引退棋士は駄目でしたかな?』
他の棋士の注目を集めている。好意的な目、奇異の目、批判的な目もあった。
司会者が改めてリスト内の棋士から選ぶよう代表に指摘した。画面内の代表は仕方ねーなーと大きな声で呟いて、専務さんの名前を書いた。そこでまた笑いが生まれていた。
結果として専務さんは他のチームにくじ引きで取られてしまったが、常務さんは代表と同じチームになった。
代表の身内で固めてしまおうという作戦は失敗した。それでも、研究会の関係を知る人からすると面白い演出だったのだろう。身内を固めることは決めていたのに、最初にサプライズをかますとは。
「改めて、何書いてるんですか!」
「そのノリずっと溜めてたの?」
「強く言わないと気が済みませんよ」
常務さんのからかうような声に応じる。代表はまだすっとぼけていた。
「別に非公式戦だしいいと思ったんだよなぁ。なーんで駄目かねぇ?」
「まったくですねぇ」
すぐに常務さんが悪乗りする。専務さんは苦笑していた。
「とんだ恥さらしですよ。来月オンライン解説に出るのに、これ絶対いじられますって」
「尚更いいじゃねーか。ネタが増えてよ」
わははと笑う代表に、橋見姉妹や主任さんまでつられて笑っている。
糸遊はあんまりわかっていないようで、ぽかんとしていた。専務さんが簡単に説明してくれる。
「えー? 連理ちゃんも出たらいいのに」
「だから、出られない仕組みなの」
「公式戦じゃないならいいと思うんだけどなぁー」
「糸遊もそう思うか。今回は捻じこめなかったが、次はやってやるから見てな」
「うん!」
勝手に盛り上がっている。無理なものは無理だ。気遣いはありがたいが、仕組みには逆らえない。
「いや、ルールを捻じ曲げるのは無理でしょう」
「意外とそうでもないんですよ」
珍しく専務さんから話しかけてくる。
「確かに現役棋士でプールが組まれていて、今回は連理先生の名前はありませんでした。ただ、そこのプールに現役棋士限定とはなかったはずなので、希望すれば名前を入れてもらえる可能性はあります」
「そんなことしたら、他の引退棋士の方も希望するでしょう」
「そうですね。だとしても名前があがらなければ問題ありませんから」
「そんなに緩い業界でしたっけ」
「オンラインですからね」
のんびりと話す人だ。そのせいで妙に説得力を感じる。代表が続けて口を開いた。
「だいたいよ、引退棋士だから仕事に呼ばれないってんなら、タイトル戦のメイン解説の話もねーだろ?」
「小さい放送局なのと、そのタイトルに深く関わった経緯から特別にって意味ですよ。きっと」
「確かに、前例がないわけじゃねーからな。今ほどネットで取り上げられる前の話だけどよ」
ほらみたことか。いきなり大目玉のイベントに参加できるわけがないんだ。
出たい気持ちはある。しかし、それを現役の棋士を差し置いて、ルールを捻じ曲げてまで出たいかというと、将棋界のためにはそう思えなかった。
「だとしてもだ。こういうのは一発カマしてやらんと、運営も目を覚まさんだろ? 今回はその布石ってこった」
また代表が大笑いして話が終わる。呆れた。というより疲れた。主任さんには申し訳ないが、練習対局の続きは集中できそうにない。
それでも何とか盤面と記憶を照らし合わせて対局を続けた。主任さんの方も集中を削がれてしまったらしく、お互い悪手の連発で運よく勝ちを拾った。
休憩に立ち上がり、飲み物を求めてキッチンにお邪魔した。スマホが鳴る。師匠からだ。嫌な予感がする。
横にいた橋見さんが覗き込んできた。
「電話出ないの?」
「師匠からなんですよ。絶対さっきの放送見て、嫌がらせの電話に決まってます」
「どれどれ?」
私のスマホを橋見さんがひょいっと取り上げる。わーっと取り戻そうとするが、スマホは代表の手に投げられた。
「師先生か。どれどれ」
いきなりスピーカーで通話が始まる。
「師匠ー! 今はまずいんであとで掛けなおします!」
『連理がまずいのなら面白い』
「師先生、ご無沙汰ですな」
『その声は』
私の必死の声は双方から無視された。くそう、恥の上塗りだ。
「いやー、実はうちで連理を研究会に呼んでおりましてな。師先生はご存知ではなかったと」
『はい。そういうことをすぐに隠す子なので』
「言う機会がなかっただけですって!」
キッチンに閉じ込められて大声で対抗するしかない。橋見さんが若さんと連携して、ずっと通せんぼしている。これが新人いびりか。
『どうせなので厳しく指導してやってください。それにしても面白いことをされていましたね』
「俺は素直に書いただけですよ。実際ここでもボコボコにされたんでね」
『ほう。現棋殿位をボコボコに。それは出るべきですね』
「そうでしょうそうでしょう」
人のスマホで何を楽しく話しているんだ。
『僕は地方なのでなかなか伺えないのですが、そのことを含めて是非ご相談をお願いしたいですね』
「お? いいですなぁ。是非いらっしゃってください」
「おーい。師匠もう切っていいですよー」
『うるさいよ連理。では、また連絡します』
「あいよ」
通話の終わったスマホをひょいと投げられる。同時に通せんぼも終わった。この研究会の連携力は侮れない。
画面を見て思わずスマホを握りつぶしそうになった。ギリギリと力を込めると、少し嫌な感触がしたので現実に戻る。思ったより握力は落ちていないようだった。
そうじゃない。そういう喜びは今はいらないんだ。握力なんて今はどうでもいい。
改めてスマホを見ると、フレームが少しずれたかもしれない。余計なことをしてしまった。
「この収録のあと、誰かに何か言われませんでした?」
「盛り上げてくれてありがとうってよ。特に俺の前にいた三人からな」
現タイトルホルダー四人中三人だ。もう一人が目の前にいる。なんでそういう人ばかり、こういうことを喜ぶのかな。
「あとは、連理と関係があるのかとか、知り合いなら紹介しろとか」
「研究会のことは?」
「言ったよ。隠してもすぐバレるだろ」
終わった。師匠はあれで秘密主義だから口外しないだろうけれど、代表の口から研究会の参加者と知られたらもう終わりだ。地の果てまでバレてしまうだろう。この代表のお喋り具合は将棋界でも有名だ。
「連理、よく聞け。これはお前さんの責任でもあるんだ」
急に真面目なトーンに切り替わる。ずっとこちらが批難する立場だったことへの反撃と、代表の顔面の恐さに直立してしまった。
「責任とは?」
「永世タイトル獲得後の翌年、A級で勝ち越した上での引退だろ。はっきり言って、お前以上に周囲は消化不良なんだよ」
「それは事情があって仕方なく……」
「事情は事情、気持ちは気持ちだ。ただでさえ唯一の女プロだったのに、こんな形でいなくなられちゃな。面白そうな相手がいなくなってみんな物足りなくなってんだ」
面白そうって思われていたのだろうか。他の棋士の方からの見え方が、どうにもわからない。実力を認めてもらえていたのは嬉しかったし、一定のリスペクトを受けていたことも理解している。
「みんなって程じゃないでしょう」
「悪い印象を持ってない奴ならほとんどだな」
「やっぱり悪い印象もあるんですね」
「そりゃ万人に好かれる奴はいねーからな」
つまり責任とは、もっとトップ層に入り混じり切磋琢磨して、業界を盛り上げる立場にあったということだ。続く話で理解した。
常務さんも同意のようで、代表の話を深掘りして伝えてくれる。
「経理さんは」
「連理です」
この人はいつまでも役職あだ名で呼ぼうとする。
「仕方ない。け……連理さんは俺たちからしても、もっと本番でぶつかりたい相手だったんですよ。それなのにいつの間にかすいすい上に行っちゃって、もっと遊んでくれよって思いましたから」
「それは私が女だからですか?」
「まあ、失礼な言い方になりますけど、女だてらによくやるなってのはありましたよ。それよりも棋風があまりにも荒々しいので、研究でいつも『なんだこいつは』って感じで盛り上がってました」
「そこは僕も同意です。後半の棋風のことです」
専務さんも口を挟む。
「何より、対局中の威圧感が凄い。棋風と相まって暴風雨みたいな人って勝手に呼んでました。常務がね」
「俺のせいにするなよ」
「事実だろ」
常務さんの方が年上で、専務さんの方がプロ入りでは少し先輩。微妙な立場だろうに、いつも二人は同じ目線だった。思わず口を挟んでしまう。
「暴風雨って、まるで荒らしみたいですね」
「嵐?」
「ネットの荒らしの方です」
「あはは、確かに」
何を笑ってるんだか。笑い続ける常務さんにつられて、専務さんも笑みを隠せなくなっている。常務さんの口がどんどん滑らかになってきた。
「だったら引退後も荒らしてやればいいんじゃないですか? 寄付もしたし強いんだから非公式戦くらい混ぜろーって」
「混ざれるものなら混ざりたいですけどね。それで悪目立ちすると、迷惑がかかる人もいるんですよ」
「難しい話ですね」
「そうなんです。本当に」
過去のことは代表と橋見さんにしか話していない。ここにいる人たちに話してもらうのは構わないけれど、自分で話すのは億劫だ。だから、預かっている四人のことは全員には伝わっていないはずだった。
「ま、今回は波紋を呼び起こせたからそれでいいだろ。飯行くぞー」
研究会の終わりはいつも食事で締められる。それも毎回代表のおごりだ。
ありがたい反面、今日の出来事はさすがに不安になった。私が個人的に詰められたり、どこかで噂される分には構わない。
預かっている四人を含め、事務所の練習生やその保護者の方に変な話がいかなければいい。あまりしたくはないけれど、亜嵐さんに相談する必要がありそうだった。




