23歳54_Invisible scars
順を追って話した。
奨励会に入り、プロ入りした簡単な経緯。師匠の元で預かってもらい、大師匠のところで厳しく躾けられたこと。
プロになってから数年の無機質に感じた期間。そして睡蓮との出会い。
ここまでで引っかかるようなことはなかったようだ。橋見さんには昨晩伝えた、バックダンサーの話に入る。
睡蓮に誘われてバックダンサーになった。これが三年半前。
バックダンサーの初仕事をやり遂げた時、睡蓮の熱意に感動し涙した。そしていつか、睡蓮に恩返しとして泣かせるような感動を与えたいと決意した。
この詳細は糸遊ですら初耳のはずだ。あえて言う必要もなかったと思う。糸遊も聞き入っている。
三人の中学生を預かってほしいと言われ、将棋界への影響を盾にされ、自身の配慮不足も原因と考えて引き受けた。その準備期間に棋殿位を獲得。
そして今からちょうど三年と一か月前、三人を順に預かったこと。その三人目がここにいる糸遊だった。
「糸遊は最初から元気な子でした」
少し笑いを誘う。糸遊も思いだしたことがあるようで、少し照れていた。代表も「おう」と言って少し笑った。
三人を預かってほしいという話。それは家庭や環境に問題を抱えている子を、アイドルとして育ててほしいという依頼だった。
そして預かる決意をした理由。睡蓮に恩返しという仕返しを目的に、三人をアイドルとして育てあげて感動を与えるような存在にしたかったこと。
三人を預かった直後の五月から六月、永世タイトルがかかった棋昇戦の防衛戦があった。三人に見せつけるつもりで、過去一にやる気を出していた。
その頃に三人に将棋を教え、糸遊が今も続けてくれている。
「俺も見ていた。あの挑戦者相手に三タテはただもんじゃねぇと思ったよ」
「ありがとうございます」
二十一歳になったばかりの九月、睡蓮のライブで重要ポストに抜擢され大成功した。
その時の誕生日にもらったプレゼントがこのかんざし。人前にわざわざ見せるのは久々だ。今の私の大事な宝物。
その直後、四人目を預かる依頼を受けた。
「その四人目と糸遊は過去に接点があったんです。小さな接点ですが、その話を聞いて預かる決意をしました」
糸遊には大きな問題はなかったが、他の三人の心の問題が徐々に解決し、四人を家族と認識するようになった。
その関係をずっと支えてくれていた、瑞香さんという存在。そしてその年末、私と瑞香さんに過去の接点があったことを睡蓮から教えられた。
私が将棋に絶望していたときに教えられた言葉。「ありがとう」という単純な言葉に救われ、徐々に将棋の調子が復調した。
将棋界に入ってからの初の絶望を抜けた要因が瑞香さんだったと知り、大晦日の夜に救われたと伝え、瑞香さんからもお礼を言われた。そしてお互いに泣き合った。
「改めて考えると、泣き合ったとか言うの、恥ずかしいですね」
「続けてくれ」
「はい」
その直後の年明けの翌月、棋殿位の防衛戦で代表とぶつかり、ボロボロに負けて失冠した。
そのまま初夏に入り、続けざまに棋昇位を失冠したあと、今の車を購入して家族としての認識が高まった。この子たちを育て上げることに注力したい。他の棋戦も負け続けたが、順位戦のみ勝ちが続いていた。一つの夢への挑戦だけ、最後にやり遂げようと決意した。
七月頃には引退を決意していた。そして二十二歳になる誕生日が過ぎ、秋頃に昔気まぐれで投資した仮想通貨が莫大な利益を生んでいたことを知った。そこで金に浮かれ、地に足がつかない時期が続いた。
このまま四人をお金の力で助けてあげられる。そういう慢心が隙を生んだ。夏から連絡が取れなくなっていた睡蓮と再会し、気が引き締まった。
そして一月、睡蓮のライブで元気をもらった。同時に四人をしっかりと育て上げようと改めて決意できた。残り三戦の順位戦、明らかな格上相手にも関わらず、糸遊に全勝宣言をして自分を追い詰めた。
「最後の三戦は自分でも会心の出来だったと思います。仮想通貨の元手は全て将棋界で得た賞金だったので、膨れた資産の一部を将棋界に寄付する目的もあり、棋界の外側に行こうと思いました」
それは表向きの理由。嘘ではないが、全てではない。この時点で私は四人の家族のために、全てを注ぎ込むことが最重要だと思った。
引退直後の四月は飢えていた。事務所も暇な時期で、気持ちを落ち着かせるだけで必死な毎日だった。最後の公式戦の熱がずっと冷めなかった。
四人のデビューライブが迫り、忙しくなったことで将棋から離れられたと感じた。それでも糸遊との将棋は続けた。
ライブが成功して安心したと同時に、急激に四人との別れが辛くなった。耐えられなくなると思い、今のうちに距離を置こうと思ったのが去年の夏。
「馬鹿だったと思います。四人に相談することもなく、『私の人生は、誰か責任を取れるの』と問いかけて四人を突き放しました」
それでも糸遊は将棋盤を持ってついてきた。ルールを決めて将棋を続けた。気がつけば、五人で過ごす日々に戻っていた。
またしても睡蓮のライブがきっかけで、私もアイドルと同等のレッスンを受けるようになった。四人のアイドルのレッスンに使える実験体になる、という名目で瑞香さんに鍛えてもらった。それがこの三月まで続いていた。
大盤解説会に関しては、今年の年始の師匠への挨拶がきっかけだ。師匠からお誘いを受け、関係者として参加した。
「一月の大盤解説会で初めて自覚しました。私が他の人のチャンスを奪ってまで手に入れた、肩書の重さというものを」
そのおかげで順位戦最終日の解説に呼ばれた。その時の大盤解説会の熱が、今でも心に残っている。
「そして橋見さんとお話できました。解説会をやりきった自負が、初めての将棋の自信になりました」
「永世タイトルを取った時ですら、自信はなかったのか?」
「はい。あった気がするだけで、本当の自信を自覚したのはこの間の大盤解説会です。人前で全力を尽くす喜びを知れたんだと思います」
これが現在までの私です。そして弟子の糸遊がずっとついてきてくれています。
何も悲しいことはなかった。直近の出来事で自信が付き、一緒にいてくれる子たちがいる。自然と笑顔になっていた。
「そうか」
代表が難しい顔になり、下を向く。肩が奮えている。ふざけるなと怒られると思った。
「あんた、頑張ったんだなぁ」
めちゃくちゃにいかつい代表が、顔をぐちゃぐちゃにして泣いていた。これが漢泣き? 正直恐かった。
「連理さん、一つ聞かせてください」
「はい」
橋見さんも目元に涙を浮かべていた。そんなに泣くことだろうか。
「バックダンサーの話です。その後も別の形で抜擢された。最初に誘われた理由も不思議なのですが、それなりの身体能力が求められる世界なのではないのでしょうか?」
意図的に隠したわけではない。ただ、どう言うべきかわからなかったこと。
手を開いて甲を見せた。指先まで無数の傷跡のある両手だ。
「足にも同様の傷があります。幼少期から事情があって、人並みとはいえないくらい身体を鍛えてきました。それが今の身体能力に繋がっています」
温泉で一緒になった女流棋士には、やんちゃしたとしか言っていない。
「よくわかった。よく話してくれた。糸遊」
「はい!」
「連理のこと好きか?」
「はい! 大好きです!」
「いい弟子持ったな、連理」
「そうですね、私にはもったいないくらいかもしれません」
「ただ一つ、俺の印象の連理は弱いままだ。棋殿戦のイメージが拭えてねぇ」
「はい」
「今ここで俺と本気で指せ。それを見て受け入れるか決める」
やはりそうなるのか。感情で物事を決めるこういうタイプの人なら、そう言うだろうと思っていた。
だから昨晩、必死にこの人を研究した。この人の棋風、得意とする状況、私との対局の時の様子。全てを振り返り、ネットで漁れるだけの棋譜を見た。おかげで寝不足だ。
将棋盤の前に座ると物凄い威圧感だった。直接対決で負け越している相手。ただし、私はこの人の上の世界を知っている。
「失礼します」
コンビニで買っておいたエナジードリンクを一気飲みした。
お互いに早指しの棋風。三十分将棋で了承する。橋見さんが秒読み、糸遊が記録係になった。
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いいたします」
将棋はいつも挨拶から。相手が誰でも、理由がなんでも、これだけは変わらない。
長く語った中で二つ隠していたことがある。
一つは、私自身がアイドルとしてデビューする可能性があること。
もう一つは、プロ入り前後の将棋の強さと当時の記憶力の関係。
この二つは糸遊にも伝えていないことだ。
今ではその時のような記憶能力はない。だから必死に頭を使い、勝てる道筋を見つけるようになった。瑞香さんに教えられた「ありがとう」の意味。私は相手のことを見ること、知ることと解釈した。
それから徐々に勝てるようになった。相手が絞られれば絞られるほど、私の研究は深く深く相手を理解した。
しかし、何だかなぁと思う。こういう意識して勝ちに行こうとする時、私はいつも後手番だ。有利と言われる先手番をもらえた試しがない。タイトル戦のように先手後手が入れ替わる時ですら、最初に後手を引いて総合的に後手番が多くなる。
話が長くなったせいか、対局中に研究会のメンバーがやってきた。真剣勝負をしているのを見ると、誰も声を出さなかった。ありがたい。
圧倒的に勝つつもりで臨んだのに、それでも状況は五分だった。持ち時間は勝っている。
代表の持ち時間が五分を切った。私はまだ半分以上残している。状況もやや有利。それでも油断はしなかった。
代表が一分将棋に入る。苦し紛れに見える一手。自分の持ち時間を撒き餌にして、私の油断を誘った手だ。
昔ならあっさりと引っかかっただろう。持ち時間を丸々一分使い、ゆっくりと、ゆったりと、丁寧に、長く深呼吸する。
それも戦術だ。それが通じる相手もいるだろう。昔の私なら引っかかっていた。
口元が笑みに歪むのを感じる。無意識に笑ってしまっていた。一瞬代表の顔を見ると、厳しい顔つきで睨んできた。
ごめんなさいね。勝負手なのはわかりました。でも、それは悪手です。
悠然と手を進める。代表が指した十秒後きっかりにペースを合わせた。終局まで見えている。糸遊を見ると盤面に集中していた。
「負けました」
「はい。ありがとうございました」
代表が投了した。代表が時間を使った心理戦なら、私は事前研究の人読みを使った。
「なんだ、ちゃんと強いじゃないか」
代表は糸遊から棋譜を受け取りつつ、吐き捨てるように言う。敗北者の態度とは思えないが、それがこの人の悔しがり方なのだと理解した。
「代表負けたんですね」
プロ棋士の片方が会話に入ってくる。
「挨拶が遅れました。九連理です。よろしくお願いいたします」
「知ってますよ。腰が低い方とは聞いてましたけど、本当なんですね」
「よろしくお願いします」
もう一人のプロ棋士は物静かというか、少しぶっきらぼうに見えた。最低限の挨拶だけ。あまり喋らないタイプらしい。
「そのよく喋るのが常務、陰険なのが専務だ」
「その説明じゃわかりませんよ。俺は名前に常が入るので常務、そっちが専って入る名前なので専務。簡単でしょ?」
「はぁ」
この研究会が会社みたいだというのがわかった。だから代表と呼ばせているのか。
「橋見さんは?」
「お局」
「嫌だって言ってるでしょう!」
「だって代表がそう言うんだから。普段は呼んでませんよ。凄く怒られるんで。もう一人の女流棋士がまだ来ていないんですが、橋見さんの妹さんで若手。今日は来ない奨励会の男の子が主任」
「なんですかそれ」
思わず笑ってしまった。橋見さんがお局なのは少し理解できたけれど、それ以下が凄く雑だ。
糸遊はその辺りがわからないらしく、ずっとぽかんとしている。
「ちなみに奨励会の子は二段だから主任、三段になれば係長、四段でデビューしたら課長になる予定」
「本人嫌がってるからやめなよそれ」
専務さんは常識人らしい。頼りにしたいと思った。
「代表が言うんだから仕方ないだろ」
この常務さんは代表信者らしい。采女と似た部分のある悪乗りタイプだ。
「代表! 九先生は決定なんですか?」
「おう。連理、どうするよ」
「参加させていただきますよ。全部話しちゃいましたし」
「だそうだ。いい役職名あったっけなぁ?」
「九先生のお名前、連理さんでしたよね?」
「はい」
「理は理科の理?」
「そうですよ」
「じゃあ経理」
ぶっ。思わず吹き出しかけた。慌てて横を向いて口を押さえる。
「経理か。経理の連理。いい響きじゃねーか」
「嫌ですよ」
「糸遊はマスコットだな。それか姫。どっちがいい?」
「えー? どっちもやだ」
「じゃあ姫な」
キッチンスペースで橋見さんががっくり来ていた。どうやらここのパワーバランスは、代表と常務さんに偏っているらしい。
「いつもこうなんですか?」
「実際は代表と常さんが言い合ってるだけなんですよ。私たちはいつも反対しています」
「私もそちらにつきますよ」
「本当に、連理さんが来てくれてよかったぁ」
橋見さんの初めて見る砕けた様子が印象深かった。




