23歳52_Invisible scars
「お邪魔しまーす」
小さく声に出して誘われるがままに和室に入った。男女合わせて五名、二枚の将棋盤を囲んで座っていた。
ベテラン棋士は「人の家じゃないんだから」と笑いながら座布団を勧めてくれる。
お、橋見さんがいる。ただの見学者に見える私にどうやら誰も興味はないらしい。一応関係者しか入れないフロアだけれど、そういうことも珍しくないのだろう。
ベテラン棋士も特に紹介してくれない。では見ていよう。
一番近くの盤面で掘り起こされている対局を見る。何かの棋譜を並べていたようだ。
視力二・〇がここで活きた。ちょっと離れていても何となくわかる。ははーん、この間のタイトル戦か。先日糸遊と並べて結論を出したばかりだ。
「九先生?」
橋見さんが立ち上がって寄ってくる。周囲の棋士たちも「え?」と顔をあげてこちらを見た。キャップを脱いで頭を下げる。
「どうしてここに?」
「カフェの前でふらふらしていたので、連れてきました」
「連れてこられちゃいました」
あははとベテラン棋士と笑い合う。私、この人のノリ好きかも。
「あははじゃないですよ。驚くじゃないですか」
「すみません。本当にふらっと寄っただけなんですよ」
橋見さん以外の四人の棋士が挨拶してくれる。はい、存じております。ほとんど顔と名前は一致していた。
若手の一人が尋ねてくる。
「九先生はこの間の棋譜並べましたか?」
今の盤面の話だろう。するすると近寄って盤面を確認する。
「はい、これでしたら弟子と並べて確認しました。珍しい急戦型でしたね」
「珍しいというか、九先生の棋譜を参考にされていましたね」
ベテラン棋士がニヤリと笑って言う。そうか、この人は私の相手が誰だったかということ以外、一部始終を知っているのだ。
「混ぜっ返さないでくださいよ。実際あの先生が選ぶには珍しい形だったでしょう?」
うんうんと頷くベテラン棋士から盤面に目を戻す。そして見解を話した。
「僕たちと同じ意見ですね。ただ、挑戦者の先生はこの展開を知っていたんじゃないかなと」
「私もそう思います。ただ、この局面で……」
糸遊の指摘通りに動かしていればどうなったか。実際に動かして示した。
弟子の功績で注目を浴びるのは申し訳なさと恥ずかしさがあったが、話が進まないよりいいだろう。糸遊は今頃頑張っているかな。
「というのを弟子に指摘されまして。納得はしたんですが、私の好みじゃないので意見は割れたままです」
「好みって」
ちょっと笑いが生まれた。実際そうなんだから仕方ない。
「やっぱり今も深く研究されてるんですね」
「興味があった局面だけですよ。他は弟子と一日一局を目安に続けている程度です」
「それでよくあれだけの解説ができましたね。五局同時並行なのに凄く的確で」
「今じゃ何を言っていたか覚えてないくらいですよ。ただ、めちゃくちゃ楽しませてもらいました」
改めてまた解説に行きたいなと思う。五局同時なんて場面は年に一度しかない。来年も行けたら嬉しい。
「九先生、今日は何時頃まで?」
「特にありませんよ。遅くならなければいいかなって感じです」
「よかったら練習対局しませんか? 色々教えていただきたいです」
「いえ、あの。引退した身なので教わるのはこちらになると思いますが、私でよければ是非お願いします」
そういう練習の場だ。別にいいよね。ベテラン棋士に確認するでもなく、持ち時間三十分で若手の一人と向き合った。
どうせならこの場にいる全員と指したい。ただ、そうもいかないだろう。
まずはプロになって三年目の棋士、私より若い男性棋士の相手からだ。
三人の男性棋士に対し二勝一敗。橋見さんを含めた女流の二人には二戦二勝。出来すぎの結果だった。
負けた一局が悔やまれる。終盤力の差を思い知らされた。少しばかり読み違えがあったのに気づくのが遅かった。
悔しそうにしている男性棋士に、ベテラン棋士が声をかける。
「あのね、引退したと言ってもトッププロの状態からまだ一年なんだよ。そんなにすぐに衰えるわけじゃないんだから」
あれと思った。一般的にはそういう見方になるのか。プロの世界から離脱して一年も経てば研いだ牙も衰える。そういう見方をされるのが当然だと思っていた。
第一、こういう急戦型は短い時間設定では特に優位に働くと思っている。持ち時間を長くして相手のペースに呑まれたら、ボロボロにされていたのは私の方だったかもしれない。
「いや、納得の負けです。差を感じました」
「僕も勝てたのが不思議なくらいでした」
何と言えばいいのだろうか。おだてるのも謙遜するのも違う気がする。それぞれ短時間とはいえ感想戦はした。ある程度結論は出たはずだ。
「さて、今日はこのくらいで終わりましょう」
ベテラン棋士の仕切りで片付けが始まる。助かった。妙な雰囲気になっていた。
「本日は急に参加させていただき、ありがとうございました。とても有意義なお時間をいただきました」
こんな格好で畏まっても滑稽だが、それでも深々と頭を下げてお礼申し上げる。
「いえいえ、よかったらまたいらしてください。私もみんなもいい刺激をいただきました」
ベテラン棋士の言葉に送り出されて退室した。
外が暗くなっていた。そうだ、糸遊の連絡。どうなったんだろうか。
慌ててスマホを開く。糸遊から三度の着信とメッセージ。準決勝で負けちゃった。充分な結果だ。
糸遊に電話をかける。すぐに出た。
「ごめんね糸遊。ちょっと用事ができちゃって」
『いいよーだ。糸遊より大事な用事だったんだね』
「ごめんって」
『あはは、大丈夫だよ。次の予選に進めるって言われたよ』
「うん。頑張ったね。次も頑張ろうね」
『うん』
「私は帰るまでしばらくかかりそうだから、みんなとご飯食べちゃってね」
電話を終え、ふうと一息つく。よかった、糸遊も勝ったんだ。
「九先生」
「おわっ」
「そんなに驚かないでくださいよ」
橋見さんが真横に立っていた。どうしたんだろう。
「すみません。何かありました?」
「いえ、よろしければご一緒に帰れたらなと」
「あー、えっと橋見さんは電車ですか?」
「はい」
家の場所を聞くと、少し遠いがドライブには悪くない距離だった。
「私は車なので乗って行きませんか? 方向もそんなに違わないですし」
「いいんですか? お車なのはちょっと意外でした」
「電車があまり好きではなくて。身内の送迎もあるので、車かバイクばかりですよ」
コインパーキングまで歩きながら軽く雑談する。
隣に軽自動車が停まっていた。私が精算処理している間、橋見さんはその軽自動車の横に移動する。どうやら勘違いしているらしい。
「ああ、そっちじゃないです。こっちこっち」
SUVを示してロックを解除。ごつい車なので驚かせてしまったらしく、橋見さんはぽかんとしていた。
「何だか今日は驚かされてばかりです」
「私もカフェから出たら急に呼び止められて、驚いている間に連行されていました」
「はぁ」
気の抜けた返事。基本真面目な人がこうなるのを見るのは面白い。
「あのメンツでいつも研究を?」
「あ、いえ。あそこの集まりは用事ついでで、時間のある人の意見交換みたいなものです」
「あら。だったら尚更お邪魔しちゃいましたね」
「いえいえ。あれでみんな喜んでいたんですよ。ある程度同じメンツが集まるので、何となくわかるんです」
多い時には十人以上にもなるという。まるでタイトル戦の控室だ。
「いいですね。そういう集まりで意見交換ができるのは」
「九先生はないんですか?」
「そういう集まりですか? ないですよ。基本は弟子と一対一、たまに最寄りの将棋道場にお邪魔するくらいです」
「お弟子さんは、この間の糸遊さんですね」
「はい。今日の用事もアマ予選に送り届けていたんです。その帰りに、ふらっと吸い寄せられるようにお邪魔した次第です」
「そんな虫みたいに」
引退しても私は将棋の虫だ。あながち間違った表現ではない。
「ああいうプロの方がいる集まり、経験がなかったので参加できて嬉しかったです」
「研究会に入られてなかったんですか?」
「はい。無愛想だったもので」
「確かに三段リーグではあまり……」
「無愛想の全盛期です、その頃」
くすりと笑って橋見さんが言う。
「今の九先生からは想像できませんね。正直別人に見えます」
「色々あってこうなりました。プライベートの服はずっとこんなままで、昔から変わりませんけれど」
「その服装も意外でした。今は何かお仕事を?」
「アイドル事務所でマネージャーみたいなことしてますよ」
「ええ? アイドル?」
「意外でした?」
「今日一番驚きました」
確かに、普通はない経歴だもんなぁ。それにしても、こういう楚々とした人が驚くさまは見ていて本当に面白い。
「九先生は……」
「連理でいいですよ。その呼び方、正直ちょっと恥ずかしいです」
「では、連理さんはアイドルに興味があってその仕事を?」
「うーん、今なら知られても問題ないはずなので言ってしまいますと、私棋士をやりながらアイドルのバックダンサーもやってたんです」
「バック……へぇ、ダンサー?」
「はい、アイドルの後ろで揃って踊るアレですね」
「そんなことまで」
「たまたま誘われて、応募したらあれよあれよという間に合格しちゃって、その時の同期が先月子供を生みました」
「ちょっと情報量が多すぎて、えーと」
「橋見さんは夜のお食事はどうされるんですか?」
「え? 帰って何か作るか食べて帰ろうかと」
「よかったらどこかで食べながら話しません? ちょっとお腹空いちゃってて」
「ふふ、いいですよ」
もうすぐ着いてしまいそうだったので、話が中途半端で終わるくらいならと思い提案した。
「今度お食事でもって、私から言ったのに忘れてました」
「あー、酷いです。傷付きました」
「ごめんなさい」
「冗談ですよ」
その辺の駐車場付きの定食屋に入る。橋見さんが行ったことのあるお店だそうで、味も悪くないという。
目に付いたお刺身の定食を選ぶ。橋見さんは豚の生姜焼きセット。さてなんだっけと話を思いだした。
「そうそう、バックダンサーをやっていて、その時の同期が先月出産したところまで」
「はい。もう情報過多です」
「そういうご縁でアイドル事務所の社長に雇ってもらって、今はアルバイトでやっているわけです」
「アルバイトなんですか」
「正社員でがっつりだったら、解説会も気軽に行けませんからね」
「ていうか、バックダンサー。ダンサーって凄いじゃないですか」
時間差で頭が追いついてきたようだ。
「って、棋士もやりながらダンサー? あれ? 連理さん当時大学生では?」
「はい。大学も行ってました」
「え、えぇー!?」
反応が面白いなこの人。聞き手をやっている時でも、こんな顔はしなかったのに。
「といっても、まともにバックダンサーで出たのは一回きりなんですけれどね」
「ちなみにその時のアイドルというのは?」
「睡蓮って人です」
あれ、これは伏せた方がよかったかな? まあいいや。
「その人って電車の広告に姉妹で写真に載っていた、あの……」
「そうですね。Lotusってユニットの人で、お姉さんの木蓮さんとツーショットで」
「凄い人じゃないですか」
「その木蓮さんが今の上司です」
「ああ、また、凄い情報が」
人を驚かせるのって面白いんだ。ちょっとハマりそう。
定食が届いた。橋見さんは食べるどころではないようで、えーととかあれぇとか言って可愛い反応が止まらない。私より十歳上なのに。
「いただきます」
「あ、いただきます」
私の挨拶につられて、橋見さんも箸を手に取った。しばらく無言で食事を進める。
「そういうお友だちがいらっしゃって、実は連理さんも引退していないとか」
「そんな影武者みたいな話じゃないですよ。全部本当です」
「それで将棋もあの強さなんですね。ああ、もうわからない」
紛らわしい人生でごめんなさい。こうしてネタにでもしないと消化できないんです。そう言いかけたけれど、実際はもっと色々あって口に出せなかった。気軽に話すには長いし重い。そして話し方がまとまっていない。
「ちなみに、橋見さんは将棋一本ですか?」
「私ですか? 私はそうですね、大学で将棋を覚えてからそうですね」
へ? 大学で将棋?
「えーと、十八歳くらいから?」
「そうですね。それまでは数学ばかりしていました」
この人も私のことを言えないくらい変な人だ。
「それで三段リーグまで何年で?」
「大卒と同時だったので四年ですね」
「え、ちょっと待って……」
この人実は超凄い人なのでは? 大学から将棋三段リーグ入りなんて、男性でもレアなはずだ。
大学まで数学ばかり? 何をしたらそんな人生になるんだ?
「ちなみに大学の専攻は?」
「理学部の数理科学科です。といっても、わかる人はあまりいませんが」
「いえ、わかります」
数学系統のスーパーエリートが進む道。この道で活躍する人は説明能力が尋常じゃない。
この人の聞き手としての能力が評価されているのは、そういう背景があるからなのだろう。
「おいくつから女流に?」
「奨励会の年齢制限の二十六ですね。最後は勝ち越せませんでした」
ということは女流になって七年。もう、あまり意味のない分析になってきた。
「えーと、大学から将棋を覚えて三段リーグに行ってる時点で、橋見さんも相当異常だと思います」
「よく言われます」
この人があと三年、いや五年早く将棋に出会っていたら、とんでもない化け物になっていたのではないだろうか。
十三歳スタートなら糸遊とそう変わらない。糸遊の頭がこの人くらい数学特化だったらと思うと、将棋に関しては相当な期待が持てるはずだ。
「あ、そうそう、本題を忘れていました」
「はい。なんでしょう?」
今更何を言われても驚かない。何でも言ってほしい。
「私の参加している研究会に、連理さんも来ませんか?」
今日一で驚かされた。




