23歳51_Invisible scars
もうすぐ女流棋戦のアマチュア予選が始まるという頃、駒を並べながら糸遊に尋ねた。
「糸遊は海外に興味ある?」
「海外? んー、うーん? なんで?」
「今年の夏にちょっと旅行に行くかもしれないの。糸遊も行きたかったらって思って」
「他には誰か行くの?」
「行きたがっているのは采女。これからみんなに聞いて回るところなのよ」
「ふーん。でも、将棋勝ち上がったら夏頃忙しくなりそうだしなー」
確かにそうだ。既に勝ち上がる前提で考えているとは、頼もしい限りだ。
「今年の夏はいいとして、今後海外に行く機会もあると思うから。パスポートだけ一緒に取りに行かない? 私も持ってないしね」
「うん。だったら行く」
どうせなら、結葉と凌乃にもパスポートを取らせておくのもありだ。あとで二人にも確認しよう。
今日の練習対局は緩く話しながら進めた。高校に入ってからのこと、プロの棋戦のスケジュールや水泳のこと。
「凌乃ちゃんと采女ちゃんと毎日登校するのは楽しいよ。でも、クラスにはまだ慣れないかなぁ」
「糸遊なら大丈夫よ。ただ、采女みたいに追試を受けるようなことはやめてね」
「うー」
糸遊の成績はほぼ平均値。預かった四人で成績優秀なのは結葉だけだ。
毎度毎度成績表が持ち帰られる時期、三人から奪い取って確認するのが一大行事になるほどに。
三人とも受験に必要のない科目は優秀なだけに、他の内容との落差が激しくてたまに本気で説教したくなる。
「余計なこと話しちゃったせいで集中できなかったね」
「うん。成績の話なんてしちゃだめだよ」
「普段から勉強してればいいだけのことよ」
あんまり将棋の内容がよろしくなかった。生活環境の変化と同時に忙しくなり、糸遊の調子はあまりよくない。
やっぱり癖をいじろうとしたのがまずかったのかな? そう思ったけれど、やっぱり今後どうしても必要になるポイントだ。二週間やそこらで結論を出すのはまだ早い。
もし今までのやり方を貫きたいのならば、糸遊から言うように伝えてある。
「この間のタイトル戦の棋譜でも見ようか」
「うん!」
先日決まった挑戦者とタイトルホルダーの第一局は、糸遊が学校に行っている間に終了していた。
タイトルホルダーが私の棋風を真似るような超速攻を挑み、生ける伝説である挑戦者が見事に受けきった一局だ。誘導したのはタイトルホルダー。私と若手棋士の対局、糸遊が取った棋譜をタイトルホルダーが持ち帰って研究したようだ。
出だしでおやと思った。紆余曲折あって糸遊が指摘したミスの形になる。そしてタイトルホルダーは私と同じミスの手を指した。
リアルタイムで見ていた私は、勝負を捨てたのだろうかと勘違いしてしまった。
あの手で明らかに優位が薄れた。そう思っていたのに、その先の構想力の違いを見せつけられた。
私に見せつけようとした、と思うのは自意識過剰だろう。恐らくあの棋譜から何かの着想を得た。だからこそ挑戦者にぶつけてみた。
糸遊と棋譜を並べながらその思いを想像する。
わからない。あの時は糸遊の言っていた指摘が正しいと感じた。棋譜を並べてタイトルホルダーの立場で考える。どちらの選択肢もありに見えた。本当に難しい。あの時の私は、どういう考えでこの手を選んだのだろうか。
AIに形勢を確認してみる。糸遊の候補手が第一候補、私とタイトルホルダーの指した手が第二候補。差はあまりなかった。
「これ、どっちがよかったのか、考えるほどわからなくなるね」
「糸遊は絶対こっちだって思ったのになぁ。あんまり差がないんだ」
本当に難しい。私の知る限り、この答えに辿り着いたのは勝ちきった挑戦者の先生しかいなかった。
感想戦の様子では、そのことを伝えているように見えた。この挑戦者の先生は本当に楽しそうに感想戦をする。負けた時も混戦であればあるほど楽しそうに。
いずれお話する機会があれば聞いてみたいものだ。
最高峰の対局内容を並べ、あれこれ考察するのは楽しかった。勉強にもなる。そして、対局者の意図を想像できた。
糸遊が思慮に耽っている。あの一手をどうしても納得するまで考えたいようだ。対局中には頭の中でカウントしてリセットする癖を、こういう場面では使わない。極端な子だ。
前後の局面に動かしては戻し、候補手からの派生を試しては戻し、最後にうんと頷いた。
「糸遊の手で間違ってないみたいだよ」
「そうなんだ。じゃあ私の負けだね」
「これにどっちが勝ちとか負けとかないよ。今の時点の話だもん」
気遣いで言っているのではない。素直な気持ちだろう。
「糸遊は対局中以外、三十秒数えないよね?」
「うん。それがどうしたの?」
「その時の方が正解を見つけやすい?」
どうだろう、うーんと首を傾げている。
「うーん、多分? ずっと考えちゃうと時間なくなるもん」
「普段のその考える時間を、キッチンタイマーとか使って二分までにしてみたらどうかな」
「対局中は今までのままでいいの?」
「うーん、それで調子を落としたままじゃ、この先厳しいでしょ?」
予選開始はこの週末だ。矯正に時間がかかりすぎて、本番で集中できないのであれば本末転倒。それならば別のアプローチを考える。
「そっちの方がいいかもしれない……。うん、やってみるよ」
恐らくこちらの方が実戦向きだ。分単位で読み上げが入る対局は、今後糸遊も経験することになる。思考のリセット用のカウントを自力で行えるのは強みでもあるが、環境を利用できない弱みとも言える。
局面や環境に応じて使い分けができる。それが理想なのは間違いない。
「キッチンタイマーでやるなら、何分を何回使って答えが出たか、記録しておくといいかもね」
「なんだかプロの将棋みたいだね」
「プロになるんでしょ?」
「そうだよ。連理ちゃん以上のプロになってみせる!」
やる気が出たようだ。よしよしとほくそ笑む。
私の中で修正点を見つけても、伝わらなければ意味がない。課題は見えていたけれど、解決法が一つしか見つからないまま伝えたのがよくなかった。今改めて理解した。合った方法も探して伝えなければただの押し付けだ。
教えるのって楽しいけれど難しい。自分のことを考える以上に頭を使う。感情で割り切れないから場合によっては諦めそうになる。
凌乃から声がかかった。私のお風呂の順番だ。糸遊に片付けを任せて立ち上がる。立ち上がりざまに糸遊の頭をくしゃくしゃに撫でたら怒られた。
たまには悪戯をしかけるのも悪くないものだ。
凌乃にパスポートとアイルランドの件を話す。パスポートは取っておきたい、アイルランドはまた考える。私と同じ発想でちょっと笑ってしまった。不思議そうな凌乃に、詳しくは采女に聞いてと説明を押し付ける。
ノックして結葉の部屋に入り、凌乃へ伝えた話と同じことを伝えた。旅行に行く時間はないから、パスポートだけ。自己管理を徹底しているだけあってしっかりした返事だった。
「連理ちゃんは行くって決めたの?」
「うーん、まだわからない」
「多分行った方がいいよ。私もデザイン関係だったら本物をいっぱい見てみたいもん」
なるほど。本当に興味があれば行くということだ。遊びの旅行と捉えていない。
「結葉にはいずれ、そういうお誘いをさせてもらうかもね」
「ふふ、楽しみにしてるね」
おやすみの挨拶を交わして部屋を出る。さて、お風呂お風呂。
糸遊の参加する週末の予選会。さすがに気軽に見学できるものではなく、現場近くまで送り届けるだけにした。
「帰りは本当に電車でいいの?」
「うん。終わったら連絡するね」
何やら自信に満ち溢れているようだ。空回りしなければいいのだけれど。
私は他に予定がなかった。どうしようか。
出産後からあまり連絡を取れていない金井さんに電話をかけてもいいが、育児で大変だろうし土曜日は旦那さんもご在宅だろう。あとでメッセージでも送ろう。
睡蓮としばらく連絡を取っていない。二月のライブのあとで話した通りなら、今も忙しく曲の修正作業でもしているのだろう。邪魔しては悪い気もするが、このまま次のライブまで連絡を取らないのも気持ち悪い。ええい、電話してやれ。
『連理ちゃん? おひさしぶりー』
「久しぶり。調子はどうかなと思って」
『調子? 何の?』
「曲とかダンスとか刷新するとか言ってなかった? あれで忙しくしているのかなと」
『あーあれね。ぼちぼちやってるよー』
「ぼちぼちなんだ」
少し拍子抜けする。ソロ曲が軽く二桁はある睡蓮のことだから、忙殺の毎日を想像していた。
『あー、心配してくれてたんだー。そうかそうか、いい子にしてた?』
「私はいつもいい子だよ。ところでこんなフレーズに覚えはない?」
『なーに?』
「『靴で背丈を盛ってる』『爪先立ちで踵の意味がない』」
『バレたか、どっちも私のコメント』
どちらか片方はと思っていたが、両方だったとは。今度はIDもチェックしておこう。
「今度ヒール付きの靴で蹴っ飛ばしてあげる」
『暴力はんたーい』
「ま、元気そうでよかったよ。今日は暇潰しに電話しただけ」
『さびしくなったらまたかけておいでー』
「私の方が年上だからね」
『はいはい、またね』
「うん、またね」
ちょっと元気が出た。今日はこのまま気晴らしにぶらぶらしよう。
ここからなら将棋会館も遠くない。でかい車で来てしまっていたけれど、コインパーキングはいつも近くに空きがある。
たまにはお仕事以外で行ってみるのも悪くない。気分は将棋会館に向いていた。
こんな感じでふらっと訪れるのは初めてだ。土曜日なら練習対局とかやっているのだろう。興味が湧いた。
ラフな格好でキャップまで被ったパーカー姿。少し緩いかなと思ったけれど、お金を取るわけじゃなし、見学者のふりをするくらい問題ないだろう。
浅い考えで会館に入った。どうにもそういう雰囲気ではなかった。
思ったより人が多い。何かあるのかな。そろーっと人混みを避け、将棋道場の入り口を覗き込む。
お、やってるやってる。
「ご興味がおありですか?」
声をかけられてびくりと振り返る。職員さんが訝しげに私を見ていた。キャップを被っているので誰だかわからなくて当然だ。
「あ、すみません。ちょっと中が気になりまして」
向かい合ってすぐにバレてしまった。あ、九先生と小さく職員さんが声を漏らす。小さくどうもと頭を下げた。
「お忍びですか?」
「近くの用事が終わりまして、暇になったのでふらっと来ちゃいました」
軽く挨拶してカフェスペースに逃げ込む。コーヒーを手に、隣接する将棋道場の光景に目をやった。
おぉー。いっぱい対局者がいる。一般の方も多いのだろう。昼前だというのにずいぶんな盛況具合だ。
ここからでは盤面までは見えない。それでも活気がある様子を眺めるのは楽しかった。コーヒーを啜りながら頬が緩むのを感じる。
最近、人を見るのが好きになったようだ。自分から人混みのど真ん中に行くのは今でも抵抗があるが、こうしてぼんやりと知らない人たちを見るのもいいものだ。
キャップをテーブルに置いていたことで顔が丸見え状態。一人で頬を緩ませながらぼけーっと眺めているのは目立ったようで、道場側から指をさされた。
めちゃくちゃラフな格好をした引退棋士がガラス越しに覗き見している。誰かと一緒であれば気を遣われて何も言われなかっただろうが、どうにも様子が怪しい。これは逃げた方がいいだろうか。カフェは前払いで精算済み。走れば逃げ切れそうだ。
まあいいや、適当にがんばれーと手を振って応援する。外の陽気と同様、頭の中も小春日和だった。
コーヒーを飲み終えて片付ける。キャップを被り直してカフェを出た。ちょっといいものを見れた。そんな気分だ。
「お暇なんですか?」
「おわっと」
急に声をかけられてびっくりする。いつぞやのベテラン棋士がスーツ姿で立っていた。
「はは、すみません。用事ついでにたまには雰囲気でも見ていこうかと」
「ああ、それでそういう格好で」
楽しそうに笑うのでつられて笑った。改めてこんにちはと頭を下げると、ベテラン棋士も返してくれた。
「折角なら道場で指して行かれればよかったのに。もうお帰りみたいですね」
「あまり道場の仕組みがわかっていなくて、雰囲気だけカフェから覗かせてもらってました。そんなに簡単に指せるんですか?」
「実は私も詳しくありません」
わははと笑っている。なんだそりゃ。
「あっちで若手たちが研究会をしていますよ。どうです、覗いていきますか?」
「こんな格好でよければ」
「怒られるのは私じゃないんでね」
軽い言い方をする人だ。どれ、現代の研究とやらを見せてもらいましょうか。




