23歳50_Invisible scars
三月最後のレッスン日。事務所に着いて軽く仕事をしたあと、昼頃から瑞香さんとレッスン場に向かった。
最近はずいぶんと暖かくなってきた。廊下では少し肌寒いくらいの格好でも、レッスン場で動き始めるとすぐに身体が温まる。
「準備運動をしながらでいいんだけど、聞いてくれる?」
「んー?」
瑞香さんがサングラスを額にずらして話しだす。
「今日でこの時間のレッスンは終わりにしましょう。連理ちゃんも忙しくなったしね」
「私に見込みなし、ってわけじゃない?」
「なしどころか大ありよ。ただ、このままズルズル続けても、あんまり伸びないと思うのよね」
それは私も感じていたことだ。課題だったキレへの意識の強さやポージングの反復練習は、自分で意識できるレベルで上達していた。ただ、今のところはそれまでだ。もう、やればやるほど伸びるという段階ではない。
他に注力すべきことがあるとすれば歌だろう。これは瑞香さんの専門ではないし、歌に合わせたダンスを見てもらっているだけだった。
「そうだね。もうすぐ練習生も来るし」
「そうなのよねー。どんな子が来るかわからないのもそうだけど、個々のレッスンメニューを考える時間もほしいのよ」
「私を捨てて新しい子に走るんだ」
「嫌な言い方しないの。夜のレッスンは他の子と一緒に参加していいから。もし具体的にアイドルとしての活動目安がついたら、その時にまた相談しましょ」
「もし、ね」
ということは。この時間に週に数回来てもらっていた、木蓮さんのボイトレも同じように終了になる。
そうなんだよな。自分用の歌があるわけでもなく、事務所内で共有使用できる歌だけ練習していても、本番がなければいずれ慣れと飽きが勝ってしまう。
ちょうどいい機会だろう。昨年も四月から生活が変わった。今の私は将棋の師匠として糸遊をサポートする立場にもある。Wildflowersの課題も研究したことだし、個々の課題への挑戦も見守りたい。一度自分のことは踏みとどまって、環境を整理する期間にしよう。
「ちなみに練習サンプル二代目は、浮草ちゃんに強制移行しちゃうね」
「カエル扱いは嫌がると思うよ」
「だって連理ちゃんがいなくなると、あの子が最適なんだもの」
私が誹謗中傷されてきたカエル呼びの立場を、浮草が引き継ぐ。面白い展開だけれど、私としては少しいじりにくい。
「反抗したらどうするの?」
「その時はこれでスパーンよ」
スポーツチャンバラ用のエアーソフト剣を楽しそうに振りながら瑞香さんは言う。本当はそういう使い方をするものではないのに。
「その辺はほどほどにね」
「わかってるわよ」
瑞香さんと二人で気軽に話せる機会が減るのは残念だ。これまでも優しくも厳しく、そして的確に教えてくれた。
正面に向き合って正座する。深く頭を下げて告げた。
「今まで本当にありがとうございました」
「はいはい、練習しましょうね」
せっかく真面目にお礼申し上げたのに、あっさりと流されてしまう。
隙間風を感じた。レッスン場のドアが開いている。隙間から木蓮さんが覗き込んでいた。
「連理ちゃんが怒られてる」
「怒られてないよ」
「気まずいタイミングに来ちゃったかと思ったよ」
笑いながら木蓮さんが入室する。私はドアがきちんと閉まっていることを確認した。覗きはもう結構。
「はい瑞香さん。明日から来る子の名簿、目を通しといてね」
「あら、わざわざありがとう」
そうだ、木蓮さんにもお礼を言っておきたい。
「木蓮さんもボイトレありがとうございました。今日でこの時間のレッスン終わりになるから」
ふむと一つ頷き、木蓮さんは名残惜しそうに言う。
「連理ちゃんのそのでっかいの、腕に乗せられるのも終わりなんだね」
ボイトレを指導する木蓮さんは、何故かいつも私のお腹に拳をねじ込んでくる。彼女の腕に自然と私の胸が乗る形になっていた。
「そういう目的でやってたの?」
「最近の一番の楽しみだったんだよ」
「瑞香さん、この人セクハラで訴えたい」
「駄目よ。ついでだから、最後に受けておきなさい」
年上女二人の連携に抗えない、セクハラもどきの最後のボイトレ。レッスン場に私の悲鳴が響いた。
普段私だけのために使っていた、この時間のレッスン場に一礼した。普段から入退室時にしているのに、あえてもう一度。
特に意味はない。今後も使う場所だ。それでも私のための場だったと思い返すと、少しこみあげるものがあった。
これで一区切り。廊下を先に歩く瑞香さんと木蓮さんの背中にも、こっそりと頭を下げた。ありがとうございました。
その日の夕方、亜嵐さんに呼び出された。
この事務所内での微妙な立ち位置を相談するいい機会だ。こちらとしてもいいタイミングだった。
「失礼します」
「おう、座ってくれ」
パソコンの前で立って話すものとばかり思っていたけれど、応接用のソファに促される。
「ご用件は?」
「これが難しい話でな。どこから切り出せばいいものか」
「私の雇用形態の話でしょうか?」
「それもあるし、そうでないとも言える」
うーむとひと唸り。珍しく歯切れが悪い。
「まさかこのタイミングで、また誰か預かれなんて」
「言わん言わん。安心しろ」
ないだろうと思っていたけれど、その一言を聞けて安心した。色々と忙しくなるというのに、共同生活者が増えるだなんてとんでもない。
意を決したように、亜嵐さんが顔を上げた。
「お前、まだバイト扱いでいいのか?」
「いいですよ」
「返事が軽いんだよお前。正直に言うと、お前の扱いが難しすぎる。四人を預けているのをマネージャー業務として扱うか、単なる保護者代行なのか」
本当に頭を抱えている。改めて言われると、私も難しい話だと実感した。
「糸遊については、将棋の内弟子みたいなものと言ってあるのでそれでいいと思います。時代錯誤ですけれどね。他の三人については、誰にも言ったことはありません」
「アイドル活動のため、利便性目的の居候とでもしておくか」
「私は構いませんよ。でも、なんで今頃?」
「練習生が来た時にな、お前たちが一緒に帰っているのを見られたら、どう思われるか気になってな」
「ああ、それで」
認識を統一し、質問された時に齟齬が出ないようにしたい。そういうことか。
「その上で糸遊とは将棋の師弟関係があり、活動サポートも並行している。お前があちこちフラついてても、何か仕事をしていることにできる」
「フラついてるって……」
遊び回っているつもりはない。
「実際ジムに行ったりもしてるだろう? あれは営業活動で言い訳が効かんからな」
「練習生がそこまで気にしますかね?」
「保護者の方が気にする。仕事時間のジム通いを見られた時の言い訳を用意しておきたい」
見られたくない場面を見られた時のことか。
「面倒な話ですね」
「まったくだ」
そうか。保護者目線というのを考えたことがなかった。改めて言われると、本当に面倒な関係性が仕上がったものだ。
「結葉と凌乃が高校を卒業するまで、あと一年の話ですよね。そう難しく考えなくていいんじゃないですか?」
「意外とあっさりしてるな」
「まあ、その時が来たら寂しく感じると思いますよ。それよりも今を楽しむよう、みんなで努力してますんで」
「ほぉー」
亜嵐さんが意外そうな顔をする。私がずっと辛気臭くすると思っていたのだろうか。
「同じ事務所に所属してほぼ毎日顔を合わせる。仕事やプライベートで一緒に宿泊することもある。そう考えれば、意外と気にしなくていいんじゃないかなーって」
「変わったな、お前」
「大盤解説の仕事で色々と影響されまして」
「そうか。いいきっかけになったんだな」
まるで私の保護者のような言い方だ。恩はあるが、保護者面をされていい気分にはなれない。
「采女と糸遊が高校を卒業するまでは、近くにいたいと思っています」
「それがいいだろう。例えば隣室の部屋を借りるとかしてな」
「確かに。将棋を指す時間は継続しないといけないし……」
「今回はそういう認識合わせと相談だったわけだ。上手い形を思い付いたらまた知らせてくれ」
「わかりました」
とりあえずは居候扱いでいい。保護者の方や外部の人間に突っ込まれるまでは、あえてこちらから言うことでもない。
完全にもやもやが解消されたわけではない。それでも、方針が定まったことで少しだけ気持ちが軽くなった。
采女とタップダンススクールに通っていたある日のこと、燈火さんが思いだしたように質問してきた。
「連理さんはパスポートはお持ちですか?」
「急にどうしたの? 持ってないよ」
采女はセンスのよさから、スクール内で人気の存在になっていた。今も三十代の女性コーチに手ほどきを受けている。
「私は毎年夏になると、アイルランド現地の舞台に行っているんです。連理さんも本格的にタップを続けるのならばご一緒にどうかと思いまして」
「アイルランドに?」
これはまた遠い地の話だ。少しとぼけてみる。
「アイヌでもアイスでもなく?」
「アイルランドです。連理さんが最初に見た、アイリッシュダンスという種類の語源となる地です」
「ああ、だから現地の舞台を見てお勉強を」
「はい。凄くいい刺激になるんですよ。連理さんなら同い年で誘いやすいかなと思いまして」
おお、なんとお友だちのようなお話だろうか。こういうお誘いはいつ以来だろう。少しだけ照れくさそうにする燈火さんがいじらしい。
「パスポートって、取るのに時間がかかるよね。お金も結構するような」
「そうですね。でも、将棋の解説や活動で今後海外に行く機会も出てくるのでは?」
「ないとは言い切れないけれど、どうだかなぁ? 確かに備えておくに越したことはないかぁ」
「だったらどうですか? 絶対に、絶対に損はさせませんから」
熱がこもってきた。宗教勧誘みたいな誘い文句になっている。燈火さんのタップダンス愛は尋常ではない。そしてクールな人が興奮すると可愛くなるんだなと、ぼんやりと顔を見つめてしまった。
「行くかどうかはまた検討するとして、パスポートの準備は今後のためにしておこうかな」
「是非そうしてください」
「なにをどうすんのー?」
すっかり眼鏡姿が馴染んだ采女が寄ってくる。ずいぶんと悩んで選んだ眼鏡がとても似合っていた。
「燈火さんが夏に本場のダンスの舞台を見にいくから、一緒に行かないかって話。ただ、パスポートを私が持ってないから準備しようかなって」
采女は女性コーチからアイリッシュダンスとタップダンスの違いを教えられている。私と同様、あの一体感のあるアイリッシュダンスに采女も興味を持っていた。
「え、私も行きたいそれ」
「私はパスポートだけ取っといて、行くかどうかは未定よ」
「行きましょうよぉ」
燈火さんが腕をゆさゆさと揺らす。普段のクールな様子とは大違いだ。
「連理ちゃんも行こうよ。私は絶対行く!」
「なんであんたの方が先に決めてんのよ。そもそもパスポート持ってるの?」
「ないよ。パスポートも一緒に取りに行く」
「最悪采女だけ連れて行ってもらったりは?」
「いいですよ。采女さんも大歓迎です」
「その時は連理ちゃんも強制連行だよ」
それだと話が堂々巡りになってしまう。苦笑を隠しながら考えた。
海外かぁ。少し憧れはある。ただ、私は国内ですら飛行機に乗ったことがない。生きて帰れるのだろうか。
「飛行機って落ちないよね?」
「またうだうだ考えだしたよ」
「うだうだって……。命に関わることよ」
「そんなポコスカ落ちてたら仕事として成り立ってないって。変なところで心配性だなぁ」
そうそう墜落しない。それはそうだろう。現に何度も行っている燈火さんがこの場にいるのだから。生還率百パーセントだ。
「他にも行きたい方がいらっしゃれば、お誘いしてもらってもいいですよ。毎年一人で行っているので、賑やかなのは大歓迎です」
采女が意地悪な表情になる。これはまた始まりそうだ。
「燈火さん友だちいないんだ」
「連理さんがお友だちです」
「他には?」
「職場の子とか、他のダンススクールの子とか、糸遊さんとか……」
燈火さんを追いつめられる人間は、今のところ采女しか知らない。細かいことを采女に問い詰められて、珍しくしどろもどろになっている。
年上相手でも容赦なく追い込む采女に頼もしさを覚えつつ、他にアイルランドまで行きたがる人はいたものか。頭の中に顔を並べて考えた。




