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23歳48_Invisible scars

 夕食休憩前、再登壇の時間になった。会場に戻ると、解説の二人に少し疲労の色が見えはじめていた。

 それ以上に聞き手の二人の方が、疲れているように見える。五局同時並行で状況を確認しながら、盤面に合わせた質問をしているのだ。見た目以上に頭を使っているのだろう。

 体力のある男性棋士二人がダブル解説で場を盛り上げている。二人の聞き手は僅かばかりの小休止。そこに私がアクセントとして壇上に呼ばれた。

 今回私を含めたプランを組んだ人の構想力に尊敬を覚える。若い引退棋士という立場、女ながらに聞き手ではなく解説として呼びつつも、時には聞き手の代役まで想定している。

「ここからはお若いお二人にお任せしたいと思います」

 そう冗談を言って本当に中堅棋士が降壇した。午前中に真剣勝負をした相手と二人きりの解説。この場合私も解説になってダブル解説と呼ぶのだろうか?

 そういう枠組みについては特に語られることもなく、五つの盤面のどこに注目しているか、どういった展開が予想されるか質問と返答の応酬になった。

 自然と私の方が解説役になる。どうも若手棋士は私を立てようとしてくれているようだ。ここは下手に謙遜するより、自分の考えを述べるべきだろう。一つ一つの盤面に対し、AIの評価を見ずに思うことを述べる。

 AIは便利だ。すぐに簡単な方針を見つけられる。しかし、この場面ではそんなに必要だとは思わなかった。どんなに進化しても人と人の対局。私の現役時代の研究も、基本的に人読みあってのものだった。

「九先生は対局者の先生方をよく研究していらっしゃるんですね」

「去年ぶつかった方々ですからね。それはもうしつこく勉強させていただきましたよ」

 十人中八人は去年ぶつかった相手だ。他の二人もその前の年や、他の棋戦で対局経験がある。

 そうだ。私の立場は前年度まで、画面の奥の対局者たちと真剣にぶつかりあった棋士だ。そういう意見を求められている。

 一年間変化のない棋士なんていない。ただし、同じリーグでほぼ同じメンツ。一年で変われない部分の方が多いはずだ。

 何のためにここに呼ばれた? 女だからではない。現タイトルホルダーとは別視点で、同じ場所で戦った相手を語るためだ。


 話を引き出してくれた若手棋士に感謝する。先に休ませてもらった分、ここで頑張ろう。

 夕食休憩に入った。この会場の壇上には常に誰かが居続けるローテが組まれている。

 中堅棋士と若手女流は休憩に下がってしまった。一度私も降壇し、再び橋見さんと若手棋士の二人になった。フリートークが始まる。

 質問コーナーもあった。二人が登壇するまでに何かしてきたことは? ゲスト解説への印象は?

「九先生とお話できると聞いて、個人的にわくわくしてしまいましたね」

 若手棋士が私を見ながら言う。もっと話しましょうよとでも言いたげだ。

「私も以前ご縁があって対局したことがありますので、本日はとても楽しみにしていました」

 橋見さんも乗っかって答える。これは誘導されているのだろう。上がってこいよ、登壇して一緒に喋ろうよと。

 気遣いはありがたいし、行きたい気持ちもある。それでも自分勝手な行動は慎むべきだ。そう思ってスタッフの反応を見た。ゴーサインだった。行けと?

 いいように使ってくれる。元々どういう風に扱われても構わないと、大見得を切って引き受けた仕事だ。いいだろう、行ってやろうじゃないか。

「何度も出てきて申し訳ありません。先に休憩をいただいた分、もっと働けということですね」

 皮肉めいた冗談。笑顔で言ってやった。二人も笑っている。睡蓮のスタイルを真似してやった。中継放送を見ていたら気づくかな?

「では、私たちはここでお休みをいただいて九先生にお任せしましょうか」

「そうですね。お腹が空いてきましたし」

 二人が悪乗りで降壇しようとする。待った待ったと追いかけて残ってもらった。働くのは構わないが一人ぼっちは聞いていない。

 壇上の誰にでもいいので質問がある方と、進行していたスタッフが会場に問いかけた。たくさん手が上がっていた。スタッフがマイクを持って質問者に駆け寄る。

「九先生に質問です。去年はあちら側で面白いことをされていましたが、今のご感想は?」

 あちら側、つまり対局者側ということだ。面白いこと、つまり奇行。カメラがあることにふと気づき、どうなってるんだろうと近付いて覗いてしまったこと。

「難解な質問ですね。本当に無意識にカメラに興味が出てしまったんです。どうなっているんだろうと思い、近付いて、『あ、映ってるんだった』と途中で気づいて、急に恥ずかしくなりました」

 見える範囲の人が大笑いをしている。最後に付け足す。

「今思いだしても、とても恥ずかしいです」

「ありがとうございます」

 面白い人だったんだなとか、恥ずかしいって真顔で言ってるよとか、観客の声がしっかり聞こえてより恥ずかしくなる。

 フリートークや質問はこんなものだ。ちょっとした棋士のプライベートや本音を求める質問が多い。もちろん対局の状況への質問もある。

 中堅棋士と若手女流が戻ってきた。二人にバトンを繋ぐ形で三人揃って降壇した。


 一息つく。若手棋士と橋見さんは控室に戻った。私はまだまだ元気だ。

 休憩のつもりはない。これから数時間続く長丁場になる可能性もある。それでもどんどん呼んでほしかった。こんな機会、次いつもらえるのかわからないのだから。

 ライブのファンの気分だった。壇上のトークに一緒になって笑ってしまう。解説の内容に一緒に頷き、疑問があれば首を傾げる。一番前にいるだけで、一般のお客さんと同じ楽しみ方をしていた。

 一つの対局が急展開を迎えた。三敗している棋士が劣勢。プレーオフ進出の候補者だ。相手もめぐり合わせ次第で、降級の可能性がある。お互いに別のラインで可能性を掴むために必死だった。

 壇上に呼ばれ、大盤で解説に加わる。必死に頭を働かせ、できる限りわかりやすく、詳しく伝える努力をした。私が調べた限りの対局相手の情報を解説に取り込んだ。

 人を見る。傾向を調べる。どういう方針なら乗ってくれるだろうか? 相手を研究する時に必死に考えた内容を吐き出した。糸遊に教えた「出力をしろ」という部分だ。

 気がつけば糸遊も関係者席に座っていた。集中しているのがわかる。じっと見られている。お腹の、お臍の近くがずっと温かい。熱くも感じた。私も集中できている証拠だ。

 このままずっと、五局全てで考察を述べたかった。さすがにそれは許されなかったので、指示があれば降壇する。糸遊が持ってきてくれた栄養ドリンクでこっそり栄養補給をする。私はまだまだ話せるぞ、頭を回せるぞ。ハイになっているのがわかった。

 対局開始から十一時間、一つの対局が終わった。既に降級が確定していた唯一の棋士が最後の意地を見せた。二勝七敗で降級決定。相手はもう一人のプレーオフ候補。プレーオフの目が一人消えた瞬間だった。

 その二人がこの会場に来るそうだ。どうやら私の出る幕はなくなるだろう。少し気が抜けたが他の対局の確認を怠らないよう、糸遊が何枚も書いている棋譜をじっと見つめた。

「九先生、少しお化粧直ししましょう」

 降壇してきた橋見さんに声をかけられる。そうだ、朝早く化粧をしたままだ。あんまり自覚はなかったが、体温の向上や発汗、時間経過で乱れているかもしれない。

 化粧室に一緒に向かい、ついでに顔を洗った。首筋を拭って涼しくなる。ずっと髪をまとめたままだったので、かんざしを抜いて髪の緊張をほぐした。ついでにゼリー飲料で軽く栄養補給もする。

「ずいぶん熱が入ってますね」

「はい。今物凄く楽しいです。もっと壇上で話したくて仕方ない気分です」

 手早く化粧を済ませる。髪は下ろしたままでいいだろう。服装の乱れがないかチェックする。橋見さんにも見てもらった。問題なし、再出撃だ。

 さきほどの対局者二名が登壇するところだった。座って話に耳を傾ける。

 私の想像した展開を二人も考えていた。実際に将棋盤を挟む二人には当然のことだったらしく、私の読みより深い考察が話された。これがトッププロか。改めて凄みを感じた。

 横に座っていた糸遊に悔しさを呟いた。

「やっぱり将棋盤を挟んでいる人は凄いね」

「悔しかった?」

「うん、凄く。だってこっちは色々な情報を見られるんだからね」

「連理ちゃんは欲張りだよ。連理ちゃんは十人分の盤面見てたんだよ?」

 十人分……。確かに人数だけで言うなら十人分だろう。五つの盤面をそれぞれ二つの方向から見ていた。それを言い訳にしたくないというのは欲張り、傲慢なのかな。

 一局の全てが終わった。二人が降壇し、聞き手と解説もペアで入れ替わった。


 最後の一局は、最も展開が速かった最注目の対局だった。

 もし三敗している方が勝つと三人でのプレーオフになる。せっかく二敗で挑戦権が間近だった先生は踏ん張りどころだ。昨年の順位のせいで、今年の序列は三人の中で最も低い扱いになる。三人のプレーオフとなると、昨年の順位が影響して、一回多く勝たなければ挑戦権に届かない。

 既にこの棋戦で永世タイトルの条件を達成している、生ける伝説の棋士。私の昨年の最後の対戦相手だ。これで負けてプレーオフで負けてしまったら、昨年の私相手の敗戦が響いた結果とも言える。

 立場上肩入れして応援するわけにはいかないけれど、心情としては勝ってほしかった。最も尊敬する棋士の一人。そして年齢が衰えと言われない結果に結び付けてほしかった。

 私は他の三局でも度々登壇し、合間にはこの一局を念入りにチェックしていた。昨年三百を越える手数の対局をしてくれた相手。後日、奥様が元アイドルだと笑いながら語りかけてくれた人だ。

 昨年私が巻き込んだような超手数の対局だったのに、今年も一番最後までかかるだなんて。この先生にはそういう運命でもあるのだろうか。

 最後にもう一度、登壇を呼びかけられる。もう私を呼ぶことに誰も遠慮はなかった。私も当然のように応じる。

 私情を挟まずに解説するのは難しかった。話している最中、急に終局した。最後の最後で読み違えがあったらしい、三敗の棋士が四敗になった。

 尊敬する棋士が挑戦権を獲得した瞬間だった。


 壇上で対局を終えた二人を迎え入れる。昨年よりいくらか早い時間だ。疲れを隠せない二人、勝った先生と目が合う。自慢でも何でもない、責任を果たしたとでもいうような達観した表情だった。

「昨年、九先生に鍛えていただいた成果が出ました」

 こんなことを言われてしまった。感極まって泣きそうになるのを必死に我慢した。私の仕事は泣くことではない。あとで思い返して一人で心ゆくまで涙を流そう。


 仕事が終わり、控室に戻った。

 中堅棋士と挨拶を交わす。やりきった、とても満足だった。

「最初は九先生で大丈夫かなと思っていました」

「やはり不安にさせてしまいましたか」

 経験不足もあるが、現役のプロの解説についていけるか不安でもあった。

「そうですね。何故この人がこんなにも自信なさげなのだろうと、ずっと疑問でした。彼に触発されて自信を持たれた様子になってからは、安心して見ていましたよ」

 他の棋士と話している若手棋士を示しながら言う。そうだ、彼にきっかけをもらった。二人きりでの登壇時、若手棋士は私へのリスペクトを示してくれた。

「感謝しないといけませんね」

「謝罪のつもりのようですよ。失礼な申し出と結果だったと、あとで反省していましたから」

 午前中の対局のことだ。私を立てているようにしながらも、実のところ私を試すような結果だったから。だからこの中堅棋士もきつめに告げた。

「結果オーライですね。おかげでたくさんの自信を持てました」

「結構なことです」

 この人も疲れているだろうに、後輩を立てつつ私のことも気遣ってくれている。できた人だと思った。


 これから帰るには遅すぎる。糸遊も眠たそうにしていた。

 近くのビジネスホテルに同室で泊まった。糸遊は今日病欠扱いだったが、明日も遅刻させることになる。何かあったら亜嵐さんのせいにしよう。どうせ来週には卒業式だ。

 前回の二日間の大盤解説会よりも濃厚な一日だった。五局を同時に見るのはとんでもないエネルギーを使う。タフな糸遊も棋譜を書き続けて手が痛いと言っていた。

「おやすみー」

 シャワーを浴びて髪も生乾きのまま、糸遊はベッドに倒れ込んだ。私も疲れているというのに仕方のない子だ。タオルで丁寧に髪の水分を取り、新しいタオルで髪を包み込む。

 入れ替わりでシャワーを浴びて、自分の髪の長さに煩わしさを感じた。こういう時のロングは本当に煩わしい。それほど疲れている証拠だ。

 最低限の連絡だけメッセージで済ませる。糸遊の疲れ具合だと電話をしても起きないだろうが、私の口の方が疲れていた。これでもかというくらい、解説と合間のトークで声を出していた。

 連絡先を交換した橋見さんにも、お礼のメッセージを送る。髪を乾かし終えてもう限界と感じた頃には、深夜の一時を過ぎていた。

 メッセージが届いたのがわかった。確認する気力もなく、そのまま眠りに落ちた。


 疲れきっている時に限って短い睡眠で目が覚める。その日もそうだった。

 糸遊はまだ眠っている。スマホを見た。朝の六時だ。

 昨晩の橋見さんからの返信を見る。いずれゆっくりお食事でもと、お誘いをいただいていた。

 瑞香さんより年上で、同性の友人というのは初めてかもしれない。亜嵐さんは友人感がないので除外している。

 これまでなら走りたい気分になっているところだけれど、今は泳ぎたい気分だった。そうもいかないくらい忙しいのが困りどころだ。

 このまま八時過ぎの新幹線に乗って、そこから約二時間の移動。恐らく新幹線で眠ってしまうだろう。新幹線を降りたあとに電車の乗り換えは面倒だから、誰かに迎えに来てもらうかタクシーを呼ぶつもりだった。

 糸遊に伝えたいことができた。中堅棋士との指導対局で見つけた糸遊の弱点。これを克服すれば糸遊は更に大きく伸びる。揺り起こしてまで伝えるのは可哀想なので、しばらく時間潰しをすることにした。

 スマホでネットの動画を見るのは、目が疲れるので好きではなかったが、大盤解説の動画を見つけて簡単にチェックした。

 やはりあった。『靴で背丈を盛ってる』『爪先立ちで踵の意味がない』というコメント。絶対どこかに睡蓮がいる。

 批判的なコメントは気にならなかった。私宛てだろうコメントもあれば、他の棋士に対してのコメントも入り混じっている。自分に向けられたものだと勘ぐって、落ち込むほど暇ではない。


 瑞香さんに到着予定時刻を伝えると、車で迎えに来てくれることになった。

 そのまま糸遊を中学校へ送り届けてもらえばいい。私はそのあとで、ゆっくりと帰ればよかった。

 私も糸遊も新幹線では大爆睡。アラームで糸遊と一緒に起きて、二人してここはどこだと大慌てだった。

「ただいま」

「おはよー瑞香さん。ただいまぁ」

 まだ眠そうな糸遊と瑞香さんの車に乗り込む。私たちのぐったりした様子に、瑞香さんは半笑いだった。

「朝ご飯は食べたの?」

「そういえば食べてないや」

 糸遊はもう寝ている。後部座席で気持ちよさそうに仰向けになっていた。

 こういう長距離移動に慣れていないのもあるのだろうけれど、それでも私より早く寝て睡眠時間は確保していたのに。タフな子といってもまだまだ中学生だ。

「どこか寄ろうか? ファミレスとか牛丼屋とか」

「瑞香さんも食べてないの?」

「私はいつも朝軽めだからね。特に空いてないわよ」

「じゃあいいや。早く帰って楽な格好になりたい」

「今日は何も言わないけど、次からは帰りもお化粧しなさいね」

「はーい」

 眠気はすっかり覚めていた。普段使わない道の景色をぼんやりと眺める。楽しかったなぁ。ひたすらそればかり思い浮かぶ。

「ずいぶんと満足そうにしてるね」

「うん。大満足」

「何かいいことはあったの?」

「将棋やってて初めて自信がついた」

「初めて?」

「うん。初めて」

 今までも自信があることはあった。それは多分気のせいだったと思う。今回の実感は今までのどれと比べても、納得のいく自信になった。

 永世タイトルを取った時も、現役最後の三連戦で勝ちきった時も、自信のようなものはあったけれど「やりきった」気分だった。

 今は違う。成功経験を活かしたい。もっとやりたい。そういう気分だ。自信がついて、それを活かしたいという気持ちは初めてだと思う。

 睡蓮のライブ中毒の気持ちがわかった。きっとこれなんだろうな。楽しくて楽しくて仕方がない。もっとやりたい、ずっとその気持ちがある。

「ねぇ、瑞香さん」

「なーに?」

「何で私、将棋引退しちゃったのかな」

 呆れたように瑞香さんは言う。

「今更後悔してるの?」

「わかんないや。引退してなきゃ今はなかったしね」

「じゃあ、今を楽しむために引退したってことにしときなさいな」

「それいいね」

 今のため、今楽しくなるためか。

 昨年の今頃、燻ぶりはじめた時のことを思いだす。

 あの悩みがあって今がある。それでいいんだ。

「瑞香さんは今晩暇?」

「暇なわけないでしょ。浮草ちゃんのライブが近いんだから」

「なーんだ。昨日と今日のお礼で、食事に誘いたかったのに」

「いいお店なんでしょうね」

「ファミレスでいい?」

「いいわけないでしょ」

 今度でいいや。ちゃんとお礼するのは。

 そう思いながらぼんやりと外を眺めた。こういう忙しさなら、毎年でも大歓迎だ。

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