23歳47_Invisible scars
結局、次の大盤解説の登壇まで糸遊とこっそり話せる機会はなかった。
近くでプロ棋士の集団が盛り上がり、徐々に進むモニター越しの内容に糸遊が夢中になったこともある。棋譜もしっかり取っていた。
少し遅めの食事を取っていると、解説登壇の時間になった。私の出るタイミングは聞き手と解説のペアがいる時になる。どちらか片方の役目を仰せつかるほど、私は経験豊富ではない。
五局中一局だけ展開が早いものがあった。最注目の上位二名の直接対決。二敗の棋士が勝てば文句なしでタイトル挑戦になる一局だ。
お互いの作戦がぶつかり合う。序盤は定跡通りと思われていたのに、早い段階で難しい戦況に様変わりしていた。
類似局面は記憶にある。それでも、ここからでは結論まで辿り着けない。三層分解した思考で言えば中層、まだまだどちらに傾くかわからない状況だった。
解説の際にはAIの候補手も示された。凄いものだ。私の考えと一致しているものもある。短時間でそこまで計算できるのは、技術の進歩の証なのだろう。しかし、このレベルなら登壇中の中堅棋士の読み筋にあったようだ。
「ここで、ゲスト解説の九先生にもお話をうかがいましょう」
壇上に呼ばれた。師匠に呼ばれた時のようなドッキリではない。小さく深呼吸して登壇した。
「よろしくお願いいたします」
改めて大盤の手前に立つ。よし、以前より最上段が近い。今回は小細工をしている。靴の踵を高いものにしていた。
どうだ。これで手が届かずに飛び跳ねて笑われることはあるまい。視聴者諸君、残念だったな。特に睡蓮。
候補手の見解を述べ、いざ駒を動かして話す場面になった。中堅棋士も頷いている。他の解説や聞き手のように、大盤を隠さないように斜めから手を伸ばそうとする。届かない。
くそう、やっぱり大盤中央の五筋近辺は、私で隠れる形になる。垂直なら最上段、一段目にも届く。精一杯背伸びした。爪先立ちなので高い踵が意味をなしていなかった。一生の不覚だ。
会場から「いいぞー」「もう少しで届くぞー」と歓声が上がる。そうじゃないだろう、将棋の局面の方が知りたいんだろう。今伝えるから待っていなさい。
「という形も予想できると思います」
何とか平静を保って聞き手の中堅女流棋士の隣に戻る。助けてもらえなかった。ちょっと気になって表情を見ると、意外な表情をしていた。驚きの顔だった。
私、何かしたかな? そんなに変なことをしたかな?
滑稽なら笑うなり呆れるなり、そういう表情になるだろう。なのに、この中堅女流棋士、橋見さんという方は意外そうな表情を隠そうともしなかった。プロ入り前、三段リーグで対局したことのある相手だ。
他の対局は大型ディスプレイで映されていた。そちらの解説も同時に行うということで、今の大盤を開始局面に戻す。スタッフさんも手伝って、最後に私に棋譜が渡された。
私? どうすればいいのだろう。中堅棋士と橋見さんを見る。中堅棋士に「どうせなら読み上げてみてください」と言われ、二人が大盤を動かし、私が読み上げる形になった。
「九先生のお声が聞き取りやすくて、並べるのが楽しくなりますね」
橋見さんがマイク越しに褒めてくれた。えへへ、声を褒められることはなかなかないので嬉しい。水泳で肺活量も上がって声が通りやすくなったのだろうか。
「手が届かないので声で頑張ります」
自虐で笑いを誘う。中堅棋士は苦笑していた。
他の局面もある程度解説し、聞き手が交代となった。若手女流とは前回の出演以来だ。色々と助けてもらったことを思いだす。そこで私の出番も終わりになり、一度引っ込むことになった。
悔しい、踵上げ作戦が見事に失敗した。歩きにくいのを我慢していたのに。
橋見さんのあとに続き、並んで椅子に座った。糸遊も関係者として見にきている。小さくおつかれさまと言われ、頷いて応えた。
緊張した。壇上から下りてそれをようやく実感した。糸遊が取った棋譜を見せてもらう。さっき解説した一局以外は穏やかな展開だ。
橋見さんも興味深そうに覗き込んできたので、広げて一緒に見た。糸遊は壇上に集中している。
「さっき褒めてもらえて嬉しかったです」
「ふふ、本音が漏れちゃいました」
大人っぽい会話に聞こえないだろうか。糸遊、これが大人の女性なんだよ。ちらりと糸遊を見るが、全くこちらに興味を示さない。
「三段リーグのこと、覚えていらっしゃいますか?」
「はい。お名前もお顔もはっきりと」
橋見さんの方から言われるとは思わなかった。少しお堅い印象があるけれど、予想だにしないフランクな言葉が人気でもある。ユーモアのある女流棋士の先生だ。
「覚えててくださっててよかった。あれも今ではいい思い出です」
「こちらこそ、その節はお世話になりました」
局面もぼんやりと覚えている。十歳近く上だということもあり、当時も距離感がある気がしてあまり話したことはなかった。
こうして大きな場面で話すことになるとは思いもしなかった。人生色々、巡り合わせがあるものだ。
個人的なお喋りはそこそこに、壇上の解説に耳を傾ける。大きく動きがないのでそれぞれの棋士の印象の話が続いていた。若手棋士が無理矢理呼ばれて中堅棋士にいじられている。お客さんを退屈させないためのリップサービスだ。
このような、先輩後輩の仲を上手く使った掛け合いができるのはとても羨ましかった。糸遊が女流棋士になって聞き手に、私が解説で話す。そんな未来もあればいいのに。しかし、解説の場面で男性棋士が映らないことはこれまでになかったはずだ。
私が解説として仕事をもらえるようになれば、いずれはそういうお話もあるかもしれない。可能性はゼロではなかった。
一番進んでいた最注目の対局が硬直状態に入っている。続くように他の四つの対局も手が進んでいた。いずれも含みのある手の応酬。AI評価も揺れ動いていた。
会場にどよめきが走った。タイトルホルダーがゲスト出演する。私も久々に間近に見るので、「おぉー」とファン精神で声をあげてしまった。橋見さんが私を見てクスリと笑った。あなたも永世棋士なんですよ。囁かれて思いだす。そうだった。
現役最強格を間近で見るとなると、やはり興奮が抑えられなくなるものだ。糸遊も目を見開いている。中堅棋士と並んでタイトルホルダーが壇上に立った。一瞬目が合う。すぐに逸らされた。
年齢的には解説の中堅棋士と同じくらいだろう。タイトルホルダーとしての立場もあってか、和服姿で堂々としていた。
解説の中堅棋士、タイトルホルダー、そして師匠。私から見て認知度の高い三人が奇しくも同世代にいる。今の花形の世代だろう。
ちょっとお茶目なところのあるタイトルホルダーは、同年代の中堅棋士とも仲がいい。お互いの話も交えつつ、聞き手にも話を振って会場を盛り上げていた。
各局面の考察に入る。徐々に難しくなる局面が四つ、既に混迷を極めている最重要局面が一つ。タイトルホルダーの興味は明らかにそこに向いていた。
何しろ、その唯一二敗の棋士が勝てば自身への挑戦者になるのだ。挑戦者としてのデータという一面もある。そういう思考なのは予想がついた。私も防衛戦前は挑戦者決定戦をじっくりと観察したものだ。
若手棋士も呼ばれ、それぞれの見解が述べられる。いいな、あそこ。本物って感じがする。将棋の最先端の話だ。若手女流は時折共通の質問を述べ、三人から話を引き出していた。上手いものだ。
「なかなか結論が出ませんね」
「難しい局面ですからね。AIの候補手は、そうですか」
人間の発想にはないような手が第一候補に上がっているそうだ。私もこの手には疑問が浮かんでいた。糸遊の棋譜と見比べる。候補手通りに進めたあとの局面を想像した。やはり盤面が欲しい。手を動かさないと結論は遠く感じた。
「九先生、九先生?」
「あ、はい?」
「呼ばれてますよ」
橋見さんの声で壇上に視線を戻す。三人のプロ棋士がこちらを見ていた。気がつかなかった。何があったんだ?
「先生の所感をお聞きしたいそうです」
慌てて立ち上がると、糸遊と橋見さんからそっと背を押された。慣れない踵のある靴で階段で転びそうになった。
「おわっと」
思わず両手で着地しかける。いかん、今はスカートだ。その勢いのまま体勢を崩さないよう、腕の力で飛ぶように立ち上がった。爪先主体で着地、大丈夫だ。転ばなかった。糸遊から預かった棋譜が皴になってしまった。あとで謝ろう。
「今、何かしていませんでした?」
若手棋士が声をかけてくる。はて、転ばないように手でバランスを取っただけだ。
「躓いちゃいました。慣れないヒールを履くものじゃないですね」
本音の方が笑いを取れた。
笑いばかり意識していては駄目だ。状況が読めず、何でしたっけととぼけて質問を投げる。
手元の棋譜を見比べて大盤を並び変えた。AIの候補手から一緒に動かし、自然とタイトルホルダーと意見を交わす展開になる。
「候補手の展開ではこうですが……」
まるでタイトルホルダーをサポートに回すかのように、一緒に駒を動かした。
「そこ、香車届きません!」
「はいはい」
指さし指示をする。笑いながらタイトルホルダーが指示通りに動かしてくれた。会場から笑いが起こる。私は盤面に夢中になっていた。
察してすぐに駒を動かしてくれる。近い読み筋だった証拠だ。それが嬉しかった。まるで感想戦みたいで楽しかった。
しばらくの間、私とタイトルホルダーに解説が一任されていた。解説というより見解のぶつけ合い、そして確認作業だった。小難しい話をしてしまったかもしれない。
壇上の他の三人は少し離れて遠目で大盤を見ている。岡目八目。解説の時点でその立場にあるが、実際に動く盤から距離を取ることも効果的なのだろう。
区切りがついてタイトルホルダーと壇上から下りた。中堅棋士も長丁場だったので一緒に下りる。橋見さんが若手女流と入れ替わり、壇上は橋見さんと若手棋士の二人になった。
タイトルホルダーはそのまま控室へ向かった。ここでのお仕事は一旦終わり。前日から色々とイベント対応をし、今日も朝から働いていたらしい。
「私、失礼なことしていませんでした?」
中堅棋士にこそこそと尋ねる。
「楽しんでおられましたし、九先生の自虐もあったので大丈夫ですよ」
「自虐というか、本音と効率重視の思考が出てしまったというか」
「だからこそ不快になる人はいませんよ」
確かに悪意はなかったし、快く応じてもらえていた。
夕食休憩前にもう一度呼ばれるので、それまでの小一時間休憩を取るよう言われる。糸遊と共に控室へ戻った。思ったより疲れていたことを歩きながら実感した。
控室ではタイトルホルダーと見学プロが話をしていた。モニター付近を陣取っている。少し離れたところで糸遊と腰を下ろした。喉が渇いている。
近くに使っていない将棋盤があったけれど、糸遊の指摘したミスを掘り下げるような気分ではなかった。あれはいつでもいい。お茶で口を潤しながら、棋譜を追加で書き続ける糸遊を見つめた。
真面目に取り組んでいる。もう弟子というより付き人だ。やること全てが私のためになっている。ありがたい。
「お時間よろしいですか?」
「え? はい、大丈夫です」
タイトルホルダーが目の前にいた。なんだ、さっきの態度で怒られるのか。和服姿相手で緊張してしまう。
「ご挨拶が遅れましたね。さきほどは楽しいお時間をありがとうございました」
今になって思いだす。私の永世タイトルの王手に挑んできた棋士、そしてその翌年に私からタイトルを奪った棋士。それがこのタイトルホルダーだった。
私との通算成績は四勝四敗。五分の成績で終えた貴重な相手でもある。
今のタイトルホルダーとしての存在感が強いあまり、そういうことを思いだせていなかった。
「こちらこそありがとうございました。すみません、つい夢中になってしまいまして」
「いえいえ。あれも含めて楽しんでいましたから」
ほっとする。それならよかった。この人の登壇直後、目が合ったことを思いだす。きっと過去の対戦のことを思いだしたのだろう。
「昨年の結果と、その後の引退は残念でした。また戦えると勝手に期待していましたので」
「力及ばず申し訳ありません」
冗談交じりの会話。それなのにどうにも真剣味が薄れない。ちゃんと決着を付けたかった。そう言ってくれている。
最後に負けたのは私だ。タイトルを失冠した相手だ。私としては負け、それで納得していた。だが、この人はそう思っていないのだろう。もっと大きな舞台での決着を望んでくれていた。
「お弟子さんなんですよね」
「はい、糸遊と言います。糸遊、自己紹介して」
「千振糸遊です!」
「元気な子ですね」
糸遊のおかげで空気が和らぐ。連れてきて本当によかった。
「棋譜を取ってるそうですね。見せてもらえますか?」
「はい!」
糸遊にも丁寧な態度。これが立場ある人のあるべき姿なのだろう。
生ける伝説と思っていた先輩棋士もそうだった。そういう態度が自然と身についている大人だ。
「この棋譜は?」
「ああ、それは私の練習対局の棋譜ですね。混ざってましたか」
私と若手棋士の棋譜、糸遊に全部預けていたので見られてしまった。ほうほうと頷いている。
「この一枚、同じのを書いてもらえますか?」
「うん、じゃなかった……はい!」
「ただの練習対局ですよ?」
「公式戦の棋譜は取り寄せられますが、こういう珍しい棋譜は手に入らないでしょう?」
それもそうだ。でもなぁ、ただの練習だしなぁ。真剣ではあったけれど。
糸遊が大急ぎで棋譜のコピーを書き上げる。近くにコピー機でもあればすぐだったけれど、生憎となかった。綺麗な原本を渡して雑な方を手元に残せばいいし、ある程度覚えているから再現も難しくない。
原本の方で、糸遊が丸を付けているところがあった。私のミスとして指摘していた箇所だ。
タイトルホルダーも気づいたらしい。なるほどと頷いている。
「ありがとうございました。じきに呼ばれると思いますので、もうしばらくお待ちください」
「はい、ありがとうございます」
楽しそうな表情で去っていった。挨拶にしては長くなってしまった。
もう少し時間がある。糸遊に私の対局のミスを尋ねた。新たに書かれた棋譜でざっとおさらいする。確かにミスと断定できる手だった。目的を持って指した手だったけれど、糸遊にはこっちの方がよかったという明確な指摘をされた。
「本当によく気づくね。偉いなぁ糸遊は」
「偉いのは連理ちゃんだよ。いっぱい頑張ってるもん」
可愛いやつめーと、自宅のように頭を撫でてしまう。視線を感じた。控室なのを忘れていた。




