23歳46_Invisible scars
新幹線移動で結局うとうとしてしまった。
アラームが鳴り、目を覚ました。到着まで二十分ある。買っておいたサンドイッチを平らげ、コーヒーで流し込んだ。最低限の栄養補給だ。
口を開けて寝ていた糸遊を揺り起こし、立ち上がって洗面スペースに向かった。歯みがきをしたかった。
席に戻ると、食事を終えた糸遊が入れ替わりに席を立つ。外は明るくなっていた。新幹線の窓から景色を眺めると、大きな畑が広がっていた。
糸遊が戻ってくる。顔を洗ってすっきりとした表情だった。化粧をしなくていいのが羨ましかった。
「糸遊も化粧の仕方を覚えなきゃね」
「えー? まだいいよー」
「私も同じこと言ってたなぁ。今になって瑞香さんに小言言われて、嫌々化粧してるけれど」
「常識って面倒臭いね」
「本当にね」
間違いない。みんながやっていることだから常識。面倒なことこの上ない。しかし、その常識というシステムの上で生きていられるし、面白いこともある。メリットもデメリットもある。浮草が言っていた言葉を思いだした。
新幹線がホームに入った。他の人が降りてからゆっくりと立ち上がる。忘れ物がないことを糸遊と確認して外に出た。
タクシー乗り場に移動する。既に数組並んでいたので、駅の近辺をぼんやりと眺めて時間を潰した。
列が進み、ようやくタクシーに乗り込めた。会場を伝えると「将棋ですか」と声をかけられた。この時期、この辺りの恒例行事だ。
「はい」
「おや。あ、いえ、発車します」
私が誰か気づいたのだろう。知られていたんだと思い、ちょっと誇らしくなる。そして、深入りしようとしない運転手さんの態度がありがたかった。糸遊を連れているので気を遣ってくれたのだろう。
十分ちょっとで着いてしまう距離だった。糸遊も静かにしていたので、道を覚えるつもりで外を眺めた。
今回は現地に対局者はいない。会場で解説をするためだけの集まりだ。しかし、五つの対局を同時に見ることになる。気楽さと緊張感のバランスが難しい。
それでも近くの旅館でトップ棋士が対局していると思うと、ぞくりと緊張感が走った。昨年はあちらにいたんだ。そう思うと感慨深いものがある。
残念なことに、去年の移動の記憶はほぼない。旅館は綺麗だった。持ち込んだ栄養食でごまかしてしまった。変なことだけ覚えているものだ。カメラに奇行が映ってしまった思い出もある。忘れてしまいたい。
メインの解説は私以外に慣れているプロ棋士が二人いる。私は今回、常駐するゲストのような扱いになる。それでも正式な仕事の依頼だった。前年度のリーグ戦参加者という立場で、しかも勝ち越して終えたのだから今年の参加棋士の印象を問われることになるだろう。
タクシーを降り、会場でスタッフに声をかけて控室に案内された。関係者として糸遊のことを伝えると、糸遊は一時待機を命じられた。ひとまず私だけ控室に向かい挨拶をする。
解説となる棋士の先生は事前に把握していた。中堅の強豪棋士と、若手の実力派棋士。どちらとも対局経験はあるが、深く話したことがなかった。
「本日はよろしくお願いいたします」
「よろしくお願いします。お会いできるのを楽しみにしていました」
中堅の強豪棋士は饒舌で有名なベテラン棋士の弟子、この方も解説巧者だ。楽しみと心強さ、そして実際に話したらどうなのかという緊張感でいっぱいになる。
「もう一人はまだ来てないんです。もうすぐ来ると連絡は受けていますが」
「先生はお早めなんですね」
「そうなんですよ。僕は雰囲気が好きで近くを見学させてもらいました。九先生もそうですよね」
「はい。去年とは別の景色が見られそうでしたので、朝からお邪魔している次第です」
朝早くといっても、既に対局は始まったあとだ。解説は遅めの入りでいいと言われていたので、こうしてゆっくりした入りで何とかなっている。
寝坊したことは瑞香さんに救われた。今度なにかご馳走しよう。
「あの、関係者として弟子を連れてきているのですが、もう入ってもいいのでしょうか」
「大丈夫なはずですよ。受付処理だけしてもらえれば」
散歩ついでにということで、一緒に糸遊のところへ来てもらった。
受付のところで若手棋士と糸遊が話している。どうやら、関係者としての受付対応を手伝ってもらっているようだ。
「すみません、お手数をおかけしまして」
「いえいえ。ついでだったので」
若手棋士も中堅棋士に挨拶をしている。やがて聞き手の女流棋士も来るだろう。糸遊を連れて控室でお話に混ぜてもらった。
「プレーオフも最大で四人の可能性がありますからね」
「組み合わせも面白いね。まさか、最終日に二敗と三敗がぶつかるとは」
二人は棋士以前の先輩後輩の仲だった。会話の相性もよくて、解説にはもってこいの実力と面白さの組み合わせだ。
「九先生は去年どうでした? 二月の時点では、プレーオフの目もあったでしょう?」
中堅棋士、先輩の方は滑らかに喋るタイプだった。フランクな男版燈火さんのような感じ。
「正直なところ、自力の目がなければプレーオフは辞退するつもりでした。他の棋戦を辞退した手前、そこだけ運に任せて粘るのも嫌だったというか」
「制度上辞退は難しいと思いますが、そうはならなくて九先生にとっては都合がよかったようですね」
え、辞退できなかったんだ。格好付けて糸遊に宣言したのに。
「あの引き際は見事でしたよ。一回きりの挑戦チャンスにかけて、駄目だったら潔く身を引くなんて。わたしならできません」
後輩棋士は少し熱いタイプ。一人称はわたしなのに、口調から熱意が伝わってくる。
「色々決断したい時期でしたので、年明けから最後の三戦に賭けていたんです。その上で地力の目があれば最後の挑戦もありかなと」
場が場なだけに去年の話に繋がってしまう。糸遊は五つ並んだ中継のモニターを見つつ、それぞれの棋譜をメモして勉強していた。
「お弟子さんなんですよね。今の棋力は?」
「半年以上前に、道場でアマ初段クラスと言われていたようです。お恥ずかしながら、私は棋力判定が苦手でして。毎日指してはいるのですが」
「どれ、お時間もあることですし、僕でよろしければ見てみましょうか」
「いいんですか? 私がお願いしたくらいですよ」
「僕じゃ九先生にコテンパンにやられそうなので、お弟子さんの相手で勘弁してください」
冗談っぽく言われたが、私相手に負けてなるものかという意思が見えた。
ちくしょう。プロ棋士と指せるチャンスだと思ったのに。まあ、これは仕方のないことだ。
「プロの先生と指せるの?」
「そうよ。実力を見てもらいなさい」
「うん。じゃなくて、はい!」
十分将棋で一分単位の考慮時間、なくなったら三十秒将棋。
お互い時間を使い切ることはないだろう。そう予想してじっくりと観戦した。
若手棋士が中継のモニターをチェックしてくれている中、中堅棋士と糸遊の対局は終了した。
案の定、時間を余らせてのプロの圧勝。糸遊は悔しがることもできないくらい呆然としていた。
糸遊が矢継ぎ早に質問を浴びせる。中堅棋士はさっくりと応じる。そんな感想戦が十分ほど続き、中堅棋士と目が合った。
「いやいや、アマ初段なんていつの話ですか。相当やり込んでますね」
「私とほぼ毎日一局から二局、じっくり感想戦までやっています」
「それでか……。いや指摘があまりにも鋭いので驚きましたよ。序盤と決断力さえ伸びればこれは」
ふむふむと楽しそうに頷いている。もうすぐお昼時だ。
「アマ四段と断言はできませんが、三段クラスの実力はあるんじゃないですか」
「本当!?」
「糸遊」
落ち着きなさいと、制服を摘まんで座るよう促す。
「あ、ごめんなさい」
「大丈夫だよ。プロを目指しているんだよね」
「はい! 連理ちゃんを超えます!」
この子、堂々と言い切りやがった。思わずニヤけてしまう。
「お名前で呼ばれているんですね」
「内弟子のような暮らしをしておりまして、家族同然なんですよ」
「それはそれは」
面白い子もいたもんだと、中堅棋士は笑っている。
「あの」
若手棋士がこちらを見て何か言いたそうにしていた。先輩の中堅棋士の様子を窺っている。
「九先生、僕と指してみませんか?」
「こらこら」
「いいんですか!?」
思わずこちらから身を乗り出してしまう。糸遊に呆れた顔で服を引っ張られた。
「先輩、これオフレコでお願いしますよ。今日ご一緒できると聞いて、ずっと考えてたんですから」
「そんなに時間を使わないなら構わないが。お昼休憩中に終わらせるんだぞ」
「はいはい」
うきうきで若手棋士が私の目の前に座る。どれ、私もやる気を出そうか。
現役のプロ棋士とこっそり真剣勝負ができる。これだけで解説会に来た意味があるというものだ。しかも新進気鋭の実力派棋士。
さきほどの二人の対局と同じルールで、振り駒もして私の後手番になった。
「よろしくお願いいたします」
「よろしくお願いします!」
相手は気合十分。初手を待って、かんざしで髪をまとめた。糸遊とネット将棋と将棋道場、あとは少しAIで練習した程度の私が現役とどれだけ指せるのか楽しみで仕方ない。
どうやら相手は私の棋風を知っていて、それを受けて立つ方針のようだ。それならやりやすい。記憶した盤面と自然に照らし合わせができる。
いつまで経っても忘れることはないだろう記憶の数々。遡り過ぎると、余計な過去まで思いだしてしまう。それを武器に棋士になった。
過去に記憶した盤面と照らし合わせる。糸遊に教えた上下三層の状況分類、あれはあくまで基本だ。相手が強いからこそより集中できる。それぞれの層に複数の盤面が並ぶイメージだ。糸遊に教えたのは縦一室ずつの建物で、私の頭の中には三フロア分のデパートが広がっているような形だ。
いつか糸遊にも話すことになるだろう、私が棋士として最初に勝てた理由。糸遊だけではない、他の人にもいつか伝えることになる記憶の秘密。師匠ですら知らないことだ。
戦況が有利に傾いて余計なことを考えてしまった。今はこの一局を指しきろう。この実力派若手は受けて立ってくれている。解説者の名前に出ていた時に少し調べた。彼の本当の棋風はこれではないことを、私は知っていた。
私の棋風に合わせたせいか、若手棋士は時間に追われて焦りが見えていた。
「ありません」
「はい、ありがとうございました」
にこやかに返事を返す。さすがの終盤力と粘りに息を呑んだが、既知の局面の延長線上だった。AIを使った勉強が役に立った。
「本当に、なんで引退しちゃったんですか。もったいない……」
そう言われてもなぁ。表向きに引退理由は公表していないし、あえて言うなら寄付を言い訳に将棋界を外から盛り上げるためなんてことも口にした記憶がある。
「私に合わせてくださってましたよね?」
「わかりましたか? いや、失礼を承知で本気を見せてもらいたくて」
「失礼にも程がある。出直してきなさい」
中堅棋士が厳しく若手棋士に告げた。怒っているわけでもなく、呆れているわけでもない。実際に出ていけというわけでもない、気持ちの問題なのだろう。
「はい、肝に銘じます」
「九先生、このことはくれぐれもご内密に」
「はい。そのつもりです」
自信がついた。それだけで充分だ。
お昼休憩があと半分ほどで終わってしまう。そろそろ大盤解説の出番だ。
対局が終わった頃に女流棋士が二名やってきた。聞き手の二人だ。そのあとに数名のプロ棋士が挨拶をしながら入ってくる。現地で見学と勉強をしたい棋士は多い。
聞き手の仕事で来ている女流棋士の一人は、先日一緒だった若手女流だった。歳は私の一つ下。大盤で駒を動かすのを手伝ってくれた人。ついでに温泉も一緒だった。
挨拶で少し盛り上がるが、時間があまりなかった。メインとなる四人に加え、ゲスト解説として私も一緒に、最初から登壇するよう言われている。
糸遊は少しここに残りたいと言う。見知ったプロ棋士はいないだろうに、一人で残して大丈夫だろうか。中堅棋士に窺いを立てると、問題ないという。
さて、ちゃんとしたお仕事だ。かんざしは挿したままでいいだろう。以前のスーツではなく、フォーマルかつ柔らかさもあるコーデ。前日に凌乃たちと相談して決めておいた、今の私の勝負服だ。
若手女流と中堅女流に続いて登壇する。四人のあとでゲスト解説として紹介してもらった。のちほど現在の頂点に君臨する棋士もゲスト出演されることになる。
それに比べたら、私はおまけのようなものだった。そう思えば気楽に対応できた。
最初は出番がなさそうだったので、控室に戻ることを許された。糸遊が昼食後までの五局全ての棋譜を記録している。それを見せてもらった。
何人かの顔見知りの見学プロとも挨拶をする。少しずつ交流の輪が広がっていることを実感した。
糸遊はさきほどの私と若手棋士の盤面をじっと見ていた。何か感じるものでもあったのだろうか、その棋譜も書き出している。
「それは何かの対局の再現?」
見学に来ていた女流棋士がやんわりと糸遊に声をかけた。気遣ってくれるのはありがたい。糸遊は上手くごまかせるだろうか。ひやひやする。
「はい! ちょっと前に見た一局です」
上手い言い方だった。確かにほんのちょっと前。糸遊から棋譜を受け取った女流棋士が、糸遊と向き合って一緒に並べ始めた。私も糸遊の後ろに座って観察する。
周囲のプロも、なかなか進まない本命の対局を暇に感じたのだろう。控室で女性二人が棋譜を並べている姿に興味を持ったらしく、どれどれと覗き込んできた。
「へぇ、急戦型」
「相居玉って、これ殴り合い」
プロはさすがに鋭い。序盤のちょっとした動きから、すぐに先を予想する。
「後手番はこれ、九先生では?」
いつの間にか隣に座っていた、顔見知りのベテラン棋士が話しかけてきた。大人しく白状する。
「わかるものなんですね、やっぱり」
「あの暴力的な棋風は他にはなかなかありませんから」
他の棋士の手前、以前より丁寧な口調だ。しかし暴力的って、私の棋風はそんなに荒いか。
若手棋士が自分の棋風を崩してくれて助かった。お陰でプロ棋士との対局とまでは気づかれないだろう。
最後の私の一手を糸遊が再現し、投了図になった。
見るなよ。糸遊こちらを見るなよ。褒めにきたりしなくていいからね。
「連理ちゃんここで失敗してる……」
棋譜を見ながら糸遊が呟いた。
「え、どれ?」
またも身を乗り出してしまった。まずい。
え、連理? 九先生? 疑惑の声が上がる。大丈夫だ、相手さえバレなければ。
大盤解説の仕事よりハラハラドキドキの展開になった。
注目を浴び、糸遊のことだけ白状する。
「すみません、弟子を棋譜取りと勉強に呼ばせていただいておりまして」
「お弟子さんだったんですね」
「可愛い」
「中学生?」
口々に質問をされて、糸遊がどこから答えていいかわからずにおろおろしている。
「えっと、中学生です。もうすぐ高校生になります。連理ちゃんの弟子です。毎日将棋指してます」
「呼び方可愛い」
「お弟子さんにちゃん付けされてるんですね」
あははと笑うしかなかった。ベテラン棋士もニヤニヤしている。
「この子の段位は?」
「先程解説の先生に軽く指導してもらいまして、アマ三段クラスはあると」
「ほうほう。ではこれから女流に」
「その予定ですが、最終的にはあちらの世界を目指しているようですよ」
にやりと男性棋士のグループを見て言う。私を超えると、現役プロ棋士の前で宣言したのだ。これくらいは言わせてもらわないと。
それはともかく糸遊の指摘した局面が気になった。中継のモニターに動きでもないだろうか。早く内容を知りたい。
仕事で見なければならない盤面より、自分の指した棋譜が気になってしまうなんてね。弟子を持つ身としては少々情けない姿だった。




