第18話 行きたくない
陽が昇らないうちに僕は家に帰った。
半分眠ったような状態だったので、よくは覚えていない。けれど、去り際に華凜からキスされたことはよく覚えている。
気持ちが通じ合って、身体を重ねてなお、その日の朝は決して目覚めのいいものではなかった。
永遠には続かない日々の終息。
いずれは訪れるはずだった今日という日。
華凜が上富良野を去る日。
この事実は、僕がどう足掻いたって変わるはずもない。僕らを待っている未来は辛いっていう現実も解っている。
着替えて外に出る。
目の前にはどこかで見たことのあるロゴが入った運搬車が一台止まっていた。
屈強なドライバーたちが家の中からダンボールやら何やらを運び出している。
「あ、優斗」
ちょうど同じくしてダンボールを持って外に現れた華凜は、僕を見つけると手に持っていた箱を横を通り過ぎようとしていたドライバーの上に乗せ、四段重ねにするとパタパタと僕の前にやってきた。
さすがにそれは鬼すぎるんじゃないかな、華凜さん。
「おはよ華凜。なんか夜逃げみたいだね」
「朝逃げるのに夜逃げとはこれ如何に。っていうかそもそも夜逃げじゃないし」
「いや、ごめん。手伝おうか?」
「うん、お願い」
そう言って、部屋から適当に荷物を運び出した。ダンボール十数個とタンスが二棹。一人暮らしの引っ越しとしては果たして多いのか少ないのかはさっぱりだった。
「ベッドとか買ったんじゃなかったっけ?」
「あれは日時指定で配送してもらうようにしたから。今日、向こうに着いたタイミングで届くようになってるわ」
「そっか。……いよいよだね」
「うん、あんまり実感ないけどね。ってどうしたの? そんなしょぼくれた顔して」
「いや、別に……」
普段どおり、いやそれ以上に華凜の顔は活き活きとしていた。当然といえば当然だろうけど、僕は少し寂しく感じた。
「で、華凜もコレで運んでもらうの?」
「うん、要冷凍ってラベルの貼ってあるダンボールに入れられて……って誰がカジキマグロよ」
「いや言ってないし……。しかもなんでカジキマグロっていう方向に連想するかな」
「ふふっ、想像力が豊かな証拠ね」
「いいよ、もう君はカジキマグロで」
「……なんか凄く失礼な物言いじゃない?」
「別に他意はないけどね」
「ふぅん。ちなみに私は汽車で現地に行く予定。最初は、このままトラックに乗って行っちゃおうかとも思ってたんだけど」
「だけど?」
「今はほら……まだ離れたくないって思ってるから」
少しだけ気恥ずかしそうに、華凜は言った。
その言葉に僕は少しだけ安堵する。
そう思ってくれていただけでも、僕は嬉しかった。
けれど結末は変わるわけではない。そういう複雑な心境のまま、華凜の荷物を載せた車は走り出してしまった。
準備にあれだけ時間がかかったのに、出発は結構あっけない。
「とりあえず、どうしよっか」
「どうするって言われても……もう全部トラックに乗せちゃったから、手ぶらで今すぐにでも発てるわよ」
「夜逃げするなら夜にしないと」
「って、向こうも思ってるわけよ。だから昼間に堂々と逃げればバレない、常識の間隙を突いた見事な……ってごめん、そういう意味じゃないわよね」
「ううん。いいよ普段どおり、いつもの感じで。しんみりなんてするのは僕たちには似合わないでしょ」
「……それもそうね。じゃあ、散歩でもしよっか」
「うん、そうだね」
そういう他愛もない結論に達した僕たちは、町を適当にぶらぶらすることにした。
今更何処に行こうと、場所なんて関係ない。最後の一瞬まで、華凜と一緒にいたい、ただそれだけを思っていた。
「行こう」
自然と、僕は華凜に手を差し伸べていた。
「……うん」
それに応えるように、彼女は小さく頷いて、差し伸べられた僕の手をそっと握り返すしてくれた。
手を繋いだままなんとなく歩き出す。
面白い会話があるわけでもなく、物珍しい光景があるわけでもない。ただ、お祭りの前だということもあってか、普段より慌しく人々が行き交っている。
「華凜も見ていけばいいのに」
「そうね。でも、優斗が帰ってくるより前に二十四日って日取り決めちゃって、引っ越しの段取りも組んじゃってたから今更って感じかしら。優斗はお祭り見てから帰るんだっけ?」
「そのつもりだったけど……正直お祭りとか、もうどうでもいいんだよね」
「どうして?」
「それより大切なもの見つけたから。お祭り程度じゃ釣り合わないくらいの」
「……聞いてて恥ずかしくなる台詞、よく言えるわね」
「だって本当のことだし」
「聞くようなことでもないけれど、それって何のこと?」
昨夜、僕がちょっと意地悪したことへのお返しが、実に彼女らしい。
「もちろん、華凜」
やっぱり改めて口にすると少し恥ずかしかった。
けれど、僕はそうして自分の気持ちを確かめたかった。だって、これは僕の初めての恋だから。
華凜は僕の言葉に何も返さず、繋いだ手を強く握り返してきた。それだけで、僕は彼女が何を考えているのか解った気がした。
色々な人とすれ違って、その度に冷やかされたり。羽代さんちの娘さんと支倉さんちの甥っ子さんがうんぬんかんぬんとか。コソコソ話されるとどうしたって落ち着かない。などと僕が思っている隣で、華凜は笑っていた。
片時も離れることなく。
固く握られた手を解くこともせず。
こんな小さい町では、どこの誰がカップルになったかなんて噂は、一日で町を七往復する。ここはどこまでも田舎だった。
そんな穏やかな時の流れを僕は感じていた。
やがて日が暮れ、黒いカーテンが上富良野町を覆う。
辺りは急速に暗くなっていた。
「……行きたくない」
急に華凜が足を止め、小さな声でそう呟いた。
無理矢理に搾り出したような、か細い声で。
「五年も待ったのに……また離れ離れになるなんて………」
僕はもう、抑え切れなかった。
普段決して弱さを見せない、彼女の本音に。
「華凜」
やや強引に、僕は彼女の手を引いて正面に抱き寄せる。
華凜は嫌がることもなく、僕の突然の抱擁を受け入れる。
離れたくないと思う気持ちは僕も同じだ。こうしていれば彼女と離れることもない。けれど、だからといってどうにかなることでもない。
「一分でも、一秒でも……優斗が側にいないなんて考えられないよ……」
背中に回した華凜の手に力が篭る。それは痛いくらいにきつく、そして僕も同じように華凜を、彼女の言葉一つ一つをかみ締めるようにして。
※
それからは何処をどう歩いたのかなんて覚えていなかった。何を考えていたのかも解らなかった。時間は刻一刻と迫り来る。望まないとしても。
もう少し上手い時間の使い方ができていれば。なんて、そんなことはもう今更だった。気がつけば僕たちはすでに駅の前。いずれはたどり着くはずだった場所。
閑散としたその寂しい風景は、僕が久しぶりにこの地に降り立った時となにも変わってはいなかった。駅員のいない無人駅。利用者の姿もまったく見えない。
終電は午後八時。札幌行きは午後七時と更に早い。
「……傍から見たら、引っ越しする人にはぜんぜん見えないわよね」
「……まあ、手ぶらだしね」
「余計なものはくっついてるけど」
「あ、それって僕のこと?」
「だとしたら、どうする?」
「余計なものってのは、少し傷つくね」
「冗談よ。持って行くわけにもいかないしね」
「持ってってもいいけど?」
「……………………」
「……華凜?」
僕は茶化すように冗談で返したのだけど、彼女は何も言わなかった。
精一杯だった寂しそうな作り笑いが、今にもまた泣き出しそうになる。
覚悟していたことだ。それはお互いによく解っている。
だからこそ最後はあくまで自然に、僕たちは一緒にいることにした。
けれどその自然は、あっという間に、脆くも崩れ去った。
「……このままお別れなんて、やっぱり嫌だよ」
「…………」
僕は黙って華凜をそっと抱きしめた。
そして、そうすることが当たり前のように、彼女は僕に身体を預ける。
あの日、華凜が健康診断に向かうとき、ホームで一人見上げた星空を思い出した。
星座の形はそのときと全く同じだった。
天球の中で輝くそれらは、プラネタリウムのように廻ってはいない。
それでも……。
もし僕たちがこうして再会したことに『縁』があるのだとしたら――
めぐり巡っていま、こうしているのなら――
星々はもう廻る必要なんてない。
今の僕たちを、そのまま見つめていて欲しかった。
「もし僕が行くな、って言ったらどうする?」
「もしかしたら、そのとおりにしちゃうかもね」
「僕がこのままついて行く、って言ったらどうする?」
「それは喜んで承諾しちゃうかもね」
「……そうしちゃおうかな」
「……ダメよ。優斗、何の用意もしてないじゃない」
僕には「いいから私を引っ張って!」そんな声が聞こえたような気がした。
お城のお部屋でお姫様が星を見上げて待っているのだから、一緒に行こうと手を取るのが男の務めというものじゃないのか。
夜中に出かけたら、お父様とじいやに怒られてしまうから、と戸惑うお姫様に、じゃあ今日はもう寝たほうがいいね、という物語の主人公がどこにいる。いや、いるかもしれないけれど、そんな男になりたくない。捕まっても首を刎ねられるだけの覚悟があれば、一夜の冒険は男の夢だ、悪くない。
「……あとで恭子さんに東京に直接送りつけてもらうし。それにほら、本当は帰る前に札幌で遊んで帰るつもりだったんだよ」
結局僕はそんな取ってつけたような適当で、かっこわるい理由を口走っていた。
「……素直じゃないんだから」
「それは、華凜も一緒でしょ」
「そう、だね……」
やがて訪れた二両編成の普通列車の先頭車両に、僕たちは乗り込んだ。
誰もいないボックス席に、僕たちは腰掛けた。
汽車の床下からゴトゴトと、コンプレッサーの音が聞こえてくるくらいに静かだった。
もうすでにここに未練はない。
誰にも何も告げず、僕はこの町を後にする。
恭子さんにも遥香にも、誰にも言わず。
後で文句言われ……ないだろう、恭子さんならば。
「い、いいのかな、ホントに……」
今更ながら、僕は多少不安になってきた。
「大丈夫よ」
そういう華凜の声は、何処となく楽しそうだった。
「まぁ、引っ越し先の片付けとか……うん、一人じゃ大変だろうしね」
僕はそう言って、無理やりにでも自分を納得させようとする。
「ほんと、そうやって自分を騙すのが得意よね」
「僕なりの優しさ、ってやつですよ」
冗談のつもりだった。けれど彼女は、
「ほんと、優しいよね、優斗は……」
眠っているような、そんな安らかな表情で華凜は言う。
誰もいないボックス席の中、僕たちは肩を寄せあった。安らかな、落ち着いた笑顔に、そんな彼女の笑顔に僕は愛しさを感じた。
発車を告げる笛の音が、閑散とした車内に響く。
やがて笛の音が鳴り止み、そしてゆっくりと閉じていく扉。
そしてブレーキから空気の抜ける、耳障りな音が車内に響く。
そうして僕たちを乗せた列車は走り出した。
この町には、もう何もない。
華凜がいない場所に、僕の居場所はないのだから。
だからこそ、僕は何も言わずに行く。
さよならも言わずに、寄りかかる彼女と共に。
けれど、本当はお互い分かっている。
僕たちのやっていることは、別れの日を、単にほんの少しだけ先延ばししたことに過ぎないということを。




