第11話 温泉と、ひざまくら
「着いたわよ。ほら、もう起きなさい」
「……んん~、あぁ……僕は寝てたのか」
雪で荒れた路面の振動が妙に心地よくて、いつの間にか僕は眠りこけていたらしい。
まぁ、慣れない肉体労働で疲労が溜まっていた、ということもある。
「運転してる私を放って寝るとは、これ如何に」
「その原因を作った人がそれを言うかな」
「ふふっ、それもそうね」
ちょっとだけ嫌味を言ったつもりだったのに、華凜ちゃんは何故か上機嫌だ。
というか、車に乗り込んでからもう一時間以上も経ってるじゃないか。
「……なんでもっと早く起こしてくれなかったの?」
「道が混んでたからよ」
「ほんとに?」
「な、なによ……私を疑うっていうの?」
「いや、別に……」
長い黒髪を指で絡めながら、僕と視線を合わせない華凜ちゃんに対して思うことは多々あったけれど、まさか40分以上も僕の寝顔を眺めていた、なんてことはあるまい。
「ふあぁ……」
欠伸しながら眺める久しぶりの中富良野温泉は、だいぶ様子が変わっていた。
施設の看板は、記憶にあるよりもさらにボロくなっている。
この施設は基本的に高級なリソートではない。地元の人間が銭湯代わりに利用するような、そんな野暮ったい温泉なのである。
中に入ると、いい加減なお土産屋やらマッサージ機やらゲームコーナーやらが、僕の記憶どおりに配置されていた。
機械類は入れ替わっているのだろう、そんなに古いものはない。だから、細かく見れば色々と違いはある。が、全体の佇まいは五年前そのまんまと言っていい。
その懐かしさに、僕は少し眩量さえ覚えた。
華凜ちゃんが券売機で二人分の入浴券を買い、待ち合わせの時間と場所を確認したあと、僕たちは二手に分かれる。
男湯と刺繍された暖簾の横には青いテープが貼られていて、これより背の高い異性は混浴禁止と書いてあった。
それを見て、そういえば僕は中学に上がる直前まで、華凜ちゃんと遙香を交えた三人でよく一緒のお風呂に入っていたなあ、なんてことを思い出す。
小学校低学年だった当時の僕は、ガキのくせしてお風呂は一人でのんびり浸かりたい派だったから、強引に押し入る二人をなんとかして浴室から追い出そうと、あれこれ策を練ったっけ。
けれど、僕は最終的に華凜ちゃんの『恭子さんを投入』という核の起爆スイッチに等しい脅迫に泣き寝入りするしかなくて。
そして中学に上がる頃になると、華凜ちゃんは次第に腰にバスタオルを巻くようになってきて、いよいよ洒落にならなくなってきた。そこで僕はハンガーストライキならぬ風呂ストライキを断行し、長年に渡る混浴闘争は終焉を迎えた。
……あの頃の僕は誰よりも髪が臭かったと自信がある。
そんな苦い経験を思い起こしながら脱衣所に入ると、僕は手早く服を脱ぎ、早速浴場へと入った。過疎化が進んでいるだけあって、人影はほとんどない。
僕は意味もなく椅子を二つ占拠して体を洗った。体を洗い終わったら、無論、今度は浴槽である。だだっ広い浴槽に、浸かっているのは僕一人だ。
こんな状況でやることは一つしかない。僕は、温泉水泳を存分に楽しんだ。
と、男子10メートル自由形の決勝で、ゴール付近に露天風呂、の表示があることに気付いた。
そうだ、ここには露天風呂もあったのではないか。あ一、でも確かけっこう歩かされるんだよね。この寒いのに……と思わなくはなかったが。
しかし、だがしかしである。冷たい外気の中で入る温泉も、これまた格別である。
僕は労を厭わず露天風呂へ向かう事にした。
外に出ると、流石に空気が冷たい。うひい、と変な声を上げながら、僕は転ばないよう細心の注意を払って露天風呂へ急いだ。
露天風呂には、先客が一人。
この露天風呂は、少し谷っぽくなっている空知川を見下ろす眺望が自慢のはずだが、その人物は女湯との仕切りの竹壁にぴったり張り付いている。
なんだか不気味なお客さんだ、と思いつつ湯船に足を入れるとその水音に先客が激しく反応してこちらを振り返ってきた。
「お邪魔します」
僕が声をかけると、先客はますます気まずそうな顔をした。
「あ、はい、どうぞ……」
先客は、四十がらみの肉体労働者風の男だった。
目が細くて垂れている。どことなく、記憶を刺激される目つきだ。
「ん? あんた……ひょっとして支倉さんとこの……」
どうやらその思いは向こうも同じだったらしい。
「そうですけど……」
向こうはこっちの名前にまでたどり着いているのに、こっちはまだまだ全然思い出せていない。
「ほら、俺だよ。吉村だよ」
「あ、ガソリンスタンドの隣の」
「そうそう。優斗だろ? なんだこっち帰ってたのか」
「大叔父さんのお葬式でね。小父さんは?」
「俺はずっとこっちだよ。しかしまあ暫く見ないうちに立派になって俺も嬉しいよ」
「自分だと全然自覚ないんですけどね」
「謙遜すんなって。優斗もすっかり大人だなあ。うん、うん……」
吉村のおっさん。
僕の父さんの飲み仲間で、昔はよくウチに遊びに来ていたこのおっさんは、感慨深げに何度も領くと、思案げな表情でじろじろと僕を眺め回してくる。
なんだろう、と思っていると。
「大人な優斗に教えてやるよ。ここな、女湯との境なんだけんどな、少し仕掛けがあってな」
と、竹壁の一点を指差す。
一見、何の変哲もないようだが?
「この竹とこの竹を回すとな、丁度覗ける隙間になるんだ。ほれ、見てみ」
僕は、招かれるままに竹壁の元までいざっていくと、その隙間とやらに目を押し当てた。
なんと、無人の女湯露天風呂が丸見えではないか。
「おじさん、これ……」
思わず、吉村のおっさんの方を振り返る。
「すごいだろ? 誰にも秘密だべ」
「う、うん……」
と、誰もいなかったはずの女湯から、若やいだ声が聞こえてくる。
まさか華凜ちゃん?
僕は、慌てて竹壁に視線を戻した。壁の隙間から見た女湯には、なんと華凜ちゃんが丁度入ってきたのだ。
「うぅ……寒いわね……」
彼女の、雪より白い柔肌が白日の下に晒されている。
咄嗟に目を逸らしてみたものの、どうしても覗き穴が気になってしまう。
健全な男子であれば誰しもが目を皿にして見てみたい、そんな秘密のワンダーランドがその奥にある。
ただ、その対象が他でもない華凜ちゃんであることが僕の決心を鈍らせた。
「よ、よう、どうなってるんだ?」
後ろから声を掛けられる。吉村のおっさんだ。
相も変わらずスケべったらしい顔だ。僕は、このスケべったらしい目が、あの華凜ちゃんの裸身の上を這い回る事がどうにも許せない、と思った。
「なんか、若い女の声したろ」
「いや、お婆さんばっかですよ。みんな膝より下に乳首があります」
「そりゃきっついな……」
「僕は大好きですけど」
「……優斗おめ……」
さしもの吉村のおっさんも、ドン引きしている。
逃げ出すまでもう一歩、と言った顔だ。
「老人性斑紋て凄く興奮しません? 茶色いんですよ、黄色人種なのに」
「と、東京じゃそんなんが流行ってんのか……」
「そうですね。って、うおっ、恥ずかしい毛も真っ白ですよ。おじさんも、ほら」
「い、いや、俺は遠慮しとく。じゃ、バレないように楽しめよ……」
さて、吉村のおっさんは去った。となれば、彼を追い払った者の責任として華凜ちゃんの裸身を僕は見守らなければならないだろう。
視線を女湯に戻す。
「――――ッ!」
ふと、華凜ちゃんと目が合った、ような気がした。
僕は咄嗟に覗き穴から離れる。このまま何事も無かったかのように立ち去ってしまえばきっと大丈夫……。
そう思った瞬間、空を切る勢いのいい音が遠方から段々近づいてくるのがわかった。
「あがっ!」
ぐにゃりと鈍痛が頭に走る。
僕の身体はまるで体操選手のように宙を舞った。
そして三回転ジャンプの着地を湯船に決めたところで、僕の記憶は途絶える。
◇
頭がガンガンする。
二日酔いのような感覚だ。いや、なった事は無いけど。
ふと気がつくと、後頭部に何か柔らかい感触があった。
「あっ……」
恐る恐る目を開くと、僕の目の前には華凜ちゃんの顔があった。
「あれ?」
「よかった……気がついて」
「……ここは?」
「休憩室」
「なんで僕ここに……?」
「えっと……あ、まだ動かないほうが」
「あてててて」
身体を起こそうとすると前頭部がズキズキと痛む。
「痛い?」
「……うん、すごく」
「ごめんね……優斗くんがいるなんて知らなかったから」
「え? あ、うん……」
なんで華凜ちゃんが謝る必要があるんだろう、と疑問に感じながらも曖昧に答えてしまった。この頭の痛みと何か関係があるんだろうか。
ただ、こうしてじっとしている分にはやや熱っぽく感じるだけで痛みはさほど感じない。
けれど、はたと気づく。
「……なんとも気恥ずかしいシチュエーションだね」
華凜ちゃんの膝枕。
適度に張りがありそれでいて柔らかい太ももの感触。
「……今更何言ってんのよ」
彼女は僕と目が合うと、少しだけ恥ずかしそうに目線を逸らした。
ううむ。膝枕って、気持ちいいもんなんだなぁ……。
天井を見上げるとやや控えめに突出した二つの山が目に入り、そして先ほど見た一糸纏わぬ姿が嫌でもフラッシュバックしてくる。だけれど、この状況であんまり変な事考えるとボロが出そうで怖い。いい眺めではあるが。
僕は無理やり話題を作る事にした。
「僕どれくらいこうしてた?」
「一時間くらい、かしら」
「確か露天風呂入ってて……」
思い出した。
露天風呂で覗きをしてしまって、ばれそうになったところを何食わぬ顔で出て行こうとして……何かが僕の脳天に直撃した、そこまでは思い出した。
それからどうやらここに運ばれたみたいだ。
「あの、ごめんね……私のせいで」
「何で華凜ちゃんが謝るの?」
「それは私が桶の大遠投を……もしかして判ってない?」
「何が?」
「どうしよう……頭を打ったせいで記憶がおかしくなってるんだわ……」
「なってないなってない」
ただ話が噛み合ってないだけな気がする。
「桶、華凜ちゃんが投げたの?」
「う、うん……」
僕の言葉に力なく額いた。
「まさか優斗くんがいるなんて思ってなかったから……」
「なぁんだ」
「怒ってない?」
「うん、別に。てっきり僕は……」
しまった。
僕が覗いてるのがばれて桶を投げつけられたんだと思ってたが、どうも真犯人は解ってないようだ。
「てっきり……何?」
「あ、いや。なんでも」
「ハッキリしないわね」
「……ていうか何で桶なんか投げたの?」
「覗きよ覗き。まったくどこの誰だか知らないけど油断も隙もありゃしないわよ」
「……そりゃ、難儀でしたね」
まさか覗き魔は僕です、なんて言えるはずもなく、そしてこの剣幕だ。バレたら今度は何が飛んでくるかわかったもんじゃない。
しかしそうとも知らずに親身に僕を介抱してくれる華凜ちゃんに対して、僕は後ろめたい気持ちになる。
「は、はは……」
正直に言ってしまおうなんて根性が僕にあるはずも無く、ただその滑稽さに苦笑いしてしまう。
「何暢気に笑ってるのよ……。心配したんだからね」
「ごめんごめん。ありがと」
「別に……お礼言われるほどの事じゃないし、私が悪いわけだし……」
「それでも、僕のためにこうしてくれてるんでしょ」
「……それはそうだけど」
「なんだかそれが嬉しかったから」
「なによ、そんなににやけた顔して」
「華凜ちゃんでも、こういうことするんだなって」
「失礼ね。ほっとけないじゃない、気絶した人間を」
「人を気絶させるような剛球……いや、剛桶を投げた人が言うセリフかな、それ」
「もう、だからそれは謝ってるじゃない。それに……」
「それに?」
「優斗くんじゃなかったら……こんなことしないわよ」
なんとも意味深な言葉だった。
その真偽を確かめてみたくはあったけど、言葉には出せなかった。
ただいつもと違う、少し照れたような仕草が、僕の考えを一層惑わせた。
「……とりあえず、帰ろっか」
「……そうね」
彼女が小さく頷いたのを見て、僕はそっと上体を起こした。
僕はまだ、自分の気持ちが何処にあるのか、分からない。
答えを出すには、まだ少し早いかなと思った。




