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9/21

ダイアウルフ変異種 前編

最初に浮かんだのは、行きたくない、だった。


左腕は、吊ったままだ。えぐれた傷はふさがりかけているが、肘から先には、まだ力が入らない。短剣は、右手一本で振るうしかない。


それに、ハンナさんが、村の男衆を集めてくれる。松明を持った大人が、何人も行く。俺が行かなくても。


俺みたいなけが人が、一人で飛びこんでいったって、足手まといになるだけだ。


そうだ。待てばいい。待つのが、正しい。


――正しい、か。


隣の席で、佐伯が部長に詰められていた時も、俺は、そう考えていた。


俺が口を出したって、何も変わらない。かえって、ややこしくなるだけだ。だから、黙っているのが、正しい。


そうやって、正しいふりをして、見ないふりをした。


ポポのお母さんが、食堂の扉にすがりついて、泣いていた。声にならない声で、ポポの名前を、何度も、何度も呼んでいた。


その声が、耳から、離れなかった。


俺は、壁に掛けてあったカイの短剣を、右手でひっつかみ、食堂の扉から飛び出した。


「カイ! 待ちな!」


ハンナさんの声が、背中に飛んでくる。


「村の男衆を集めるから! 一人で行くんじゃないよ! その腕で!」


わかっている。一人で行くなんて、正気じゃない。


でも、男たちが集まって、松明を用意して、森に入るまで、どれだけかかる。


その間に、ポポは。


あの、口のまわりを脂でてかてかにして笑う、尻尾の子は。


「すぐ戻ります!」


振り返らずに叫んで、俺は走った。


食堂の窓辺で、じいさんが、ゆっくりと椅子から立ち上がるのが、視界の端に見えた。


 ◇


月の明るい夜だった。


白い月と青い月が、二つそろって、森の入口を照らしている。


羊小屋の前を走り抜ける。戸が、半分開いたまま、きいきいと揺れていた。


ぬかるんだ土の上に、小さな足跡が、点々と森へ続いている。


ポポの足跡だ。その横に、もっと小さな、蹄の跡。


そして、それを追うように、いくつもの、大きな魔物の足跡。


俺は、森へ飛びこんだ。


木々の間を、全力で駆ける。


この体は軽い。夜目も利く。月明かりだけで、木の根も、倒木も、はっきりと見える。夜な夜な森を走り回っていた、カイの体だ。


走りながら、頭の中で、確かめる。


かくれんぼで知った、隠密の決まり。


誰にも見られていない時でないと、消えられない。


声を出したり、大きく動いたりすると、解ける。


ゆっくりなら、歩いても消えたままでいられる。


つまり、ダイアウルフの群れに近づくまでは、全力で走っていい。


でも、近づいたら、そこからは、ゆっくりだ。


どんなに焦っていても。どんなに、ポポが危なくても。


ゆっくり、だ。


 ◇


遠吠えが、すぐ近くで聞こえた。


俺は、足を止めた。


大木の陰に身を寄せ、背中を丸める。肩をすぼめる。


呼吸を、浅く、細く、長く。


気配を、消す。


体のまわりに、薄い膜が張る。月明かりの森が、一段、暗く沈んだ。


木の陰から、そっと、前をのぞいた。


少し開けた場所に、太い樫の木が一本、立っていた。


その根元を、ダイアウルフたちが取り囲んでいた。


一頭、二頭、三頭……七頭。


ダイアウルフ。赤い目をした、大きな狼の魔物だ。どれも、大型犬より、さらに一回り大きい。バイクくらいあるだろうか。月明かりの中で、その目が、赤く光っていた。


ダイアウルフたちは、樫の木の根元をぐるぐると回りながら、上を見上げて、うなり声をあげている。


その視線の先。


樫の木の、低い枝の上に、小さな影があった。


ポポだった。


枝にしがみつき、片腕で、白い子羊を抱えている。メルだ。


ポポの尻尾は、ぶわっと膨らんだまま、ぶるぶると震えていた。耳は、ぺたんと頭に張りついている。


声は、出していなかった。


泣き声も、悲鳴も、こらえている。きっと、声を出したら、もっと怖いことになると、本能でわかっているのだ。


えらいぞ、ポポ。


すぐ行く。


その時、ダイアウルフたちの輪の外側で、何かが動いた。


茂みの奥から、ゆっくりと、一頭のダイアウルフが姿を現した。


でかい。


他のダイアウルフの、倍はある。

一際でかいダイアウルフ。こいつも変異しているのか。


肩の高さが、俺の身長くらいある。灰色の毛は、背中のところだけが、針のように逆立っている。口元からのぞく牙は、俺の指より長い。


そして、その目。


他のダイアウルフの赤い目が、焚き火の燃えさしなら、こいつの目は、溶けた鉄だった。


北の沢で見た、あの大きな足跡の主。


群れの、頭だ。


頭は、樫の木を見上げ、低く、喉を鳴らした。


それを合図にしたように、ダイアウルフたちが、いっせいに木の幹に飛びかかった。


爪が、樹皮をがりがりと削る。何頭かは、後ろ足で立ち上がり、ポポのいる枝に向かって、牙をむいて跳び上がる。


枝が、揺れた。


ポポの小さな悲鳴が、一瞬だけ、漏れた。


 ◇


俺は、大木の陰から、一歩、踏み出した。


息を殺したまま。


ゆっくり。


ゆっくり、だ。


ダイアウルフの輪に向かって、歩いていく。


一歩。


一番手前のダイアウルフが、木の幹に爪を立てている。その尻尾が、俺の膝をかすめそうなほど、近い。


ダイアウルフは、気づかない。


二歩。


別のダイアウルフが、くるりと振り返った。


赤い目が、こちらを向く。


俺は、動きを止めた。息も、止めた。


赤い目が、俺の顔の、ほんの少し横を見ている。


見えていない。


ダイアウルフは、鼻をひくつかせ、首をかしげて、また木のほうへ向き直った。


……心臓に悪い。


三歩。四歩。


ダイアウルフとダイアウルフの間を、すり抜ける。


獣の匂い。荒い息づかい。爪が樹皮を削る音。牙が空を噛む音。


そのすべてが、手を伸ばせば届く距離にある。


なのに、どのダイアウルフも、俺に気づかない。


今は、ありがたくて、涙が出そうだった。


五歩。


樫の木の幹に、手が届いた。


その時、ふと、視線を感じた。


ダイアウルフの、ではない。


もっと遠く。俺が来た方向の、森の入口のほう。


俺は、木の幹に手をついたまま、ゆっくりと振り返った。


月明かりの中、大木の陰に、人影が一つ、立っていた。


白いひげ。長い杖。


じいさんだった。


いつの間に、ついてきていたのだろう。俺は、全力で走ってきたのに。


じいさんは、杖を握りしめ、鋭い目で、ダイアウルフの群れを見渡していた。


その目が、樫の木の根元を見る。


俺のいる場所を、見る。


そして、素通りした。


じいさんの視線は、俺の上を通り過ぎて、ダイアウルフたちの間を、何かを探すように、せわしなく行き来し始めた。


眉間に、深いしわが寄っている。


……見失っている。


たぶん、暗い森の中で、走る俺の背中を一度見失ったのだ。その間に、俺は息を殺していた。一度、目から外れてしまえば、もう、じいさんの目にも、俺は映らない。


あの、何でも見抜くような目の、じいさんが。


俺のいる場所を、見えていない。


 ◇


俺は、樫の木の幹に、右手をかけた。


左腕は、使えない。力の入らない腕は、吊った布の中で、ただの重りだ。


右手と、両足だけで、登るしかない。


大きく動けば、気づかれる。だから、息を殺したまま、幹のくぼみに、右手の指を一本ずつかけていく。樹皮で、手のひらの皮が、ずるりとこすれた。痛みが、肘まで走る。


膝と足の裏で、幹をはさむ。体を、持ち上げる。また、右手を伸ばす。


一頭のダイアウルフが、真下で跳び上がった。牙が、俺のかかとのすぐ下で、がちん、と空を噛んだ。


ダイアウルフの熱い息が、足首にかかった。


全身の毛穴が、いっせいに開いた。


腕の一本でも、足の一本でも、あと指一本分、下にあったら。あの牙は、骨ごと、肉を噛みちぎっていった。


心臓が、肋骨の内側を、拳で叩いている。息が、勝手に荒くなる。荒くなったら、解ける。


奥歯を噛みしめて、息を、細く、細く、吐いた。


ポポのいる枝まで、あと少し。


ポポは、ぎゅっと目をつぶって、メルを抱きしめていた。


俺は、そっと、ポポの肩に手を置いた。


ポポの体が、びくんと跳ねた。


ぱっと目を開け、目の前の俺を見て、口を大きく開ける。


叫ぶ。


俺は、とっさに、その口を手でふさいだ。


人差し指を、自分の唇に当てる。


しーっ。


ポポの目が、まんまるに見開かれていた。涙で、ぐしゃぐしゃだった。


それから、こくこくと、小さくうなずいた。


俺の隠密の膜も消えた。


俺は、口をふさいでいた手を、そっと離した。


ポポが、小さな声で言う。


――にいちゃん。


俺は、うなずいた。


「もう大丈夫だ」


何も根拠はないが、俺はそう言ってポポの頭を、くしゃっとなでた。


 ◇


さて。


ここからが、問題だった。


ポポとメルを連れて、どうやって、ここから逃げるか。


俺は、消えることができる。でも、ポポは消えられない。メルも消えられない。下りれば、ダイアウルフたちはポポに飛びかかる。


なら、下りなければいい。


ダイアウルフは、木に登れない。ここでポポを抱えて、じっと待てばいい。そのうち、ハンナさんが集めてくれた村の男衆が、松明を持って来てくれる。


手帳の一行が、頭に浮かんだ。


『光に弱い』


松明さえあれば、群れは散る。それまで、この枝の上で、息を殺していればいい。


そう、思った。


 ◇


ダイアウルフたちの輪の外で、じっと座っていたリーダの大狼が、ゆっくりと立ち上がった。


大狼は、樫の木の根元まで歩いてくると、幹に、鼻を押しつけた。


ふん、ふん、と。


俺が手をかけたところを。足をかけたところを。鼻先が、ゆっくりと、幹を上っていく。俺が登ってきた道筋を、そのまま、なぞるように。


大狼が、顔を上げた。


溶けた鉄のような目が、まっすぐに、俺を見た。


ポポではない。ポポの隣の、見えていないはずの、俺を。


その瞬間、理解した。


こいつは、目で見ているんじゃない。鼻で、俺を見ている。


隠密は、姿と気配を消す。でも、匂いまでは、消せない。


大狼が、吠えた。


そして、樫の幹に、頭から、体当たりした。


どん、と、木全体が揺れた。


もう一度。どん。


枝が、大きくしなる。ポポが、俺の服にしがみついて、声にならない声をあげた。


三度目。


みしり、と、足元で嫌な音がした。


俺たちの乗っている枝の付け根に、白い裂け目が走っていた。


低い枝だ。もともと、子ども一人と子羊一頭を乗せるのが精一杯の太さだった。そこに、俺の体重が加わっている。


見上げた。次の枝は、ずっと上だ。片手で、ポポを抱えて、登れる高さじゃない。


どん。


裂け目が、みしみしと広がる。


この枝は、落ちる。


落ちるなら、どっちへ逃げるかだけは、今、決めておく。


月を見た。白い月が、あっち。村は、南だ。


村のほうへ。人のいるほうへ。ハンナさんが男衆を集めている。松明を持った大人たちが、こっちへ向かっているはずだ。


そこまで、走れば。


「ポポ、しっかりつかまってろ!」


ポポが、メルを胸と俺の背中の間にはさんで、両腕で、俺の首にしがみついた。


大狼が、もう一度、幹に体当たりをした。


枝が、根元から、折れた。


 ◇


落ちた。


枝ごと、ダイアウルフたちの真ん中に。


葉と小枝の塊が、群れの上に、ばさりと降り注いだ。ダイアウルフたちが、ぎゃん、と悲鳴をあげて、四方に飛びのく。


一瞬だけ、輪が、崩れた。


着地の衝撃で、吊った左腕が、体と地面の間で潰れた。


声にならない声が、喉から漏れた。視界が、白く、ちかちかと点滅する。


立て。


立って、南へ走れ。


崩れた輪の隙間を、俺は、転がるように駆け抜けた。


背後で、ダイアウルフたちの吠え声が、怒涛のように追ってくる。


背中のポポが重い。ポポの腕が首に食いこんで、息が苦しい。左腕が、走るたびに揺れて、骨の中で、何かがきしむ。


一頭が、横から飛びかかってきた。


とっさに身をかがめる。牙が、頭の上をかすめていく。


もう一頭。今度は、低く。足元から。


よけきれなかった。


右のふくらはぎに、熱い杭を打ちこまれたような痛みが走った。


噛まれた。


牙が肉に食いこんだまま、ダイアウルフが首を振る。引きずり倒される。


背中から、地面に叩きつけられた。ポポが、俺の背中と地面の間で、悲鳴をあげた。


右手が、勝手に動いた。


短剣を、逆手に。


狙いなんか、なかった。光の点も、見えなかった。ダイアウルフの顔があるあたりに、めちゃくちゃに、刃を突き出した。


三度目に、手応えがあった。


ダイアウルフが、きゃいんと鳴いて、口を離した。片目から黒い血を流して、茂みの奥へ転がっていく。


立ち上がる。右足に体重をかけた瞬間、膝から崩れそうになった。歯を食いしばって、こらえた。ふくらはぎから、温かいものが、靴の中まで流れこんでくる。


「兄ちゃん、血……!」


「いいから、つかまってろ」


走った。


いや。走っているつもりで、足を引きずっていた。


木々が、急に途切れた。


森の外れの、草地だった。


膝の高さまで伸びた草が、月明かりに、銀色に波打っている。この先のゆるい丘を越えれば、村の灯りが見えるはずだ。


あと、少し。


でも、見晴らしのいい草地は、ダイアウルフの狩り場だった。


左右の草が、ざざざ、と割れた。


ダイアウルフたちが、俺たちを追い越して、前に回りこんでくる。半円を描くように。それから、ぐるりと、輪になって。


足が、止まった。


止めるしかなかった。


背中で、ポポが、声を殺して泣いていた。


最後に、大狼が、ゆっくりと、森の暗がりから歩み出てきた。


溶けた鉄の色をした目が、俺を見据える。前足が、低く沈む。


俺は、短剣を構えようとした。


右手が、震えて、うまく上がらなかった。布が、血と汗で、ぐっしょりと濡れていた。


大狼が、正面から俺に向かって跳んだ。


速かった。


目の前に、牙が迫る。


指より長い牙が、何本も。その奥の、赤黒い喉。生臭い、腐った肉の匂い。


大狼の顎が、大きく開いた。


俺の喉に、向かって。


――ここで、終わるのか。


棺の中で目を覚まして、まだ、十日も経っていないのに。


ひなた。


ごめん。


その時。


ごきん、と、鈍い音がした。


頭の巨体が、横に吹き飛んだ。


草の上を転がる。すぐに、跳ね起きて、うなる。


俺の前に、誰かが、立っていた。


月明かりに、白いひげが光った。


じいさんだった。


旅装束の裾に、ダイアウルフの血が飛んでいた。ここに来るまでに、何頭かを相手にしてきたのだ。


それなのに、傷一つない。息も、まるで乱れていなかった。


手には、杖が、握られていた。さっき、ダイアウルフの頭を殴り飛ばした杖だ。


じいさんは、一度だけ、俺のほうを振り返った。


血まみれの右足と、吊った左腕と、震える右手を、順に見た。


「……よう走った、若いの。村のほうへ逃げたのは、正しい」


そう言って、にやりと笑った。


それから、ダイアウルフたちのほうへ向き直り、杖の握りを、ひねった。


しゃらん、と。


澄んだ金属の音がした。


杖の中から、細く、まっすぐな刃が、月の光を浴びて、するりと抜き出された。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます!


もし少しでも「面白い!」「続きが読みたい!」と思っていただけましたら、


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作者のモチベーションが爆上がりし、更新速度が上がります!


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次回は明日19時頃に更新予定です。引き続きよろしくお願いいたします!

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