ダイアウルフ変異種 前編
最初に浮かんだのは、行きたくない、だった。
左腕は、吊ったままだ。えぐれた傷はふさがりかけているが、肘から先には、まだ力が入らない。短剣は、右手一本で振るうしかない。
それに、ハンナさんが、村の男衆を集めてくれる。松明を持った大人が、何人も行く。俺が行かなくても。
俺みたいなけが人が、一人で飛びこんでいったって、足手まといになるだけだ。
そうだ。待てばいい。待つのが、正しい。
――正しい、か。
隣の席で、佐伯が部長に詰められていた時も、俺は、そう考えていた。
俺が口を出したって、何も変わらない。かえって、ややこしくなるだけだ。だから、黙っているのが、正しい。
そうやって、正しいふりをして、見ないふりをした。
ポポのお母さんが、食堂の扉にすがりついて、泣いていた。声にならない声で、ポポの名前を、何度も、何度も呼んでいた。
その声が、耳から、離れなかった。
俺は、壁に掛けてあったカイの短剣を、右手でひっつかみ、食堂の扉から飛び出した。
「カイ! 待ちな!」
ハンナさんの声が、背中に飛んでくる。
「村の男衆を集めるから! 一人で行くんじゃないよ! その腕で!」
わかっている。一人で行くなんて、正気じゃない。
でも、男たちが集まって、松明を用意して、森に入るまで、どれだけかかる。
その間に、ポポは。
あの、口のまわりを脂でてかてかにして笑う、尻尾の子は。
「すぐ戻ります!」
振り返らずに叫んで、俺は走った。
食堂の窓辺で、じいさんが、ゆっくりと椅子から立ち上がるのが、視界の端に見えた。
◇
月の明るい夜だった。
白い月と青い月が、二つそろって、森の入口を照らしている。
羊小屋の前を走り抜ける。戸が、半分開いたまま、きいきいと揺れていた。
ぬかるんだ土の上に、小さな足跡が、点々と森へ続いている。
ポポの足跡だ。その横に、もっと小さな、蹄の跡。
そして、それを追うように、いくつもの、大きな魔物の足跡。
俺は、森へ飛びこんだ。
木々の間を、全力で駆ける。
この体は軽い。夜目も利く。月明かりだけで、木の根も、倒木も、はっきりと見える。夜な夜な森を走り回っていた、カイの体だ。
走りながら、頭の中で、確かめる。
かくれんぼで知った、隠密の決まり。
誰にも見られていない時でないと、消えられない。
声を出したり、大きく動いたりすると、解ける。
ゆっくりなら、歩いても消えたままでいられる。
つまり、ダイアウルフの群れに近づくまでは、全力で走っていい。
でも、近づいたら、そこからは、ゆっくりだ。
どんなに焦っていても。どんなに、ポポが危なくても。
ゆっくり、だ。
◇
遠吠えが、すぐ近くで聞こえた。
俺は、足を止めた。
大木の陰に身を寄せ、背中を丸める。肩をすぼめる。
呼吸を、浅く、細く、長く。
気配を、消す。
体のまわりに、薄い膜が張る。月明かりの森が、一段、暗く沈んだ。
木の陰から、そっと、前をのぞいた。
少し開けた場所に、太い樫の木が一本、立っていた。
その根元を、ダイアウルフたちが取り囲んでいた。
一頭、二頭、三頭……七頭。
ダイアウルフ。赤い目をした、大きな狼の魔物だ。どれも、大型犬より、さらに一回り大きい。バイクくらいあるだろうか。月明かりの中で、その目が、赤く光っていた。
ダイアウルフたちは、樫の木の根元をぐるぐると回りながら、上を見上げて、うなり声をあげている。
その視線の先。
樫の木の、低い枝の上に、小さな影があった。
ポポだった。
枝にしがみつき、片腕で、白い子羊を抱えている。メルだ。
ポポの尻尾は、ぶわっと膨らんだまま、ぶるぶると震えていた。耳は、ぺたんと頭に張りついている。
声は、出していなかった。
泣き声も、悲鳴も、こらえている。きっと、声を出したら、もっと怖いことになると、本能でわかっているのだ。
えらいぞ、ポポ。
すぐ行く。
その時、ダイアウルフたちの輪の外側で、何かが動いた。
茂みの奥から、ゆっくりと、一頭のダイアウルフが姿を現した。
でかい。
他のダイアウルフの、倍はある。
一際でかいダイアウルフ。こいつも変異しているのか。
肩の高さが、俺の身長くらいある。灰色の毛は、背中のところだけが、針のように逆立っている。口元からのぞく牙は、俺の指より長い。
そして、その目。
他のダイアウルフの赤い目が、焚き火の燃えさしなら、こいつの目は、溶けた鉄だった。
北の沢で見た、あの大きな足跡の主。
群れの、頭だ。
頭は、樫の木を見上げ、低く、喉を鳴らした。
それを合図にしたように、ダイアウルフたちが、いっせいに木の幹に飛びかかった。
爪が、樹皮をがりがりと削る。何頭かは、後ろ足で立ち上がり、ポポのいる枝に向かって、牙をむいて跳び上がる。
枝が、揺れた。
ポポの小さな悲鳴が、一瞬だけ、漏れた。
◇
俺は、大木の陰から、一歩、踏み出した。
息を殺したまま。
ゆっくり。
ゆっくり、だ。
ダイアウルフの輪に向かって、歩いていく。
一歩。
一番手前のダイアウルフが、木の幹に爪を立てている。その尻尾が、俺の膝をかすめそうなほど、近い。
ダイアウルフは、気づかない。
二歩。
別のダイアウルフが、くるりと振り返った。
赤い目が、こちらを向く。
俺は、動きを止めた。息も、止めた。
赤い目が、俺の顔の、ほんの少し横を見ている。
見えていない。
ダイアウルフは、鼻をひくつかせ、首をかしげて、また木のほうへ向き直った。
……心臓に悪い。
三歩。四歩。
ダイアウルフとダイアウルフの間を、すり抜ける。
獣の匂い。荒い息づかい。爪が樹皮を削る音。牙が空を噛む音。
そのすべてが、手を伸ばせば届く距離にある。
なのに、どのダイアウルフも、俺に気づかない。
今は、ありがたくて、涙が出そうだった。
五歩。
樫の木の幹に、手が届いた。
その時、ふと、視線を感じた。
ダイアウルフの、ではない。
もっと遠く。俺が来た方向の、森の入口のほう。
俺は、木の幹に手をついたまま、ゆっくりと振り返った。
月明かりの中、大木の陰に、人影が一つ、立っていた。
白いひげ。長い杖。
じいさんだった。
いつの間に、ついてきていたのだろう。俺は、全力で走ってきたのに。
じいさんは、杖を握りしめ、鋭い目で、ダイアウルフの群れを見渡していた。
その目が、樫の木の根元を見る。
俺のいる場所を、見る。
そして、素通りした。
じいさんの視線は、俺の上を通り過ぎて、ダイアウルフたちの間を、何かを探すように、せわしなく行き来し始めた。
眉間に、深いしわが寄っている。
……見失っている。
たぶん、暗い森の中で、走る俺の背中を一度見失ったのだ。その間に、俺は息を殺していた。一度、目から外れてしまえば、もう、じいさんの目にも、俺は映らない。
あの、何でも見抜くような目の、じいさんが。
俺のいる場所を、見えていない。
◇
俺は、樫の木の幹に、右手をかけた。
左腕は、使えない。力の入らない腕は、吊った布の中で、ただの重りだ。
右手と、両足だけで、登るしかない。
大きく動けば、気づかれる。だから、息を殺したまま、幹のくぼみに、右手の指を一本ずつかけていく。樹皮で、手のひらの皮が、ずるりとこすれた。痛みが、肘まで走る。
膝と足の裏で、幹をはさむ。体を、持ち上げる。また、右手を伸ばす。
一頭のダイアウルフが、真下で跳び上がった。牙が、俺のかかとのすぐ下で、がちん、と空を噛んだ。
ダイアウルフの熱い息が、足首にかかった。
全身の毛穴が、いっせいに開いた。
腕の一本でも、足の一本でも、あと指一本分、下にあったら。あの牙は、骨ごと、肉を噛みちぎっていった。
心臓が、肋骨の内側を、拳で叩いている。息が、勝手に荒くなる。荒くなったら、解ける。
奥歯を噛みしめて、息を、細く、細く、吐いた。
ポポのいる枝まで、あと少し。
ポポは、ぎゅっと目をつぶって、メルを抱きしめていた。
俺は、そっと、ポポの肩に手を置いた。
ポポの体が、びくんと跳ねた。
ぱっと目を開け、目の前の俺を見て、口を大きく開ける。
叫ぶ。
俺は、とっさに、その口を手でふさいだ。
人差し指を、自分の唇に当てる。
しーっ。
ポポの目が、まんまるに見開かれていた。涙で、ぐしゃぐしゃだった。
それから、こくこくと、小さくうなずいた。
俺の隠密の膜も消えた。
俺は、口をふさいでいた手を、そっと離した。
ポポが、小さな声で言う。
――にいちゃん。
俺は、うなずいた。
「もう大丈夫だ」
何も根拠はないが、俺はそう言ってポポの頭を、くしゃっとなでた。
◇
さて。
ここからが、問題だった。
ポポとメルを連れて、どうやって、ここから逃げるか。
俺は、消えることができる。でも、ポポは消えられない。メルも消えられない。下りれば、ダイアウルフたちはポポに飛びかかる。
なら、下りなければいい。
ダイアウルフは、木に登れない。ここでポポを抱えて、じっと待てばいい。そのうち、ハンナさんが集めてくれた村の男衆が、松明を持って来てくれる。
手帳の一行が、頭に浮かんだ。
『光に弱い』
松明さえあれば、群れは散る。それまで、この枝の上で、息を殺していればいい。
そう、思った。
◇
ダイアウルフたちの輪の外で、じっと座っていたリーダの大狼が、ゆっくりと立ち上がった。
大狼は、樫の木の根元まで歩いてくると、幹に、鼻を押しつけた。
ふん、ふん、と。
俺が手をかけたところを。足をかけたところを。鼻先が、ゆっくりと、幹を上っていく。俺が登ってきた道筋を、そのまま、なぞるように。
大狼が、顔を上げた。
溶けた鉄のような目が、まっすぐに、俺を見た。
ポポではない。ポポの隣の、見えていないはずの、俺を。
その瞬間、理解した。
こいつは、目で見ているんじゃない。鼻で、俺を見ている。
隠密は、姿と気配を消す。でも、匂いまでは、消せない。
大狼が、吠えた。
そして、樫の幹に、頭から、体当たりした。
どん、と、木全体が揺れた。
もう一度。どん。
枝が、大きくしなる。ポポが、俺の服にしがみついて、声にならない声をあげた。
三度目。
みしり、と、足元で嫌な音がした。
俺たちの乗っている枝の付け根に、白い裂け目が走っていた。
低い枝だ。もともと、子ども一人と子羊一頭を乗せるのが精一杯の太さだった。そこに、俺の体重が加わっている。
見上げた。次の枝は、ずっと上だ。片手で、ポポを抱えて、登れる高さじゃない。
どん。
裂け目が、みしみしと広がる。
この枝は、落ちる。
落ちるなら、どっちへ逃げるかだけは、今、決めておく。
月を見た。白い月が、あっち。村は、南だ。
村のほうへ。人のいるほうへ。ハンナさんが男衆を集めている。松明を持った大人たちが、こっちへ向かっているはずだ。
そこまで、走れば。
「ポポ、しっかりつかまってろ!」
ポポが、メルを胸と俺の背中の間にはさんで、両腕で、俺の首にしがみついた。
大狼が、もう一度、幹に体当たりをした。
枝が、根元から、折れた。
◇
落ちた。
枝ごと、ダイアウルフたちの真ん中に。
葉と小枝の塊が、群れの上に、ばさりと降り注いだ。ダイアウルフたちが、ぎゃん、と悲鳴をあげて、四方に飛びのく。
一瞬だけ、輪が、崩れた。
着地の衝撃で、吊った左腕が、体と地面の間で潰れた。
声にならない声が、喉から漏れた。視界が、白く、ちかちかと点滅する。
立て。
立って、南へ走れ。
崩れた輪の隙間を、俺は、転がるように駆け抜けた。
背後で、ダイアウルフたちの吠え声が、怒涛のように追ってくる。
背中のポポが重い。ポポの腕が首に食いこんで、息が苦しい。左腕が、走るたびに揺れて、骨の中で、何かがきしむ。
一頭が、横から飛びかかってきた。
とっさに身をかがめる。牙が、頭の上をかすめていく。
もう一頭。今度は、低く。足元から。
よけきれなかった。
右のふくらはぎに、熱い杭を打ちこまれたような痛みが走った。
噛まれた。
牙が肉に食いこんだまま、ダイアウルフが首を振る。引きずり倒される。
背中から、地面に叩きつけられた。ポポが、俺の背中と地面の間で、悲鳴をあげた。
右手が、勝手に動いた。
短剣を、逆手に。
狙いなんか、なかった。光の点も、見えなかった。ダイアウルフの顔があるあたりに、めちゃくちゃに、刃を突き出した。
三度目に、手応えがあった。
ダイアウルフが、きゃいんと鳴いて、口を離した。片目から黒い血を流して、茂みの奥へ転がっていく。
立ち上がる。右足に体重をかけた瞬間、膝から崩れそうになった。歯を食いしばって、こらえた。ふくらはぎから、温かいものが、靴の中まで流れこんでくる。
「兄ちゃん、血……!」
「いいから、つかまってろ」
走った。
いや。走っているつもりで、足を引きずっていた。
木々が、急に途切れた。
森の外れの、草地だった。
膝の高さまで伸びた草が、月明かりに、銀色に波打っている。この先のゆるい丘を越えれば、村の灯りが見えるはずだ。
あと、少し。
でも、見晴らしのいい草地は、ダイアウルフの狩り場だった。
左右の草が、ざざざ、と割れた。
ダイアウルフたちが、俺たちを追い越して、前に回りこんでくる。半円を描くように。それから、ぐるりと、輪になって。
足が、止まった。
止めるしかなかった。
背中で、ポポが、声を殺して泣いていた。
最後に、大狼が、ゆっくりと、森の暗がりから歩み出てきた。
溶けた鉄の色をした目が、俺を見据える。前足が、低く沈む。
俺は、短剣を構えようとした。
右手が、震えて、うまく上がらなかった。布が、血と汗で、ぐっしょりと濡れていた。
大狼が、正面から俺に向かって跳んだ。
速かった。
目の前に、牙が迫る。
指より長い牙が、何本も。その奥の、赤黒い喉。生臭い、腐った肉の匂い。
大狼の顎が、大きく開いた。
俺の喉に、向かって。
――ここで、終わるのか。
棺の中で目を覚まして、まだ、十日も経っていないのに。
ひなた。
ごめん。
その時。
ごきん、と、鈍い音がした。
頭の巨体が、横に吹き飛んだ。
草の上を転がる。すぐに、跳ね起きて、うなる。
俺の前に、誰かが、立っていた。
月明かりに、白いひげが光った。
じいさんだった。
旅装束の裾に、ダイアウルフの血が飛んでいた。ここに来るまでに、何頭かを相手にしてきたのだ。
それなのに、傷一つない。息も、まるで乱れていなかった。
手には、杖が、握られていた。さっき、ダイアウルフの頭を殴り飛ばした杖だ。
じいさんは、一度だけ、俺のほうを振り返った。
血まみれの右足と、吊った左腕と、震える右手を、順に見た。
「……よう走った、若いの。村のほうへ逃げたのは、正しい」
そう言って、にやりと笑った。
それから、ダイアウルフたちのほうへ向き直り、杖の握りを、ひねった。
しゃらん、と。
澄んだ金属の音がした。
杖の中から、細く、まっすぐな刃が、月の光を浴びて、するりと抜き出された。
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