じいさんの見回り
雨は夜のうちに上がった。
朝の食堂に下りると、じいさんが旅装束のまま杖を手に待っていた。
「カイ。今日は、ちょっと付き合え」
「え?」
「見回りだ。お前さん、記憶がなくても今までどおり村の見回りをするつもりなんだろう?」
どきりとした。
なんで、それを。
「顔に書いてある」
じいさんは、にやりと笑った。
顔だと?書いた覚えはないが。
クレアにせよ、この家の人たちは顔を読むのがうますぎる。
「それに、雨上がりの朝は、魔物の足跡がよく残る。見回りには、一番いい日だ。ついでに、頭を打って忘れたことを、思い出させてやろう」
「でも、俺、腕が――」
「見回りに使うのは、腕ではない。目と耳と、足だ」
じいさんは、首から吊った俺の左腕をちらりと見た。
「それに、その腕で無理をせんように、見張る者がおったほうがいい」
断る理由が思いつかなかった。
いや、正確には断る理由はいくらでもあった。でも、どれを口にしても怪しまれる気がした。
「……よろしくお願いします」
十五度のお辞儀をした。
じいさんはそれを見て、ほんの少しだけ眉を動かした。
◇
雨上がりの森は、空気が澄んでいた。
葉っぱの先に残った雫が、朝日を受けてきらきらと光っている。足元の土はしっとりと湿っていて、歩くたびにふかふかと沈んだ。
じいさんは、杖をつきながらすいすいと進んでいく。
老人の足取りではなかった。木の根も、ぬかるみも、まるで見えている地図をなぞるように、迷いなく避けていく。足音が、ほとんどしない。
ゆうべ、屋根裏の床をほとんど鳴らさなかった、あの足運びだ。
「カイ。そこ、止まれ」
「え?」
止まろうとして、踏み出しかけた右足を下ろした、その瞬間。
足首に、何かが巻きついた。
ぐいっと引っぱられて、俺は見事に尻もちをついた。
地面についた衝撃が、吊った左腕に響いた。一瞬、息が止まった。
足首に、細い縄がきつく食いこんでいる。
「……罠?」
「獣用のくくり罠だ。村の猟師が仕掛けたもんだな」
じいさんはしゃがみこんで、縄の結び目をあっという間にほどいた。
「草の倒れ方が、そこだけ不自然だったろう。以前のカイなら、三歩手前で気づいて、またいで通った」
「……すみません。気づきませんでした」
「謝ることはない。頭を打ったんだからな」
じいさんは、穏やかに笑った。
でも、その目は別のことを考えているようだった。
もっとしっかり下を見て歩こう。
俺は前世で、部長と目が合わないように、自分の靴先だけを見て歩いても目的地に着くスキルを身につけている。
◇
そのあとも散々だった。
「この足跡、どっちへ向かったと思う」
ぬかるみに残った、鹿の足跡。
「えーと……こっち?」
「逆だ。蹄の深いほうが、前だ。カイなら、足跡を見ただけで、何刻前に通ったかまで言い当てた」
「……すみません。逆でしたか」
「この木の皮の傷は、何がつけた」
「……アーマーベア、ですか?」
「ビッグボアだ。牙を研いだ跡だ。アーマーベアなら、もっと高いところに爪痕を残す」
「……すみません。勉強になります」
すみませんを、何回言っただろう。
じいさんは俺が間違えるたびに、穏やかに正解を教えてくれた。
そして、そのたびに「以前のカイなら」と付け加えた。
以前のカイなら、三歩手前で気づいた。以前のカイなら、何刻前に通ったかまで言い当てた。以前のカイなら。以前のカイなら。
一つ言われるたびに、俺と、本物のカイとの距離が、はっきりしていく気がした。
◇
森の中の少し開けた場所で、じいさんは足を止めた。
倒木に腰を下ろし、背負い袋から手のひらほどの小さな木箱を取り出す。
鉄の錠前がついていた。
「休憩がてら、これを開けてみろ」
木箱と一緒に細い針金を二本、俺に手渡した。
「鍵開けだ。以前のカイは、わしが教えた最初の日に、これを開けた。目をつぶってでも開けられるようになったのは、十二の頃だったかな」
首から吊った左腕は、まだ肘から先にほとんど力が入らない。それでも、指先だけはかすかに動く。右手の二本の指で針金をつまんだ。
針金を錠前の鍵穴に差しこむ。
……どうすればいいんだ、これ。
映画では、怪盗がかちゃかちゃやって三秒で開けていた。
針金を、奥まで押しこむ。回す。引っかける。
何も起きない。
角度を変える。もう一本の針金を差しこむ。ぐりぐりと動かす。
何も起きない。
額に、汗がにじんできた。
じいさんは、黙って俺の手元を見ている。
「……すみません。わかりません」
「そうか」
じいさんは、それだけ言って、腰の水筒に手を伸ばした。俺から、ふっと視線が外れる。
俺はため息をついて、ぼんやりと錠前を見下ろした。
もうどうでもいい気分だった。
考えるのをやめて、指先でなんとなく針金をいじる。
その時だった。
指が、勝手に動いた。
一本目の針金で、奥の何かをそっと押し上げる。二本目の針金を、手前でほんの少しだけひねる。
かちり。
小さな音がして、錠前が外れた。
「……え?」
俺は自分の手元を見つめた。
開いている。
今、何をした?
わからない。わからないのに、指は、まるで何百回も繰り返してきたかのように、正しい場所を、正しい力で押していた。
食い逃げのゴロツキから財布を抜いた時と、同じだった。考えていない時だけ、この指は、勝手に動く。
顔を上げると、じいさんが水筒を口元に止めたままこちらを見ていた。
「……ほう」
じいさんは、水筒を置いて俺の手から木箱を取り上げた。
外れた錠前を、じっと見つめる。
「考えると、できん。考えるのをやめると、できる」
独り言のようにつぶやいた。
「体は、覚えておる。だが、頭が知らん」
じいさんは、錠前を指でなぞりながら静かに続けた。
「……妙なもんだな。頭を打つと、こういうことになるのか」
それは、俺に向けた問いではなかった。
自分自身に、確かめるような声だった。
俺は、何も答えられなかった。
カイが出来ることを、俺は何もできない。
カイと同じように村の目となり、村を守ることはできない。
俺は自分のやり方で、村を守ることを考えないといけないんだ。
そう考えると、急に不安になった。
◇
休憩のあと、じいさんは北のほうへ向かって歩き出した。
北の沢。
手帳に書いてあった、ダイアウルフの群れがいる場所だ。
途中、大きな平たい岩の前でじいさんが足を止めた。
そして、杖の先で岩を叩いた。
こん。
こん、こん。
一回。間を置いて、二回。
妙に、はっきりとしたリズムだった。
じいさんは、そのまま俺の顔を見た。
何かを、待っているような顔だった。
……なんだ?
何か、言わなきゃいけないのか?
しばらく考えて、とりあえず思ったことを口にした。
「ギルさん、リズム感いいんですね」
上司が意味ありげに机を指で叩いたんなら、とりあえず何か気の利いたことを言って、場をつなぐ。それがマナーだ。
だが、じいさんの顔から、一瞬だけすべての表情が消えた。
それから、ゆっくりと笑みが戻ってきた。
「……そうか。リズム感か」
「え、違いました?」
「いや。いい。気にするな」
じいさんは杖を持ち直して、また歩き出した。
その背中を見ながら、俺は、背中に冷たい汗が流れるのを感じていた。
今のは何かの合図だった。
カイなら何かを返したはずの、合図。
クレアが言っていた。おじいちゃんとカイには、昔からわたしの知らない秘密があった、と。
その秘密の、合言葉のようなものだったんじゃないか。
だとしたら、俺は今、自分がカイではないと白状したようなものだ。
◇
「カイ」
歩きながら、じいさんが前を向いたまま言った。
「お前さん、記憶を失う前に何か書き残しておらんかったか。帳面とか、そういうものを」
心臓が跳ね上がった。
懐の中で、手帳が、急に重くなった気がした。
(嘘をつく時は、短く、具体的に。余計なことは言わない)
「……さあ。俺も、部屋をまだちゃんと片づけていないので、わかりません」
「そうか」
じいさんは、それ以上、何も聞かなかった。
嘘をついた。
この人は、カイの師匠だ。カイのことを、たぶん、誰よりも知っている人だ。見回りのことも丁寧に教えてくれた、良い人だ。今のところ悪意は感じない。
でも、俺はまだこの人のことを詳しく知らない。信じていいのかわからない。
なぜカイの手帳のことを聞くんだ。なぜ、夜中にこっそりと部屋に来たんだ。なぜ、カイが死んだタイミングで帰ってきたんだ。
謎だらけで、信用なんてできない。
いや、それだけじゃない。本当のことをいうと、打算もある。
手帳を渡せば、取り上げられるかもしれない。手帳がなければ、俺は、この村で何の役にも立たない。ビッグボアを倒せたのも、あの手帳があったからだ。
カイ先輩のためじゃない。俺が、自分の居場所を守るために、手帳を手放したくないんだ。自分の居場所を守るために、嘘をついたのだ。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
◇
北の沢は、ひどいありさまだった。
ぬかるんだ岸辺に、おびただしい数の足跡が残っていた。犬よりも大きな、ダイアウルフの足跡。それが、何十も、重なり合っている。
そして、その中に、ひときわ大きな足跡があった。
俺の手のひらよりも、ずっと大きい。
「……大きいな」
じいさんが、しゃがみこんで、足跡の縁を指でなぞった。
「群れの頭だろう。普通のダイアウルフの倍はある」
少し先の茂みに、鹿の亡骸が転がっていた。骨と皮しか残っていない。
じいさんの顔から笑みが消えていた。
「群れが、大きくなりすぎとる。沢の獲物だけでは、もう足りんはずだ」
それから空を見上げた。
昼間の青い空に、うっすらと白い月が浮かんでいる。
ほとんど、まんまるだった。
「今夜あたり、沢を下りてくるかもしれんな」
手帳に書いてあったのと、同じことをじいさんは言った。
◇
村に戻ると、じいさんはすぐに村長の家へ向かった。
夕方には村中に知らせが回った。
今夜は家畜を小屋に入れ、戸締まりをしっかりすること。子どもは、日が暮れたら外に出ないこと。
村はずれの畑のポポの家でも、獣人の一家が総出で羊を小屋に追いこんでいた。
ポポの家には、羊が十頭ほどいる。その中に春に生まれたばかりの子羊が一頭いて、ポポは毎日その子羊の世話をしていた。
「兄ちゃん! 見て見て、メルが、ぼくの手から草食べた!」
夕方、羊小屋の前を通りかかった俺に、ポポが子羊を抱えて駆け寄ってきた。
ふわふわの、白い毛。小さな黒い蹄。ポポの腕の中で、めえ、と鳴いた。
「メルっていうのか」
「うん! ぼくがつけたの!」
ポポは子羊に頬ずりをしながら、尻尾をぶんぶん振っていた。
「ポポ。今夜は、ダイアウルフが出るかもしれない。日が暮れたら、絶対に外に出るなよ」
「わかってるよ。母ちゃんにも、百回言われた」
ポポは、口をとがらせた。
「メルは、小屋の一番奥に入れとくから、大丈夫だもん」
◇
その夜。
白い月が、まんまるに昇った。
食堂は早じまいだった。ハンナさんは戸締まりをし、じいさんは窓辺の椅子で杖を膝に置いたまま、じっと外を見ていた。
俺は屋根裏の窓から北の森を見つめていた。
静かだった。
風もない。虫の声もしない。
不気味なくらい、静かだった。
その静けさを引き裂くように。
遠くで、長い遠吠えが響いた。
一つ。
それに応えるように、二つ、三つ。
いくつもの遠吠えが重なり合って、夜の森に、こだました。
俺は、窓枠を握りしめた。
その時。
階下で、どんどんどん、と、扉を激しく叩く音がした。
「ハンナさん! ハンナさん、開けて!」
女の人の、悲鳴のような声だった。
俺は、屋根裏の階段を駆け下りた。
食堂の扉を開けると、そこにポポのお母さんが立っていた。
髪を振り乱し、顔は真っ青だった。
「ポポが……ポポが、いないの!」
ハンナさんが、息をのんだ。
「さっき、遠吠えが聞こえた時、羊小屋のほうで、メルが鳴いてたの。小屋の戸が、少しだけ開いてて……メルが、外に出ちゃったみたいで……」
ポポのお母さんの声が、震えて、かすれた。
「きっと、ポポ、メルを探しに行ったんだわ!私、別の作業をしていて、気づいたらポポがいなくて…どうしたらいいかしら!」
窓の外で、また遠吠えが響いた。
さっきよりも、近かった。
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