雨の夜
次の日は、朝から雨だった。
屋根を叩く雨の音で、目が覚めた。いつもの五時。社畜の呪いは、雨でも休まない。
包帯の下で、左腕の傷がじくじくと痛んだ。雨の湿気が、えぐれた傷口に染みこんでくるような痛みだった。
結局、あのあとほとんど眠れなかった。
階下に下りると、じいさんが食堂のカウンターでお茶をすすっていた。
「おう、カイ。早いな」
「お、おはようございます、ギルさん」
「よく眠れたか?」
にこにこと笑いながら、そう聞いてくる。
ゆうべ月明かりの中で、俺の寝顔をじっと見下ろしていた人と同じ顔で。
「……おかげさまで、ぐっすりと」
もちろん嘘だ。爺さんのせいであまり寝れなかった。
だが、まぁいい。人間、三時間寝れば二十時間働ける。常識だ。
「そうか、そうか。若いもんはいいな。わしなんぞ、歳のせいか、夜中に何度も目が覚めてな」
じいさんは、からからと笑った。
俺は引きつった笑顔で、右手だけでできる豆のさや取りを始めた。豆のさやが、やけに固く感じた。
◇
雨の日は、食堂も暇だ。
昼の客はほとんど来ず、ハンナさんは「今日は早じまいだね」と言ってのれんを下ろした。
じいさんは村長のところへ顔を出すと言って、雨の中を出かけていった。
その背中が見えなくなったのを確かめてから、俺は二階のクレアの部屋の扉を叩いた。
「クレア。ちょっといい?」
「……何?」
扉が、少しだけ開いた。
「話があるんだ。その…、カイのことで」
クレアの目が、すっと細くなった。
それから、扉が大きく開いた。
◇
屋根裏の部屋で、俺とクレアは机をはさんで向かい合っていた。
机の上にはカイの手帳。
ビッグボアを倒したあとに森の中で、クレアは手帳をぱらぱらとめくっただけだった。
ちゃんと読むのはこれが初めてだ。
クレアは一ページずつ、ゆっくりとめくっていった。
日付。場所。魔物の特徴。弱点。炭のスケッチ。
村のまわりの地図と、少しずつ村に近づいてくる、赤い印。
クレアの指がページの端をぎゅっとつまんでいた。
「……やっぱり」
かすれた声だった。
「カイが夜に出かけてたの、知ってた。何をしてるのって聞いても、『見回りだ』としか言わなかった。でも、見回りなら、昼間で十分でしょ。だから、何か隠してるんだろうなって、ずっと思ってた」
クレアは魔物のスケッチを指でなぞった。
「一人で、こんなこと、してたんだ。誰にも言わないで」
「村を、守りたかったんだと思う」
「わかってる。わかってるけど」
クレアは唇を噛んだ。
「言ってくれれば、よかったのに。わたしだって、薬草のことなら、少しはわかるのに。魔物が嫌う草とか、眠らせる草とか、教えてあげられたのに」
俺は何も言えなかった。
一人で抱えこんで、一番近くにいる人に何も言わない。
それは、俺もやっていたことだ。ひなたに、仕事のことも、しんどいことも、何一つ話さなかった。話したら、心配させると思っていた。
でも話さないことで、ひなたはもっと寂しかったのかもしれない。
「……もう一つ、話があるんだ」
俺は、ゆうべのことを話した。
じいさんが、夜中にこの部屋へ上がってきたこと。カイの短剣を手に取って、名前を呼んだこと。そして、迷わず、引き出しの二重底を開けたこと。
クレアの顔色が、変わった。
「おじいちゃんが……?」
「二重底のことを、最初から知ってたみたいだった。中をのぞいて、それから、俺のほうを長いこと見てた」
クレアは、しばらく黙りこんだ。
雨の音だけが、屋根を叩いていた。
「……おじいちゃんとカイ、昔から仲が良かったの」
クレアが、ぽつりと言った。
「おじいちゃんが帰ってくるたびに、二人で森に入って、何日も戻ってこないことがあった。カイに見回りのやり方を教えたのも、おじいちゃん。カイが『村の目』になったのは、おじいちゃんの弟子みたいなものだったから」
「弟子……」
「わたしが一緒に行きたいって言っても、二人とも、絶対に連れていってくれなかった」
クレアの声に、少しだけ、拗ねたような響きが混じった。
「あの二人には、昔から、わたしの知らない秘密があったの」
◇
雨が強くなってきた。
窓の外は昼間なのに夕方のように暗い。
クレアは、手帳の最後のほうのページを開いた。
雨ににじんで、ほとんど読めない走り書き。一度濡れて乾いたせいで、そのあたりの紙だけが、ごわごわと波打っている。かろうじて読める、最後の一行。
『点をつなぐと――』
クレアは、にじんだインクをじっと見つめていた。
「……カイが死んだ夜も、こんな雨だった」
俺は顔を上げた。
「朝から、ずっと降ってた。夕方には、前が見えないくらいになって。母さんが、今夜は見回りに行くんじゃないよって、何度も言ってた」
「でも、カイは出かけた?」
「うん」
クレアは、窓の外の雨を見た。
「夜になって、出かけていったの。それから、真夜中に、一度帰ってきた」
「帰ってきた?」
「びしょ濡れで。わたし、物音で目が覚めて、廊下に出たら、カイが屋根裏への階段を駆け上がっていくところだった。声をかけたけど、振り向かなかった」
クレアの声が小さくなった。
「すぐに下りてきて、また出ていった。それが、最後」
翌朝に崖の下で、木こりがカイを見つけたのだという。
俺は手元の手帳に目を落とした。
雨ににじんだ、最後のページ。濡れたのは、カイがこの手帳を持って雨の中にいたからだ。
それなのに、手帳は崖の下ではなく、この部屋の二重底にあった。
つまりー。
「夜、最初に外出した時は手帳を持っていた。その後、一度帰ってきて、手帳を置いてまた出て行ったんだ」
何のために。
山で無くさないため、だとしたら最初から持っていかなければいい。
急いで置きに帰り、急いで出ていく目的は…。
「クレア、これは俺の推測だけど、カイは雨の中で何かを見た。あるいは、誰かに会った。それで、この手帳を持ち歩くのは危ないと思って、急いで隠しに戻ってきた。そう考えたら、つじつまが合うと思うんだ」
「誰かに、取られないように……?」
「たぶんね。ただ、カイは手帳を置いた後、その誰かに急いで会いに行った。つまり、知り合いか、心当たりがある人物だった可能性が高いんじゃないかな」
そして、と続ける。
「もし、その推測が当たっているなら、その人物は手帳を探しているはずだよ。今もね」
じいさんは、なぜ部屋に入ってきたんだろうか。二重底を開けたのは、手帳を探していたからなのかもしれない。
クレアが、膝の上で、こぶしを握りしめた。
「……カイはね、雨の日は、絶対に崖に近づかなかった」
「え?」
「小さい頃、わたしが雨の日に崖の近くで遊んでて、足を滑らせかけたことがあるの。カイが腕をつかんで、引き上げてくれた。それから、カイは何度も、わたしに言った。『雨の日は、崖に近づくな。どんなに慣れた道でも、雨の日は別の道だと思え』って」
クレアの目に涙がにじんだ。
「そんなカイが、雨の夜に、崖から落ちるわけない」
クレアはまっすぐに俺を見た。
「わたしは、カイが事故で死んだなんて、思ってない」
その目は怒っていた。
悲しんでいるのではない。泣いているのでもない。
まだ見えない何かに向かって、まっすぐに、怒っていた。
◇
俺は立ち上がって、机の引き出しを開けた。
二重底の板を外す。
中から、布の包みを取り出した。
『クレアへ』
几帳面な字の、表書き。
「これも、二重底の中にあったんだ。手帳と一緒に」
俺は、包みをクレアの前に置いた。
「中は見てないよ。これは、俺が開けていいものじゃないと思ったから」
クレアは包みを見つめたまま、動かなかった。
震える指で、そっと表書きの字に触れる。
カイの字を確かめるように。
「……カイの字だ」
小さな声だった。
クレアは包みを両手で持ち上げた。
結び目に指をかける。
そして、そこで止まった。
長い間、そのままだった。
やがてクレアは、結び目から指を離した。
「……今は、開けない」
「いいの?」
「わたしね、カイを殺したやつが許せない。カイを殺したやつを見つけたい。その気持ちでいま、立っているの」
「うん」
「手紙を読んで、その気持ちが弱くなったら、多分わたし、動けなくなる」
クレアは、包みを胸に抱きしめた。
「カイが誰にやられたのか。それがわかるまでは、開けない。泣くのは、そのあと」
そう言って、クレアは、ぎこちなく笑った。
ビッグボアの前で見せた、こわばった下手くそな笑い方と、同じだった。
「わたしが預かる。いいでしょ」
クレアが、包みを抱いたまま俺を見上げた。俺はうなずいた。
「もちろん。最初から、クレアのものだからね」
クレアはこくりとうなずいた。
それから手帳を俺のほうへ押し戻した。
「これは、あんたが持ってて」
「いいの?」
「いいのって、あんたがカイの仕事を継ぐんでしょ」
クレアは、ふいっと顔をそむけた。唇が、拗ねたようにちょっとだけ尖っている。
俺がカイの仕事を継ぐことを、クレアは許してくれている。それが嬉しかった。
「それに、おじいちゃんが、この手帳を探してるんでしょ。わたしが持ってたら、すぐ見つかる。あんたなら、隠すのは得意でしょ」
確かに。隠れることと、隠すことにかけては、六年の実績がある。
実際、クレアには悪いが、現時点でじいさんを信用することはできない。
じいさんがカイの死に直接関係しているのかはわからないが、無関係とも思えない。
カイの机の二重底を知っていたのはなぜだ。
師弟だから、元々知っていたのか?師匠だからといって、自分の手帳の隠し場所まで教えるだろうか?
謎が多すぎる。まだ警戒しておいて損はないだろう。
◇
クレアが部屋を出ていったあと、俺はもう一度手帳の地図を広げた。
三本角のビッグボアの印には、昨日、俺が炭で×をつけた。
残っている印は二つ。
山向こうの峠の、背中に棘の生えたアーマーベア。
そして、北の沢のダイアウルフ。
ダイアウルフのページを開く。
『北の沢。ダイアウルフ。五頭の群れ。人を恐れない。夜に動く。光に弱い』
その下に、もう一行書き足されていた。
前に読んだ時は、気づかなかった。インクの色が、少しだけ新しい。
『群れが増えている。八頭。うち一頭、ひときわ大きい。白い月が満ちる頃、沢を下りる恐れあり』
白い月が満ちる頃、か。
俺は窓の外を見た。
いつの間にか日が暮れかけていた。
雨は小降りになり、流れていく雨雲の切れ間から、うっすらと白い月がのぞいていた。
(おいおいおいおい…)
ほとんど、まんまるだった。
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