宴の夜と帰ってきた祖父
「ちょっといい?」
宴会に向かうため、着替えようとしていると屋根裏にクレアが来た。
吊り布で左腕を固定されたまま、片手で上着の袖を通そうと四苦八苦していた俺を見て、クレアはあからさまにため息をついた。
「ほら、貸して。片腕じゃ無理でしょ」
手荒く上着を取り上げると、俺の背中に回り、痛む左腕に触れないよう慎重に袖を通してくれた。
婆さんに巻いてもらった包帯が崩れないよう、前元の合わせを整え手早く紐を結んでいく。
だが、最後の一結びを整え終えたところで、クレアの指先がぴたりと止まった。
俺の胸元に触れたまま、クレアは顔を上げずに言った。
「……あんた、本当は、誰なの?」
心臓が跳ねた。
「誰って……カイだよ。頭を打って、いろいろ忘れてるだけで」
「それ、もういい」
クレアが上着の襟元を、ぎゅっと掴んだ。
「すぐ謝る。お客さんに、腰を九十度に曲げる。笑い方も、違う」
まっすぐに、冷たい言葉が胸に刺さる。
「それに、カイは人を頼らなかった。何でも一人で抱えこんで……今日のあんたみたいに、『クレア、火だ!』なんて、わたしに叫んだりしない」
襟を掴む指先に、ぎりぎりと力がこもる。
「わたしをかばって、自分の腕をえぐられたりもしない。ビッグボアの目に、燃えてる枝を突っこむなんて無茶もしない。カイは、勝てない喧嘩はしなかった。あんながむしゃらで不器用な戦い方……」
声が、わずかに震えていた。
「あれは、カイじゃない」
「……屍鬼だって、言うのか」
「別に、そうは言わないわよ。屍鬼は、ビッグボアからわたしをかばったりしないわ」
クレアは襟から手を離し、まっすぐに俺を見上げた。
「大環に還った魂は、洗われて生まれ直すんでしょ。だったら、還りそこねた魂が、違う体に戻ることだってあり得る。神官様だって言ってたわ。大環からはぐれて戻ってくる魂も、ごく稀にいるって」
この世界の人間は、魂の巡りを当たり前に信じている。これ以上、小細工のごまかしは通用しなかった。
俺は、静かに息を吐き出した。
「……気づいた時には、教会の棺の中だったんだ」
クレアの肩が、小さく跳ねた。
「前のカイの記憶は、何もない。クレアの言う通り、俺は別の誰かで、その魂がこの体に入ったんだと思う。でも、乗っ取ろうとして来たわけじゃない。本当に、気づいたらここにいたんだ」
元の世界のことは伏せた。そこまで話せば、それこそ狂言だと思われる。
「ハンナさんに拾ってもらって、今日はクレアに命を助けてもらった。……だから、この場所を壊すつもりはない。それだけは本当だよ」
階下からは、村人たちの陽気な笑い声がかすかに響いている。屋根裏には、沈黙だけが落ちていた。
「……そっか」
ぽつりと、クレアがこぼした。
「やっぱり、カイじゃないんだ」
握りしめたクレアのこぶしが震えていた。
乱暴に袖で目元をこすると、クレアは俺の上着の裾をぐっと引き下げてシワを伸ばした。
「条件が、二つある」
顔を上げたその目は赤かったが、声には強い芯が戻っていた。指を二本立てる。
「一つ。母さんには、絶対に言わないで。あの母さんから、もう一回カイを取り上げたくない」
「……わかった」
「二つ。外では『頭を打って記憶をなくしたカイ』でいること。中身が違うなんてバレたら、今度こそ屍鬼だって騒ぎになって焼かれるわよ」
「約束するよ。絶対に守る」
クレアはふっと息を吐き出した。
「……それで。あんた、これからどうする気?」
俺は机の上の手帳に視線を落とした。
「カイの手帳を読んだんだ。森の魔物のことや弱点が全部書いてあって……どこかへ報告しようとしていた形跡がある。あいつが何をしようとしていたのか、確かめたいんだ」
クレアはじっと俺を見つめ、それからふいっと視線をそらした。耳の先が、わずかに赤い。
「……あんたのためじゃないからね」
「え?」
「カイが何をしようとしてたのか、わたしも知りたいの。だから手帳を読むのも森の案内も手伝ってあげる。あんたのためじゃなくて、カイのためよ」
教科書レベルのツンデレっ子だな。
でも。
クレアが俺のために何かする理由なんて一つもない。カイのためと言われた方がよほど信じられる。
「よろしく頼むよ」
「ん」
前掛けの裾をぱんぱんと払うと、クレアは扉へ手をかけ、振り返った。
その顔は、いつもの気の強い幼なじみの表情に戻っていた。
「ほら、行くわよ、カイ。主役が遅れたら、母さんがおたま持って怒鳴り込んでくる」
「そうだね。行こう」
◇
広場は、まだ村中の人であふれていた。
真ん中に大きな焚き火。その上で、ビッグボアの肉がじゅうじゅうと脂を落としながら焼けている。
香ばしい匂いが夜風に乗って広がっていた。
もうみんな盛り上がっていて、すごく賑やかだ。
そこらじゅうから笑い声が聞こえる。「いー、ひっひっひっ」と言う声も聞こえた気がした。
「おう、来たか英雄!」
「ほら、こっち座れ、カイ!」
あっという間に、焚き火の前の一番いい席に座らされた。
左腕は、クレアがきつく巻き直した包帯ごと、首から布で吊っている。神官様の祈りで半分ふさがったとはいえ、肘から先にはまだ力が入らない。
その右手に、焼けた肉の串を握らされた。
ビッグボアの肉には、ふだんは祝い事の日にしか使わない、峠越しの高い塩がたっぷりと振ってあった。脂がじゅうっと音を立てて、塩の粒がきらきらと光っている。
「よくやったなあ、カイ」
「あのビッグボアが村に来たらひとたまりもないよ、ありがとうよ」
「お前がいなきゃ、クレアちゃんがどうなってたか」
次から次へと、村の人たちがやってきては俺の肩を叩いていく。
よくやった。
ありがとう。
お前がいなきゃ。
一つ言われるたびに、胸の奥がむずむずした。
日本では、どんなに大きな契約を取っても「おう」と言われるだけだった。
ミスをすれば、何時間でも怒鳴られる。うまくいけば、誰も何も言わない。それが当たり前だった。
――お前みたいなやつは、いてもいなくても同じだ。
あの言葉が、六年間、ずっと胸のどこかに刺さったまま生きてきた。
それが今、焚き火の明かりの中で、少しずつ溶けていく気がした。
いてもいなくても同じ、じゃなかった。
お前いたから、クレアは助かった。
そう言ってもらえることが、こんなに、うれしいなんて。
「……兄ちゃん、泣いてる?」
隣でポポが、肉の脂で口のまわりをてかてかにしながら、俺の顔をのぞきこんだ。
「泣いてない。煙が目にしみただけだ」
「ふーん」
ポポは、全然信じていない顔で尻尾をぱたぱたさせた。
◇
その後も宴は盛り上がり続けた。
俺は皆に酒を注いだり、焼けた肉を切り分けたりしていた。
「英雄がそんなことすんなよ。酒くらい自分で注ぐからよ」
なんて言われるが、とんでもない。
酒が空いたグラスあればすぐに注ぎなさい。
皆がつまみやすいように串外しなさい。
そんなのは不文律、最低限のマナーだ。
社会人はそう教わる。常識だ。
そんなことを考えていると、人垣の向こうから、のしのしと、ひげもじゃの男が歩いてきた。
ドワーフの鍛冶屋、グンターさんだ。
背は俺の胸くらいまでしかないのに、肩幅は俺の倍。腕は丸太のように太く、ひげは胸まで伸びている。葬式の日、俺が棺から起き上がった時に、真っ先に金槌を構えたのがこの人だ。
それ以来、グンターさんは俺と目が合うたびに腰の金槌に手を伸ばしていた。たぶん、まだ俺が屍鬼だと思っている。
そのグンターさんが、俺の前で、どっかりと腰を下ろした。
「……カイ」
「は、はい」
「すまなかった」
グンターさんは、ひげの奥からむすっとした声で言った。
「わしは、お前を屍鬼だと思っとった。だが、屍鬼は、村のためにビッグボアと戦ったりはせん」
それから、ビッグボアの角を顎でしゃくった。焚き火のそばに転がっているものだ。
グンターさんは、腰の金槌を抜いて自分の膝の上に置いた。その上に、太い手のひらをどんと乗せる。
「あの角、一本もらうぞ。お前の短剣の柄を、作ってやる。金槌にかけてな」
金槌にかけて。
あとでクレアに聞いたら、岩人――ドワーフが、命をかけるのと同じ重さで約束する時の言葉なのだそうだ。
「え、いいんですか」
「カイの短剣は、柄がすり減りすぎとる。あれじゃ、いざという時に滑る。三本角の角なら、百年使っても割れん」
ぶっきらぼうな言い方だった。でも、その目は温かかった。
「……ありがとうございます」
俺は、頭を下げた。
「やめろ、お前が礼をいうな。みんな、お前に感謝してるんだ。それより飲むぞ。酒だ。カイ、お前何か出来ないか。盛り上がれば何でもいい」
ほお、グンターさんは宴会芸をご所望か。
「では、楽しんでいただけるかわかりませんが・・・」
俺はそこら辺の白い布で、パパッと白鳥パンツを作り、白鳥の湖を踊った。
かつて接待で踊るために猛練習したやつだ。営業チームは全員出来たが、俺が一番うまかった。
「ぎゃはは!なんだお前その踊りは!」
「やめろ、その顔はやめろ!」
大ウケだった。クレアも、腹を抱えてケラケラ笑っていた。
ついさっき、屋根裏で目を赤くしていたのが、嘘みたいだ。
笑いすぎてにじんだ涙をぬぐいながら、クレアがこっちを見た。目が合うと、ふん、と鼻を鳴らして、口の形だけで言う。
――バカね。
それから、また吹き出した。
母さんには言わない。外では、カイでいる。
この村で、俺の中身を知っているのは、クレアだけだ。それが、なんだか少しだけ、心強かった。
◇
宴が、一番盛り上がっていた頃だった。
広場の入口のほうで、誰かが声をあげた。
「おい、あれ……」
人垣が、ざわざわと割れていく。
その向こうから、一人の老人が杖をつきながら歩いてきた。
裾が泥で汚れた、灰色の旅の外套。長い杖。背中には、使いこまれた大きな背負い袋。焚き火の明かりに、真っ白なひげが光っている。年のせいか、背中が少し前かがみだった。
「――おじいちゃん!」
クレアが、弾かれたように立ち上がった。
そして、人垣をかき分けて一直線に駆けていくと、老人の胸に思いきり飛びついた。
「おじいちゃん、おじいちゃん……っ!」
「おうおう、クレア。元気にしておったか」
老人は、杖を放り出して、クレアを抱きとめた。
その顔が、くしゃりと笑み崩れた。目尻に、深いしわが何本も寄る。
「父さん!」
続いて、ハンナさんも駆け寄っていく。
父さん。
ということは、この人は、ハンナさんの父親で、クレアのおじいちゃんだ。
「ギルさんだ」
隣で、木こりの男が教えてくれた。
「ハンナの親父さん、ギルバートさんだよ。あちこち旅して回ってて、半年に一度くらい、ふらっと帰ってくるんだ。珍しい土産話をたくさん持ってな」
そういえば、ハンナさんの家の二階には、誰も使っていない部屋が一つあった。あれは、このギルさんが帰ってきた時のための部屋だったのか。
クレアのじいさん、か。
じいさんは、クレアの頭をなでながらハンナさんと何か話している。
ハンナさんが、こちらを指さして何かを早口でまくし立てている。たぶん、今日のビッグボアのことだ。
じいさんの目が、俺を捉えた。
この人にとって、カイは赤ん坊の頃から知っている、孫のようなものだ。
つまり、この村で一番ごまかしのきかない相手だった。
そして、クレアを連れて、ゆっくりと焚き火のほうへ歩いてきた。
◇
「……カイ」
じいさんは俺の前に立つと、しばらく黙って俺の顔を見つめた。
上から下まで、何かを確かめるように。
それから、にっこりと笑った。
「本当に、生きとるんだな。村の入口で、宴に向かう連中から聞いた時は、耳を疑ったぞ。」
穏やかな声だった。
深い笑いじわの刻まれた顔に、人の良さそうな笑み。目を細めたまま、白いひげを楽しそうになでている。
どこからどう見ても、孫同然の若者の無事を喜ぶ優しいおじいちゃんだった。
「は、はい。おかげさまで、こうして生きています。……ご心配を、おかけしました」
俺は、腰を折って深々と頭を下げた。
その時視界の端で、ひげをなでていたじいさんの手がぴたりと止まったのがわかった。
顔を上げると、じいさんはさっきと同じ顔で笑っていた。
……気のせいか?
じいさんの後ろで、クレアが額に手を当てていた。
――お客さんに、腰を九十度に曲げる。
ついさっき、屋根裏で言われたばかりだった。
頭の中で、警報が鳴りっぱなしになった。
「しかも、天職が、盗賊から暗殺者に変わったらしいのう」
どきりとした。
「それも、入口で聞いた。」
じいさんは首をかしげて、俺の顔をのぞきこんだ。
その目は、笑っていた。
「まあ、大環から戻ったなら、そういうこともあるかもしれんな」
そして、からからと笑った。
「暗殺者か。物騒な響きだが、その暗殺者が、うちの孫をビッグボアから守ってくれたんだ。礼を言わせてくれ。孫娘を守ってくれて、どうもありがとう」
思いがけず誠実な口調で礼を言われ、「あ、いえ」とあやふやな返事になってしまった。
「さて、わしも腹が減った。ハンナ、肉をくれ。一番いいところをな」
「はいはい。帰ってきた早々、遠慮のない親父だよ」
◇
宴は、夜更けまで続いた。
ようやく解放された俺は屋根裏に直行し、寝床にもぐりこんだ。
枕の下に、手帳の硬い感触がある。
目を閉じる。
焚き火の匂いが、まだ髪に残っていた。
今日は、いろいろなことがありすぎた。
ビッグボア。青白い光。広場の歓声。グンターさんの角の柄。
それから、じいさんのあの目。
考えているうちに、いつの間にかうとうとしていた。
◇
ぎし、と。
階段がきしむ、かすかな音で目が覚めた。
真っ暗だった。宴の音は、もう聞こえない。窓から差しこむ二つの月の光だけが、屋根裏の部屋を青白く照らしている。
ぎし。
もう一度。
誰かが、階段を上ってくる。
俺は、寝床の中で身を固くした。
息を殺す。背中を丸める。
……いや、だめだ。
寝床で寝ている人間は、最初から、そこにいるとわかっている。この状態で消えてもすぐ看破される。かくれんぼで、さんざん確かめたことだ。
(ここで飛び起きたら、何を見ていたのかを聞かれる。それは、まずい。今は、寝たふり一択だ)
だから、寝たふりをするしかなかった。
まぶたを薄く開けたまま、呼吸だけを寝息のようにゆっくりと整える。
階段の上に、人影が現れた。
月明かりに、白いひげが光った。
じいさんだった。
じいさんは、足音を立てずに部屋の中へ入ってきた。
老人とは思えないほど、静かな足運びだった。床板が、ほとんど鳴らない。さっききしんだのは、わざとだったのだろうか。それとも、階段の一段だけが古いのか。
じいさんは、寝床の俺をちらりと見た。
それから、壁のほうへ歩いていった。
壁には、カイの短剣が掛けてある。
じいさんは、その短剣をそっと手に取った。
月の光にかざす。
刃を見て、柄を見て、すり減った柄の握りの部分を親指でゆっくりとなでた。
何度も。何度も。
まるで、そこに残っている誰かの手の形を、確かめるように。
「……カイ」
かすれた声だった。
聞こえるか聞こえないかの、小さな声。
広場で笑っていた人と、同じ人の声だとは思えなかった。
じいさんは、短剣を壁に戻した。
そして、今度は机のほうへ歩いていった。
引き出しを開ける。
ろうそくの燃えさし、紐、小さな砥石。
じいさんの手は、それらには目もくれなかった。
迷わず、引き出しの底に指をかけた。
かたん、と。
底板が外れた。
俺は息をのんだ。
二重底。
俺が、たまたま指で叩いて見つけた、あの隠し場所。
じいさんは、最初からそれがあることを知っていた。
月明かりの中で、じいさんが二重底の中をのぞきこむ。
そこにあるのは、布の包みが一つだけだ。
『クレアへ』と書かれた、カイの包み。
手帳はない。
手帳は今、俺の枕の下にある。
じいさんは包みを手に取り、表書きを見つめた。
しばらく、動かなかった。
それから、包みを元の場所に戻した。開けずに。
底板を、静かにはめ直す。引き出しを閉める。
そしてゆっくりと、こちらを振り返った。
寝床の、俺のほうを。
月明かりを背にしたじいさんの顔は、影になって、表情が見えなかった。
ただその目だけが、暗闇の中でじっと俺を見ていた。
長い、長い時間だった。
俺は寝息のふりを続けた。
枕の下の手帳がやけに硬く感じた。
その厚みまであの目に見透かされている気がして、一瞬本当に息が止まった。
心臓の音が、聞こえてしまうんじゃないかと思った。
やがて、じいさんは来た時と同じように、音もなく部屋を出ていった。
ぎし、と、階段の一段だけが鳴った。
足音が、遠ざかっていく。
暗闇の中で、俺は目を見開いたまま天井を見つめていた。
じいさんは、知っている。
カイの、手帳の隠し場所を。
カイが、何かを隠していたことを。
そして、その何かがなくなっていることを。
カイ。
お前と、あのじいさんは、いったい何を隠していたんだ。
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