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ビッグボア変異種 後編

ビッグボアの首が、ぐるりとこちらを向いた。


声を出した瞬間に、隠密は解けている。今の俺は、森の真ん中に突っ立っている、ただの的だ。


それでいい。ビッグボアがこっちを見ている間、クレアは見られていない。


「カイ、何やって――」


「いいから、火!」


ビッグボアが、吠えた。前足が地面をかき、土が跳ねる。


今度は、足が動いた。


俺は、ビッグボアに背を向けて、全力で走った。木の根を飛び越え、斜面を転がるように駆け下りる。この体は軽い。夜な夜な森を走り回っていた、カイの体だ。


目の前の茂みに、頭から飛びこんだ。そのまま奥へ転がり、太い木の根の陰に、体を押しこむ。


今なら、誰の目にも入っていない。


背中を丸める。呼吸を、浅く、細く、長く。


気配を、消す。


体のまわりに、膜が張る。茂みの緑が、一段、くすんだ。


どどど、と地響きが茂みの手前で止まった。


がさり。


角が、茂みをかき分けた。鼻から額にかけて、縦に並んだ三本の角の先が、俺の顔のすぐ上で、ゆっくりと揺れる。


心臓の音が、うるさい。


ビッグボアの赤い目が、茂みの中をのぞきこむ。


その目が、俺の上を、すうっと素通りした。


ビッグボアは、鼻をひくつかせて頭を抜き、消えた獲物を探して、ぐるぐるとその場を回り始めた。


 ◇


斜面の上、五十歩ほど先の岩場の前で、クレアがしゃがみこんでいた。


火打ち石を打っている。かち、かち、と小さな音。


手が震えているのが、ここからでもわかった。


かちっ。


小さな火が、ぽっと灯った。クレアは、薬草をいぶすための枯れ草の束に、火を移した。


ぼうっ、と燃え上がる。


ビッグボアの動きが、ぴたりと止まった。鼻先が、煙のほうを向く。


ビッグボアは、クレアのほうへ斜面を上り、火の手前、十歩ほどのところで足を止めた。頭を左右に振り、前足で地面を何度もかく。


『火を嫌う』


カイ先輩の字が、頭に浮かんだ。効いてくれ。


俺は、茂みから這い出し、ビッグボアの背中を追った。


息を殺したまま。ビッグボアの蹄が地面を打つ音に、自分の足音を重ねて、一歩ずつ。


あと、二十歩。十五歩。


ビッグボアは、火の手前で、まだ迷っている。


クレアが、立ち上がった。燃える草の束を、両手で振りかぶる。


「来るな!」


投げた。


燃える束が、くるくると宙を回り、ビッグボアの顔に、まともにぶつかった。


火の粉が、ぱっと散る。


――効いてくれ。


そう思った。


だがビッグボアは一歩後ずさっただけだった。


燃える束は、鼻の上で、ころりと跳ねて、地面に落ちた。


再び一歩前進した。


その火を、蹄で、無造作に踏みつけた。


――え。


火を、嫌うんじゃなかったのか。


ビッグボアの鼻先を、よく見た。


岩のような灰色の塊が、背中だけじゃなく、頭部から鼻先の角にかけて、そして目のすぐ上まで覆っていた。まるで、兜をかぶったように。


手帳の日付から、もう、十日以上が経っている。その間に、この変異したビッグボアは、さらに成長したのか。


もしかしたら、変異によって性質が変わったのかもしれない。


手帳の情報は絶対じゃないってことか。


ビッグボアが、低く、頭を下げた。三本の角を、まっすぐ、クレアに向けて。


「クレア、逃げ――」


ビッグボアが、突っこんだ。


クレアが、半身のまま、細身の剣を突き出した。


きぃん、と、硬い音。


切っ先が、岩のような皮の上を、火花を散らして滑った。細い刃が、弓のようにしなって、跳ね返される。


ビッグボアの突進を避けるため、クレアが横に跳んだ。


だがビッグボアの肩が、その体をかすめた。


かすめただけで、クレアは木の葉のように宙を舞い、岩場の岩に、背中から叩きつけられた。


カハッと肺から息が漏れ、クレアがうつ伏せに倒れる。


立ちあがろうと指を動かし、地面をかくが、立ち上がれない。細身の剣は、手から離れて、少し先に転がっていた。


ビッグボアが、岩壁の手前で、ゆっくりと向きを変えた。


もう一度、角を、クレアに向ける。


後ろ足が、地面をかく。


とどめを、刺す気だ。


――詰んだ。


火は効かない。クレアは動けない。手帳に書いてあった手は、全部、使い切った。


俺は、ビッグボアの十歩後ろで、隠れている。


まだ、誰にも、見られていない。


このまま、じっとしていれば。


俺だけは。


喉の奥が、ひくりと引きつった。


違う。


考えるより先に、体が、動いていた。


体を覆っていた膜が、スッと消えた。


ビッグボアが、地面を蹴る。


俺は、クレアに向かって、走った。


角より、先に。


クレアの体に、横から飛びついた。


その瞬間、目の端を、灰色の壁がかすめた。


突っこんでくるビッグボアの、岩のような肩。


クレアを抱えこんだ俺の左腕が、その肩に、こすれた。


ごりっ、と。


おろし金に、腕を押しつけて引いたような音がした。


岩の皮が、袖ごと、腕の肉をえぐっていく。腕の芯まで、ずしん、と響いた。


勢いのまま、二人で地面を転がった。すぐ後ろを、地響きが駆け抜けていく。


止まった時、クレアの体は、俺の腕の中から、岩の根元のほうへ転がり出ていた。


左腕を、見た。


見なければよかった。


肩から肘にかけて、袖が裂けて、赤く濡れていた。皮が、めくれていた。


指を、動かそうとした。


動かなかった。


肘から先が、自分のものじゃないみたいだった。まったく、力が入らない。


目の前が、真っ白になった。声も出ない。息ができない。灼けた鉄の棒を突き入れられたような痛みが、肩へ、背骨へ、駆け上がってくる。


息を、吸え。


目を開けろ。


かすむ視界の向こうで、クレアが、岩の根元に転がっていた。俺が突き飛ばしたほうへ。顔を伏せて、肩で息をしている。生きている。


そして、ビッグボアが。


地面をえぐりながら、向きを変えていた。


俺のほうでは、なかった。


クレアのほうへ。


あいつは、まず、動けないほうから片づける気だ。


今、俺を見ているやつは、誰もいない。


息を、殺す。


背中を丸める。呼吸を、浅く、細く、長く。


膜が、張った。


 ◇


すぐ横に、燃えている枝が一本、転がっていた。クレアが投げた束から、弾け飛んだものだ。


これだ。


右手を、そっと伸ばす。あまり燃えていないほうの端に、指をかける。


ゆっくりなら、膜は消えない。食い逃げの男から財布を抜いた時と、同じだ。


枝を、持ち上げた。


手のひらの皮が、じりじりと焼けていく。


声を、出すな。


叫べば、膜が消える。消えたら、終わりだ。


奥歯を、噛みしめた。


立ち上がる。左腕は、だらりと垂れたまま、まったく力が入らない。揺れるたびに、目の奥に火花が散る。


それでも、一歩、踏み出した。


ビッグボアのほうへ。


逃げ道とは、反対へ。


ゆっくり。蹄が地面をかく音に、足音を重ねて。


十歩。七歩。五歩。


巨体が、目の前に、壁のように迫る。生臭い息。岩のような皮にこびりついた、苔の匂い。


ビッグボアは、気づかない。その目は、岩の根元で動けずにいるクレアだけを見ている。


頭が、低く下がった。


後ろ足が、地面をかく。一度。二度。


突っこむ。


その前に。


兜のような塊の、その下。目のすぐ下だけが、まだ、むき出しの肉だった。


俺は、横から、燃える枝を、その目に、突き入れた。


じゅっ、と、嫌な音がした。


ビッグボアが、絶叫した。巨体が痛みにのけぞり、前足が、高々と宙に跳ね上がる。


頭を振り回し、天に向かって吠えている。何が起きたのか、わかっていない。どこから火が飛んできたのかも。


膜が消えた。


まだ見つかってはいない。二呼吸で隠密状態になり、膜を貼り直す。


『前足を上げた瞬間が狙い目』


いま俺の目の前に、腹があった。


燃えさしの枝を捨てる。跳ね上がった前足の下へ、一歩、踏みこむ。


焼けた右の手のひらで、腰の短剣を抜く。その痛みごと、握りしめて。


その短剣が、不思議と今まで以上に手に馴染んだように感じた。


その時ーー


膜の内側で、色の沈んだ世界の中。


その腹の、一か所だけが、光って見えた。


青白い、小さな光の点。ろうそくの火を、水の底からのぞいたような、淡い光。左の前足の付け根の、少し内側。


食い逃げの大男の首筋にも見えた、あの小さな青い光が、今度はよりはっきり見える。


なんなんだ、これ。


わからない。わからないのに、体の奥の、もっと奥のほうで、何かが言っていた。


――そこだ。


その瞬間、俺の世界から、音が消えた。


ビッグボアの絶叫も、木々のざわめきも、自分の心臓の音さえも。


耳をふさいだのとは違う。音のほうが、俺のまわりから、すうっと遠ざかっていった。


目の前の青白い光と、短剣を握る自分の手。それ以外の何もかもが、消えていた。


時間が、一拍だけ、引き伸ばされる。


刃先が、光に向かう。


静けさの中で、短剣の刃も、青白い光を灯す。


腹に灯った蝋燭の火と、短剣の刃に灯った火。


二つの火を結ぶように、光の尾を引きながら短剣を振るう。


刃先が、岩のような皮に触れる。しかし、刃は止まらなかった。まるで最初からそこに道があったかのように、柄の根元まで、すっと吸いこまれていった。


一拍おいて、世界に、音が戻ってきた。


俺は、短剣から手を離して、後ろへ転がった。


跳ね上げられていた前足が、さっきまで俺のいた地面に、どすん、と落ちる。


ビッグボアは、もう一度、踏ん張ろうとした。


その足が、もつれた。


巨体が、ゆっくりと、横に傾いていく。


どう、と、地面が揺れた。


三本の角が、土に沈んだ。


赤く濁った右目から、すうっと、光が消えた。


 ◇


「……カイ」


クレアが、岩に手をつきながら、よろよろと歩いてきた。俺の隣に、すとんと膝をつく。


「生きてる?」


「……たぶん」


「わたしも、たぶん」


クレアの目が、俺の左腕に落ちた。その顔から、さっと血の気が引いた。


「動かさないで。絶対に、動かさないで」


クレアは、腰の袋から、赤い糸のような細い葉を一束、引き抜いた。赤糸草《あかいとぐさ》。血止めの薬草だ。手のひらでもみつぶして、裂けた皮膚に押し当てる。


「っ……!」


「我慢して」


自分の前掛けを、山で使い慣れたナイフで裂く。裂いた布で、えぐれた腕を、きつく、ぐるぐると巻いていく。


その手は、震えていた。でも、迷いはなかった。


「……ごめん。わたし、何もできなかった。火も、効かなかったし。剣も、滑っただけだった。それに、わたしをかばって、その腕……」


「クレアが火を起こしてくれなかったら、あいつに近づけなかった。目を潰した枝だって、クレアの火だよ」


クレアは、何も言わなかった。ただ、布を結ぶ手に、ぎゅっと力がこもった。


「……あんた、いつ、あいつの下にいたの。顔を上げたら、もう、短剣が刺さってた。一瞬、青く光った気がした。」


「……クレアにも、見えたのか」


「一瞬だけ。……それに、火を嫌うとか。あんた、あのビッグボアのこと、知ってたでしょ」


ごまかせなかった。


クレアが、俺の懐から、手帳を引っぱり出した。


「屋根裏の、机の引き出しの奥にあった。カイが書いてたんだ。この森の魔物のことを、全部」


クレアは、ページをめくった。几帳面な字と、炭のスケッチ。


その指が、途中で止まった。


「……カイの字だ」


声が、震えた。


「カイが、助けてくれたんだ」


「うん」


(カイ先輩。火は、効きませんでしたけど、前足のことは、教本のとおりでした)


心の中で、深く、頭を下げた。


「それと、クレアもな」


クレアは、手帳を胸に抱いて、顔を伏せた。


しばらくして、俺は、右手で木の幹をつかんで、立ち上がろうとした。


「……でも」


クレアが、顔を伏せたまま、ぼそっと言った。


「助かった。……ありがと」


小さな声だった。目は、手帳に落としたままだった。


俺は、「うん」とだけ返して、立ち上がった。


木々の隙間から見える空は、腹が立つくらい、青かった。


 ◇


村に戻って「三本角のビッグボアを倒した」と言っても、最初は誰も信じなかった。


木こりの男たちが森へ入り、横倒しのビッグボアを見て、腰を抜かした。荷車を三台つないで、男が十人がかりで村まで引いてきた時には、日が暮れかけていた。


猟師をしている獣人のおじさんが、ビッグボアの腹の下をのぞきこんで、顔色を変えた。


「……おい。刃の傷が、一つしかねえぞ」


広場が、ざわついた。


「前足の付け根に、一突きだけだ。それが、心臓まで、まっすぐ届いてる。骨の隙間を、一本も引っかけずに」


おじさんは、ごくりと唾を飲んだ。


「この大きさのビッグボアなら、猟師が十人がかりで槍を何十本も刺して、半日かけて弱らせるもんだ。それを、短剣一本で、一突きって……」


ゆっくりと、こちらを振り返る。


「……カイ。お前、いったい何をした」


「いえ、その……腹ならやわらかいと思って」


「やわらかいって話じゃねえんだよ……」


誰かが、ぽつりとつぶやいた。


「……本物の、暗殺者だ」


「兄ちゃん、すごい! やっぱり、何人もやってたんだ!」


「やってない! 人はゼロ人だ! これはビッグボアだ!」


人垣をかき分けて、ハンナさんがずんずん近づいてきた。


手には、おたま。


ごつん。俺の頭に。ごつん。クレアの頭に。


「二人だけで、こんな化け物に向かっていくやつがあるかい! 死んだらどうするんだよ!」


それから、ハンナさんは、おたまを放り出して、俺とクレアを、二人まとめて抱きしめた。


葬式の日と同じ、ものすごい力だった。包帯の下で、左腕が悲鳴をあげた。


「……ばかだよ、あんたたちは……二人とも、ばかだよ……」


その腕が、また、震えていた。


 ◇


宴が始まる前に、村の教会の神官様が、治癒の祈りを捧げてくれた。


しわだらけの手のひらが、俺の手と腕にかざされる。そこから、ろうそくの灯りのような、淡い光がにじんだ。


手のひらの火傷が治り、左腕の傷が、半分ほど、すうっと引いていく。


(おお、回復魔法……!)


感動した。初めて見た魔法だ。


だが、神官様は、首を横に振った。


「……わしの祈りでは、ここまでじゃな。浅い傷なら治せるが、ここまで傷が深いと、血を止めるのが関の山じゃ。」


ゲームみたいに、全回復とはいかないらしい。だがそれでも十分だ。


「さて、この後は宴会じゃな。傷は塞がっておらん。飲み過ぎんようにな。宴会で飲んでもええんかい?いー、ひっひっひっ」


こりゃ傑作じゃ、傑作が誕生したと満足そうな神父にお礼を言い、そっと退場した。


その後、左腕は、村の婆さんに、薬草を塗ってもらい、包帯を巻き直してもらった。


骨は無事だった。ただ、えぐれた肉がつながって、腕に力が戻るまで、ひと月はかかるという。


婆さんはにゃむにゃむと言いながら包帯を巻き終えると、自分の仕事に満足したのか、何度もうんうんとうなづき、黙ってサムズアップした。


ペシっと俺のおでこに葉っぱを貼り付けて帰っていった。


 ◇


広場では、ビッグボアの肉を囲んで宴が始まる。


俺はその様子をぼんやりと屋根裏部屋の窓から見ていた。


ろうそくに火をつけて、カイの手帳を開く。


地図にはまだ赤い印が残っていた。北の沢のダイアウルフ。山向こうの峠の、背中に棘の生えたアーマーベア。


ビッグボアは一頭目にすぎないのだ。


手帳の最後のほうのページは、雨ににじんでほとんど読めなかった。


かろうじて読めたのは最後の一行だけ。


『点をつなぐと――』


そこで、字は途切れていた。


閉じかけて、裏表紙の内側に小さな紋章が描かれていることに気づいた。


ランタンの中で燃える、一つの炎。


その下にカイの几帳面な字で。


『書庫へ報告すること。灯は消さない』


カイは一人で魔物を調べていたんじゃなかった。どこかの誰かに、この記録を報告していたのだ。


カイはいったい何者だったんだ。


 ◇


窓の外を二つの月が照らしていた。


今日、あの森で死にかけた。正直、もう二度とごめんだ。


この村で、三食昼寝つきの暮らしをして、のんびり生きていく。それが、俺の望んでいた「好きなように生きる」だったはずだ。


でも、北の沢のダイアウルフが村の羊を狙ったら。峠のアーマーベアが山を下りてきたら。


その時、村を守る「村の目」は、もういない。


カイは、それをたった一人でやっていた。誰にも言わずに。笑うことも忘れて。


俺はー


ハンナさんの店と、ポポの尻尾と、クレアの下手くそな笑い方を、守りたい。


それと、知りたい。


この体の持ち主が、何者だったのか。誰に、何を報告していたのか。そして、なぜ、崖から落ちて死んだのか。


だから、これは。


「好きなように生きる。だから、これは、俺が選んだ仕事だ」

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