ビッグボア変異種 前編
朝五時。
社畜の呪いが、今日ばかりはありがたかった。
まだ薄暗い食堂に下りると、ちょうどクレアが、背負い籠を担いで裏口から出ていくところだった。
「クレア。薬草採り、東の森だよね」
「そうだけど。何?」
「俺も行くよ。荷物持ちだから、いいだろ?」
クレアは、思いきり眉をひそめた。
「あんた、病み上がりでしょ」
「三日も休んだから、もう元気だよ」
本当のことは言えなかった。
カイの手帳に、三本角のビッグボアが薬草場の近くまで来ていると書いてあった。
そんなことを言えば、手帳を勝手に見たことも話さなきゃいけない。
それに、クレアは「じゃあ、なおさらわたしが行かなきゃ」と言い出しそうな気がした。
だから、荷物持ちだ。
クレアはしばらく俺の顔をじっと見ていたが、やがて、空の籠をもう一つ、俺に押しつけた。
「遅れたら、置いていくから」
背負い籠の下、クレアの腰には、細身の剣が一振り下がっていた。
鞘も柄も、使いこまれて黒ずんでいる。刃の幅は、指二本分もない。
「……薬草採りに、剣?」
「森には、魔物が出るの。護身用。おじいちゃんに、基本だけ習ってる」
クレアは、柄を、こつんと叩いた。
俺は屋根裏の壁から外してきた、カイの短剣を腰に差した。手帳は、懐に入れてある。
使うことがなければいいんだが。
心からそう思った。
◇
東の森は、村の裏手からなだらかに続く、明るい森だった。
木々の間から朝の光が差しこみ、足元には、名前のわからない草花が咲いている。
クレアは慣れた足取りで、ひょいひょいと進んでいく。
俺は、背負い籠を揺らしながら、その背中を追いかけた。
「これは、白鈴。熱冷まし。こっちは、赤糸草。傷の血止め」
クレアは歩きながら、草を指さして教えてくれる。
草を見分ける手に、迷いがない。葉の裏を一目見ただけで、摘むか捨てるかを決めていく。
「詳しいんだな」
素直に感心して言うと、クレアの手が、ぴたりと止まった。
「……そんなことない。これくらい、薬師見習いなら当たり前よ」
そっけない声だったが、髪の間からのぞく耳の先が、真っ赤になっていた。
見なかったことにして、目をそらす。
視界の端で、クレアの口元がニマッと緩んでいるように見えた。が、すぐに、きゅっと引き締まった。
しばらく黙々と葉を摘んでいると、クレアが、こちらを見ないまま口を開いた。
「ねえ」
「ん?」
「前のカイはね、そんなふうに笑わなかったよ」
手が、止まった。
「わたしたち、同じ揺りかごで育ったの。カイは赤ん坊の頃、村の入口に置かれてた子でね。母さんが引き取って、ちょうど生まれたばかりのわたしと、一緒に育てた」
孤児。
この体の持ち主は、親を知らない子だったのか。
「小さい頃は、よく笑ってた。でも、三年、いや四年くらいかしら。見回りをするようになってから、どんどん笑わなくなった。朝から晩まで見回り。夜も、ふらっと出かけていく。話しかけても、『ああ』とか『そうか』とか、それだけ」
クレアは、摘んだ葉を籠に放りこんだ。
「今のあんたのほうが、楽しそう。村の子たちも懐いてるし、母さんもよく笑うようになった」
「……それ、ほめてる?」
「ほめてない」
クレアの横顔は、怒っているのでも、悲しんでいるのでもなかった。何かを、こらえている顔だった。
「前のカイも、そんなふうに笑えばよかったのに」
俺は、何も言えなかった。
家族のために、働きづめに働いて、笑うことを忘れた男。
それは。
両親を亡くしたあと、十五歳だった妹を大学まで行かせるため、終電まで働き続けた俺と、どこか似ていた。
ひなたのために働いているはずだった。なのに、ひなたのことを、見れていなかった。
カイも、きっと同じだったのだ。
村を守るために、一人で魔物を調べ続けて。そのせいで、いちばん近くにいるクレアに、寂しい思いをさせていた。
懐の手帳が、少しだけ重く感じた。
◇
最初に気づいたのは、音だった。
鳥の声が、消えていた。
さっきまで、うるさいくらいに鳴いていたのに。
森が、しんと静まり返っている。
「……クレア」
「しっ」
クレアも、気づいていた。籠を下ろし、腰の細身の剣に手をかけている。
風に乗って、生臭い匂いがした。獣の匂い。それと、何かが腐ったような匂い。
めきっ。
前方の茂みの奥で、若木が一本、折れた。
めき、めきめきっ。
木を、なぎ倒しながら、何かが近づいてくる。
そして、茂みが割れた。
ビッグボアだった。
角の生えた、大きな猪の魔物。ゆうべ、食堂で聞いた名前だ。
普通のビッグボアは、子牛くらいの大きさで、角は鼻先に一本だけだという。
こいつは、違った。
手帳には、牛ほどの大きさ、とあったが・・・。
(全っ然違うじゃねえか!)
牛どころじゃなかった。
車だ。日本の道を走っていた、ワゴン車ほどもある。
もの○け姫の序盤に出てくる巨大な猪みたいだ。
背中は、苔むした岩のようにごつごつと盛り上がっている。
鼻から額にかけて、角が三本、縦一列に並んでいる。
鼻先の一本が一番長い。
俺の腕より、まだ長い。
小さな目が、赤く濁っていた。
「……変異、してるんだ」
声が漏れた。
手帳の、どのページにも書いてあった二文字。普通のビッグボアじゃない。普通じゃない何かに、変わってしまったビッグボアだ。
モンスターを初めて見た。
それは想像を超えて巨大で、生々しく、獣臭く、死の予感を容赦なく突きつけてくる。
恐怖で呼吸が早くなる。
足が、地面に縫いつけられたように動かない。
ビッグボアが、鼻を鳴らした。
頭を低くする。三本の角が、まっすぐこちらを向く。
後ろ足が、地面をかいた。
来る。
ヤバい、どうしたらいい?どっちに逃げたらいい?来る来る来る!!
「カイっ!」
腕を、ぐいっと引かれた。
クレアだった。
俺の腕をつかんで、思いきり引き飛ばす。
さっきまで俺が立っていた場所を、ビッグボアの巨体が、轟音とともに駆け抜けていった。地面がえぐれ、土と草が、雨のように降ってくる。
俺は、クレアと一緒に、大木の陰に転がりこんだ。
腕に、クレアの指の跡がじんじんと残っている。
――あの日、妹の腕を引いたのは、俺だったのに。
今度は、引かれる側だった。
「何ぼーっとしてんのよ、ばか!」
クレアが、息を荒くしながら怒鳴った。その手も、震えていた。
◇
ビッグボアは、少し先で足を止めて、こちらへ向き直っていた。
鼻をひくつかせて、匂いを探している。
俺とクレアは、大木の幹に背中を押しつけて、息を止めた。
ビッグボアが、ゆっくりと、こちらへ歩いてくる。大木を、回りこむように。
幹一本では、隠れきれない。
横に回られたら、二人とも丸見えだ。
(消えろ。消えろ)
背中を丸める。呼吸を、浅く、細く、長く。いつもの、あの姿勢。
でも、だめだった。
すぐ隣で、クレアが、俺の顔を見ていた。
誰かに見られている間は、消えられない。かくれんぼで、さんざん確かめたことだ。それは、味方の目でも、同じだった。
それに、たとえ俺一人が消えたって、クレアは消えられない。
「……カイ」
クレアが、唇だけで言った。
「あんた、隠れるの、得意でしょ」
「……え」
「食い逃げの時から、ずっと見てた。あんたのいるとこ、ときどき、わたしにも見えなくなる」
気づかれていた。
クレアは、ふっと笑った。こわばった、下手くそな笑い方だった。
「だったら、あんたは隠れてなさい。あいつは、わたしが引きつける」
「は? 何言って――」
止める間もなかった。
クレアは、ビッグボアが回りこんでくるのとは反対の側から、大木の陰を飛び出した。そして、わざと大きな声をあげた。
「こっちよ、豚っ!」
ビッグボアが、吠えた。
地面を蹴り、クレアを追う。
クレアは、木と木の間を縫うように走った。ビッグボアの巨体が、そのたびに木の幹にぶつかり、樹皮が弾け飛ぶ。
大木の陰に、俺だけが残された。
誰も、俺を見ていない。
緊張で浅くなった息を、なんとか殺す。背中を丸める。
今度は、体のまわりに、薄い膜が張った。膜の内側で、森の色が一段沈み、音が遠くなる。
クレアの足が、太い木の根元で止まった。
その先は、切り立った岩場だった。俺の隠れている大木から、二十歩ほど先だ。
追いつめられた。
クレアは、岩を背にして、細身の剣を構えた。半身になって、切っ先を、まっすぐビッグボアに向ける。
素人の俺が見ても、きれいな構えだった。腰が落ちて、背筋が通って、体の線がまっすぐに切っ先へ集まっている。おじいさんに基本だけ習った、と言っていたな。
だが、その切っ先が、小刻みに震えている。
そして、剣が細い。刃の幅は、指二本分もない。軽くて、まっすぐで、打ち合いができそうにない。
ビッグボアの背中は、苔むした岩だ。肩も、首も、ごつごつとした灰色の塊に覆われている。
あの剣では、どう見ても通らない。縫い針で、石垣を刺そうとするようなものだ。
刃の立つ場所なんて、どこにもない。
クレアにも、それは、わかっているはずだった。
それでも、切っ先は、下がらなかった。
ビッグボアが、ゆっくりと、頭を下げた。
俺は、大木の陰で、息を殺したまま、それを見ていた。
ビッグボアがいることは知っていた。
ゆうべ、手帳で読んでいた。三本角。背は岩のように固く、刃が通らない。
『薬草場まで、あと半日。』
そのメモを見たから、ついてきたんだ。
守るつもりで。
でも、恐怖でその覚悟は吹き飛ばされた。
逃げたい。
頭の中が、その一言で埋まった。
隠れていれば、俺は助かる。ビッグボアは、クレアしか見ていない。今なら、来た道を戻れる。
森を出て、村まで走れる。誰にも、見られずに。
俺の足が、一歩、後ろに下がった。
勝手に、じゃない。俺が、下げたのだ。
足の裏で、落ち葉が、かさりと鳴った。
その音で、我に返った。
――ちょっと待て。今、俺は、何をしようとした。
指先が、氷みたいに冷たかった。
知っている。この感じを、知っている。
隣の席の佐伯が、部長に詰められていた時。俺は、こうして息を殺して、聞こえないふりをした。怖くなったら、気配を消して、嵐が過ぎるのを待つ。誰かが追いつめられていても、自分だけは、やり過ごす。
いつもそうだ。気配を消して、やり過ごすのが俺だった。
六年間、ずっと、そうやって生きてきた。
臆病で、無責任な、俺のまま。
……何のために、ここに来た。
荷物持ちだなんて、嘘をついてまで。
手帳を読んで、クレアが毎朝行く薬草場に、こいつが迫っていると知って。それで、ついてきたんだろう。
守るためだ。
ここでまた逃げたら、俺は、一生、あの頃の俺のままだ。死んで、生まれ変わって、世界まで変わったのに。
変わるんだ。
今、ここで。
下がった足を、もう一度、前に戻した。
『背は岩のように固く、刃が通らない。火を嫌う。腹はやわらかい。前足を上げた瞬間が狙い目』
カイ先輩が、命がけで調べた、このビッグボアの倒し方。
そして、クレアの腰には、薬草をいぶすための、火打ち石の小袋がぶら下がっている。
まだ、手はある。
今まで、《隠密》は、自分が見つからないために使ってきた。食堂のカウンターの陰でも、かくれんぼでも、さっきの大木の陰でも。
でも、今度は違う。
隠れるためじゃない。誰かを、助けるために、使う。
俺は、息を殺したまま、大木の陰から一歩、踏み出した。
そして、腹の底から叫んだ。
「クレア、火だ! 時間は、俺が作る!」
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