↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
3/21

三食昼寝つき、残業なし

それから、三日が過ぎた。


結論から言うと、異世界は天国だった。


まず、朝ごはんが出る。


焼きたての黒麦《くろむぎ》のパンと、根菜のスープ。


黒麦のパンは硬いので、スープにつけて食べる。


そのスープには、香草が浮いていて、ひと口ごとに、香りがすうっと鼻から抜ける。


それを、ちゃんと座って食べる時間がある。


日本にいた頃は、立ったままコンビニのパンを流しこんでいた。朝食なんて三十秒だ。


最初の朝、俺はスープを一口飲んで、感動でしばらく動けなくなった。


次に、仕事が昼で終わる。


食堂で昼の客をさばいたら、夕方の営業まで自由。


教会の鐘が昼を告げると、村中の人が家に籠もる。次の鐘が鳴るまでの「昼籠り《ひるごもり》」と呼ばれる時間で、その間、村の人たちは本当に昼寝をしている。


鍛冶屋も、畑の一家も、薬草園のおばあさんも、みんな昼になると家に帰って、ぐうぐう寝ている。


それを知った日、俺は食堂の裏の木陰で、男泣きをした。


「昼寝って、合法なんだ……」


日本では会議中にまぶたが落ちかけただけで、名指しで怒鳴られた。


「きっとここは天国だ。やっぱり俺は死んだんだ。夢を見ているんだ。」


「何言ってんの、あんた」


声のほうを見ると、クレアが洗濯かごを抱えて、あきれた顔で立っていた。


喪服ではなく、肩口の少し開いた白いブラウスに、深緑の編み上げのベストと、膝上のスカート。


その上に、薬草の染みがついた白い前掛け。腰には、薬草袋と、火打ち石の小袋。


高いところで結んだ明るい茶色の髪は、日に透けて金色に見えた。

結んでいるのは、ハンナさんのエプロンと同じ、深緑の端切れだった。


並んで立つと、クレアの頭のてっぺんは、俺の鼻のあたりまでしかない。

なのに、見下ろされている気がするのは、なぜだろう。


クレアは毎朝、東の森へ薬草を採りに行き、村はずれの薬草園で仕分けをして、それを食堂の料理や村の薬にしている。


「あと、あれやめて。お客さんにお皿出すたびに、腰を九十度に曲げるの。みんな気持ち悪がってるわよ。」


とはいえ、体に染みついた角度だった。


お辞儀は九十度。常識だ。


「そ、そうか?わかった。では四十五度にする」


「ゼロにしなさいよ」


「ゼロは無理だ。せめて十五度」


クレアの頬が、ぷくっとふくらんだ。


「もう、好きにしなさい!」


ふくれっ面のまま、ぱん、と洗濯物を一枚はたいて、クレアは干し始めた。干しながらも、まだ口の中で「十五度って何よ……」とぶつぶつ言っている。


背伸びをして、物干し竿の端に布をかける。


その拍子に、シャツの裾が少しだけめくれて、細い腰がちらりと見えた。


……おお、神よ。創造と美の神よ。


なんと罪深き曲線をこの辺境に配置したもうたのか。


細く引き締まったウエストから腰布へと流れるあの陰影は、もはや美術史における至高のレリーフではないか。


見よ、あの無駄のないラインを。いま、世界はアール・ヌーヴォーを超えた!


こんな感じで俺はこの世界を存分に満足している。


 ◇


さて、触れないことにしていたが、自分の中では、ずっと気になっていた。


刻み石に刻まれていた《隠密》。あれが本物だということは、食い逃げ騒ぎでわかった。


石には「じっとしている間だけ」とあったのに、ゆっくりなら歩けたことも。


でも、どこまでできて、何をしたら解けるのか。


決まりがわからないままでは、怖くて使えない。使い方のわからない力ほど、怖いものはない。


それに、正直に言えば、下心もあった。


この力が使えるなら、俺は、この村で役に立てる。役に立てば、ここにいていい理由になる。


中身が別人だとばれた時に、追い出されずに済む理由に。


だから、確かめることにした。


「ポポ。かくれんぼしよう」


「する!」


ポポと村の子どもたち相手に、毎日の昼寝の時間を使って、俺はいくつかのことを確かめた。


一つ。息を殺して、じっとしていると、目の前にいても気づかれない。ただし、そこに「いる」ことがわかっていれば気づかれる。


二つ。誰かに見られている状態からは、消えられない。


三つ。声を出したり、大きく動いたりすると、解ける。ただし、ゆっくり歩くくらいなら、解けない。


結論。


これは、逃げるための力だ。


このスキルは、剣を振る力でも、魔法を撃つ力でもない。


隠れて誰にも気づかれずやり過ごし、誰にも気づかれずに逃げる力。


……会社で六年間やってきたことと、まったく同じだった。


異世界に来てまで、俺の特技は「空気になること」なのか。


 ◇


その夜。


食堂は、仕事帰りの村の男たちでにぎわっていた。


俺は皿を運びながら、男たちの話し声を、聞くともなしに聞いていた。


「また出たらしいぞ。東の森で、角が三本あるビッグボアだ」


木こりの男が、酒の入った杯を傾けながら言った。


「三本? ありゃ普通、一本だろう」


「それが、三本なんだよ。それも、牛みたいにでかいやつだ。普通のビッグボアなら、せいぜい子牛くらいだろ。岩みたいな皮が、背中から頭まで覆っているって話だ」


「北の沢のダイアウルフも、群れがでかくなってるって聞いたぞ」


「最近、多いんだよ。変なふうに育った魔物が。去年は、こんなじゃなかった」


「町の冒険者組合に、退治を頼めねえのか」


「頼めるもんなら、とっくに頼んでる。三本角の大物なんざ、Cランクの冒険者を三人は呼ばなきゃならねえ。村中の蓄えをはたいても、足りやしねえよ」


男たちが、そろって顔をしかめた。


東の森。


クレアが毎朝、薬草を採りに行く森だ。


「そういや、カイの坊主も、それを調べてたって話じゃなかったか」


ふいに自分の名前が出て、皿を持つ手が止まった。


「ああ。夜な夜な森に入ってたのは、そのためだって――」


気配を消していたわけではない。普通に皿を運んでいただけだ。ただ、男たちは話に夢中で、俺がすぐ横に立つまで気づかなかった。


男の一人が、そこで、ようやく俺に気づいた。


テーブルのすぐ横に、皿を持って立っている、カイ本人に。


男たちは、気まずそうに顔を見合わせ、わざとらしく咳払いをして、話題を変えた。


俺は、何も聞かなかったふりをして、皿を下げた。


十五度のお辞儀で。


 ◇


片づけを終えて、屋根裏の部屋に戻った。


ベッドと、小さな机と、服をしまう木箱。壁には、使いこんだ短剣が一振り、掛けてある。


木箱の中には、生成りのシャツが何枚かと、くすんだ革のベスト。床には、底の柔らかい革の長靴が一足。どれも、カイのものだ。今、俺が着ているのも。


この部屋は、もともと、本当のカイの部屋だ。


本当のカイは、無口で、真面目で、あまり笑わない男だったらしい。


職業は盗賊。といっても、何かを盗んでいたわけではない。


身軽で、目と耳が誰よりも利くのを活かして、村のまわりの見回りや、魔物の見張りをしていた。


村の人たちからは「村の目」と呼ばれていたそうだ。


そして、夜になると、ふらりとどこかへ出かけていく。


「見回りだって言ってたけどねえ。あんな遅くまで、何を見回ることがあったんだか」


ハンナさんが、昼間、鍋をかき混ぜながら、寂しそうにそう言っていた。


その答えが、さっきの男たちの話なのだろうか。


「……すみません、ちょっと見させてもらいます」


誰もいない部屋で、十五度のお辞儀をした。


机の引き出しを開ける。ろうそくの燃えさし、紐、小さな砥石。


引き出しの底を、指で叩いた。


こつ、と、軽い音がした。


底が、薄い。


この体の指が、勝手に動いた。


盗賊だった、前のカイの指が覚えていたのだろう。底板の端に爪をかけると、板が、ことりと外れた。


二重底だ。


中には、手のひらほどの革の手帳と、布で包んだ小さな包みが入っていた。


二重底とは、これはこれは。だったらこの手帳はデ○ノートだろうか。


布の包みには、几帳面な字で、こう書かれていた。


『クレアへ』


……おっと、これは、俺が開けていいものじゃない。


包みは、そっと元の場所に戻した。


デ○ノートもとい、手帳を開く。


びっしりと、細かい字が並んでいた。


日付。場所。魔物の特徴。そして、ところどころに、炭で描いたスケッチ。


どのページにも、見出しのように、同じ二文字が書きこまれていた。


『変異』


普通の魔物が、普通じゃない姿に変わってしまった、ということだろうか。


『北の沢。ダイアウルフ。五頭の群れ。人を恐れない。夜に動く。光に弱い』


『山向こうの峠。アーマーベア。背中に棘が生えている(普通のアーマーベアに棘はない)。左の後ろ脚をかばう癖あり』


アーマーベア。名前からして、鎧みたいに硬い毛皮の熊の魔物だろう。


ただの記録ではなかった。


どの魔物にも、必ず、弱点が書き添えてある。


どこが固く、どこがやわらかいか。何を嫌うか。どの瞬間に隙ができるか。


カイは、魔物を調べていただけじゃない。


どうすれば倒せるかを、調べていたのだ。


一人で。夜な夜な。誰にも言わずに。


ページをめくる手が、自然と、丁寧になっていた。


攻略本だ、と思った。それも、たった一人で、命がけで書いた攻略本。


俺は、会ったこともないこの男に、頭が下がる思いがした。


心の中で、そっと呼び方を決めた。


カイ先輩。年下だけど、尊敬に値する。だから先輩だ。


この手帳は、先輩の教本だ。書いてあることは、一行たりとも、ないがしろにしない。


手帳の間に、折りたたんだ紙が挟まっていた。


広げると、村のまわりの地図だった。手描きの地図に、赤い印がいくつもつけられている。


一番古い印は、半年前。山の向こう。


三か月前。北の沢。


一か月前。東の森の奥。


印が、少しずつ、村に近づいている。


俺は、手帳の一番新しいページをめくった。


日付は、カイが崖から落ちる、前の日だった。


『東の森。ビッグボア。角が三本(普通は一本)。牛ほどの大きさ(普通は子牛ほど)。背は岩のように固く、刃が通らない。火を嫌う。腹はやわらかい。前足を上げた瞬間が狙い目。』


『森の入口の薬草場まで、あと半日の距離。急ぐこと』


森の入口の薬草場。


クレアが、毎朝行く場所だ。


あと半日の距離だと。


これを書いて、何日経ったんだ。


クレアを、一人で行かせてはいけない。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます!


もし少しでも「面白い!」「続きが読みたい!」と思っていただけましたら、


ページ一番下にある、


【☆☆☆☆☆】を

【★★★★★】にして評価をいただけると、


作者のモチベーションが爆上がりし、更新速度が上がります!


ブックマーク登録もぜひよろしくお願いします!


次回は明日19時頃に更新予定です。引き続きよろしくお願いいたします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。