三食昼寝つき、残業なし
それから、三日が過ぎた。
結論から言うと、異世界は天国だった。
まず、朝ごはんが出る。
焼きたての黒麦のパンと、根菜のスープ。
黒麦のパンは硬いので、スープにつけて食べる。
そのスープには、香草が浮いていて、ひと口ごとに、香りがすうっと鼻から抜ける。
それを、ちゃんと座って食べる時間がある。
日本にいた頃は、立ったままコンビニのパンを流しこんでいた。朝食なんて三十秒だ。
最初の朝、俺はスープを一口飲んで、感動でしばらく動けなくなった。
次に、仕事が昼で終わる。
食堂で昼の客をさばいたら、夕方の営業まで自由。
教会の鐘が昼を告げると、村中の人が家に籠もる。次の鐘が鳴るまでの「昼籠り《ひるごもり》」と呼ばれる時間で、その間、村の人たちは本当に昼寝をしている。
鍛冶屋も、畑の一家も、薬草園のおばあさんも、みんな昼になると家に帰って、ぐうぐう寝ている。
それを知った日、俺は食堂の裏の木陰で、男泣きをした。
「昼寝って、合法なんだ……」
日本では会議中にまぶたが落ちかけただけで、名指しで怒鳴られた。
「きっとここは天国だ。やっぱり俺は死んだんだ。夢を見ているんだ。」
「何言ってんの、あんた」
声のほうを見ると、クレアが洗濯かごを抱えて、あきれた顔で立っていた。
喪服ではなく、肩口の少し開いた白いブラウスに、深緑の編み上げのベストと、膝上のスカート。
その上に、薬草の染みがついた白い前掛け。腰には、薬草袋と、火打ち石の小袋。
高いところで結んだ明るい茶色の髪は、日に透けて金色に見えた。
結んでいるのは、ハンナさんのエプロンと同じ、深緑の端切れだった。
並んで立つと、クレアの頭のてっぺんは、俺の鼻のあたりまでしかない。
なのに、見下ろされている気がするのは、なぜだろう。
クレアは毎朝、東の森へ薬草を採りに行き、村はずれの薬草園で仕分けをして、それを食堂の料理や村の薬にしている。
「あと、あれやめて。お客さんにお皿出すたびに、腰を九十度に曲げるの。みんな気持ち悪がってるわよ。」
とはいえ、体に染みついた角度だった。
お辞儀は九十度。常識だ。
「そ、そうか?わかった。では四十五度にする」
「ゼロにしなさいよ」
「ゼロは無理だ。せめて十五度」
クレアの頬が、ぷくっとふくらんだ。
「もう、好きにしなさい!」
ふくれっ面のまま、ぱん、と洗濯物を一枚はたいて、クレアは干し始めた。干しながらも、まだ口の中で「十五度って何よ……」とぶつぶつ言っている。
背伸びをして、物干し竿の端に布をかける。
その拍子に、シャツの裾が少しだけめくれて、細い腰がちらりと見えた。
……おお、神よ。創造と美の神よ。
なんと罪深き曲線をこの辺境に配置したもうたのか。
細く引き締まったウエストから腰布へと流れるあの陰影は、もはや美術史における至高のレリーフではないか。
見よ、あの無駄のないラインを。いま、世界はアール・ヌーヴォーを超えた!
こんな感じで俺はこの世界を存分に満足している。
◇
さて、触れないことにしていたが、自分の中では、ずっと気になっていた。
刻み石に刻まれていた《隠密》。あれが本物だということは、食い逃げ騒ぎでわかった。
石には「じっとしている間だけ」とあったのに、ゆっくりなら歩けたことも。
でも、どこまでできて、何をしたら解けるのか。
決まりがわからないままでは、怖くて使えない。使い方のわからない力ほど、怖いものはない。
それに、正直に言えば、下心もあった。
この力が使えるなら、俺は、この村で役に立てる。役に立てば、ここにいていい理由になる。
中身が別人だとばれた時に、追い出されずに済む理由に。
だから、確かめることにした。
「ポポ。かくれんぼしよう」
「する!」
ポポと村の子どもたち相手に、毎日の昼寝の時間を使って、俺はいくつかのことを確かめた。
一つ。息を殺して、じっとしていると、目の前にいても気づかれない。ただし、そこに「いる」ことがわかっていれば気づかれる。
二つ。誰かに見られている状態からは、消えられない。
三つ。声を出したり、大きく動いたりすると、解ける。ただし、ゆっくり歩くくらいなら、解けない。
結論。
これは、逃げるための力だ。
このスキルは、剣を振る力でも、魔法を撃つ力でもない。
隠れて誰にも気づかれずやり過ごし、誰にも気づかれずに逃げる力。
……会社で六年間やってきたことと、まったく同じだった。
異世界に来てまで、俺の特技は「空気になること」なのか。
◇
その夜。
食堂は、仕事帰りの村の男たちでにぎわっていた。
俺は皿を運びながら、男たちの話し声を、聞くともなしに聞いていた。
「また出たらしいぞ。東の森で、角が三本あるビッグボアだ」
木こりの男が、酒の入った杯を傾けながら言った。
「三本? ありゃ普通、一本だろう」
「それが、三本なんだよ。それも、牛みたいにでかいやつだ。普通のビッグボアなら、せいぜい子牛くらいだろ。岩みたいな皮が、背中から頭まで覆っているって話だ」
「北の沢のダイアウルフも、群れがでかくなってるって聞いたぞ」
「最近、多いんだよ。変なふうに育った魔物が。去年は、こんなじゃなかった」
「町の冒険者組合に、退治を頼めねえのか」
「頼めるもんなら、とっくに頼んでる。三本角の大物なんざ、Cランクの冒険者を三人は呼ばなきゃならねえ。村中の蓄えをはたいても、足りやしねえよ」
男たちが、そろって顔をしかめた。
東の森。
クレアが毎朝、薬草を採りに行く森だ。
「そういや、カイの坊主も、それを調べてたって話じゃなかったか」
ふいに自分の名前が出て、皿を持つ手が止まった。
「ああ。夜な夜な森に入ってたのは、そのためだって――」
気配を消していたわけではない。普通に皿を運んでいただけだ。ただ、男たちは話に夢中で、俺がすぐ横に立つまで気づかなかった。
男の一人が、そこで、ようやく俺に気づいた。
テーブルのすぐ横に、皿を持って立っている、カイ本人に。
男たちは、気まずそうに顔を見合わせ、わざとらしく咳払いをして、話題を変えた。
俺は、何も聞かなかったふりをして、皿を下げた。
十五度のお辞儀で。
◇
片づけを終えて、屋根裏の部屋に戻った。
ベッドと、小さな机と、服をしまう木箱。壁には、使いこんだ短剣が一振り、掛けてある。
木箱の中には、生成りのシャツが何枚かと、くすんだ革のベスト。床には、底の柔らかい革の長靴が一足。どれも、カイのものだ。今、俺が着ているのも。
この部屋は、もともと、本当のカイの部屋だ。
本当のカイは、無口で、真面目で、あまり笑わない男だったらしい。
職業は盗賊。といっても、何かを盗んでいたわけではない。
身軽で、目と耳が誰よりも利くのを活かして、村のまわりの見回りや、魔物の見張りをしていた。
村の人たちからは「村の目」と呼ばれていたそうだ。
そして、夜になると、ふらりとどこかへ出かけていく。
「見回りだって言ってたけどねえ。あんな遅くまで、何を見回ることがあったんだか」
ハンナさんが、昼間、鍋をかき混ぜながら、寂しそうにそう言っていた。
その答えが、さっきの男たちの話なのだろうか。
「……すみません、ちょっと見させてもらいます」
誰もいない部屋で、十五度のお辞儀をした。
机の引き出しを開ける。ろうそくの燃えさし、紐、小さな砥石。
引き出しの底を、指で叩いた。
こつ、と、軽い音がした。
底が、薄い。
この体の指が、勝手に動いた。
盗賊だった、前のカイの指が覚えていたのだろう。底板の端に爪をかけると、板が、ことりと外れた。
二重底だ。
中には、手のひらほどの革の手帳と、布で包んだ小さな包みが入っていた。
二重底とは、これはこれは。だったらこの手帳はデ○ノートだろうか。
布の包みには、几帳面な字で、こう書かれていた。
『クレアへ』
……おっと、これは、俺が開けていいものじゃない。
包みは、そっと元の場所に戻した。
デ○ノートもとい、手帳を開く。
びっしりと、細かい字が並んでいた。
日付。場所。魔物の特徴。そして、ところどころに、炭で描いたスケッチ。
どのページにも、見出しのように、同じ二文字が書きこまれていた。
『変異』
普通の魔物が、普通じゃない姿に変わってしまった、ということだろうか。
『北の沢。ダイアウルフ。五頭の群れ。人を恐れない。夜に動く。光に弱い』
『山向こうの峠。アーマーベア。背中に棘が生えている(普通のアーマーベアに棘はない)。左の後ろ脚をかばう癖あり』
アーマーベア。名前からして、鎧みたいに硬い毛皮の熊の魔物だろう。
ただの記録ではなかった。
どの魔物にも、必ず、弱点が書き添えてある。
どこが固く、どこがやわらかいか。何を嫌うか。どの瞬間に隙ができるか。
カイは、魔物を調べていただけじゃない。
どうすれば倒せるかを、調べていたのだ。
一人で。夜な夜な。誰にも言わずに。
ページをめくる手が、自然と、丁寧になっていた。
攻略本だ、と思った。それも、たった一人で、命がけで書いた攻略本。
俺は、会ったこともないこの男に、頭が下がる思いがした。
心の中で、そっと呼び方を決めた。
カイ先輩。年下だけど、尊敬に値する。だから先輩だ。
この手帳は、先輩の教本だ。書いてあることは、一行たりとも、ないがしろにしない。
手帳の間に、折りたたんだ紙が挟まっていた。
広げると、村のまわりの地図だった。手描きの地図に、赤い印がいくつもつけられている。
一番古い印は、半年前。山の向こう。
三か月前。北の沢。
一か月前。東の森の奥。
印が、少しずつ、村に近づいている。
俺は、手帳の一番新しいページをめくった。
日付は、カイが崖から落ちる、前の日だった。
『東の森。ビッグボア。角が三本(普通は一本)。牛ほどの大きさ(普通は子牛ほど)。背は岩のように固く、刃が通らない。火を嫌う。腹はやわらかい。前足を上げた瞬間が狙い目。』
『森の入口の薬草場まで、あと半日の距離。急ぐこと』
森の入口の薬草場。
クレアが、毎朝行く場所だ。
あと半日の距離だと。
これを書いて、何日経ったんだ。
クレアを、一人で行かせてはいけない。
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