気配のない男
# 序章 第2話 気配のない男
※ 2026-10-10 第4稿(1話の刻み石で《隠密》を知っている前提に直し、物語に影響のない描写を削って短くした。前の版は `old/` に保存)
※ 2026-10-11 ゴロツキを追い払ったあとを短くし、隠密を解いた瞬間の目の燐光(男の瞳に青白い光が映る)を追加
※ 2026-10-12 隠密の見え方(体のまわりに薄い膜が張り、色が沈み、音が遠くなる。解けると膜が割れる)をそろえた
※ 2026-10-12 隠密が解ける時は、膜がすっと消える(ぱちんと割れない)
※ 2026-10-13 ラストに、震える手を見るクレアのあきれ混じりのジト目とつぶやきを追加
※ ルビはなろうの書式(漢字)
※ 前の話は [[本文_序章_第1話]]、次の話は [[本文_序章_第3話]]
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グッモーニン!朝だ。
まだ夜明け前。時刻は5時だ。
なぜ時計もスマホもないのに時間がわかるのかって?
社畜として6年飼い慣らされた俺は、自動的に5時に目が覚めるのさ。
この体はカイのものなのに、目覚める時間だけは俺のままらしい。魂に刻まれた社畜の呪いか。
やれやれ、と思い二度寝をしようと目を閉じ、羊を数えた。
四匹目の羊が部長の顔だったので、数えるのをやめて、布団を出た。
◇
屋根裏から、きしむ階段を下りていく。二階の廊下を抜けて、一階の食堂へ。
台所の桶の水で顔を洗おうと、のぞきこんだ。
そこには新しい俺の顔が映っていた。
歳は10代後半。くせのある明るい茶髪に、穏やかで、警戒心のかけらもなさそうな茶色の目。背丈は生前の俺と同じ175cmくらいで、よく引き締まっている。
正直、元の俺よりだいぶいい。
◇
顔を洗うと、ハンナさんが、かまどに火を入れているところだった。
「おや、早いね。まだ寝てていいんだよ、病み上がりなんだから」
「いえ、大丈夫です! 僕にも、何か手伝えることはありますか?」
「……あんた、そんな話し方だったっけ?」
しまった。
「あー、いや、その。頭打ってから、なんか、こう。」
「まあいいさ。前のあんたは、この時間はもう見回りに出てたからね。」
見回り。この体の持ち主も、毎朝5時から働いていたらしい。社畜だったのだろうか。
「でもお世話になるんですから、俺も働きます。具体的には、一日二十時間くらいまで行けます。」
「はーっはっは!冗談は言えるんだね。そんなに働けるわけないだろう。じゃ、とりあえず芋の皮むきをお願いしようかね」
本当なんだけどな、と思いつつ俺は、包丁を握った。
◇
昼前。食堂が開くと、客がぽつぽつと入ってきた。
そして全員が、俺を見て、一瞬だけ「おっ」という顔をした。死んで生き返った男。村の新しい話題の中心だ。
「よう、暗殺者。スープひとつ頼むわ」
「おい暗殺者、毒は入れるなよ」
天職の名前が、そのままあだ名になっていた。
「入れませんよ!そもそも、毒なんて持ってません!」
窓の外には、子どもたちが鈴なりになっていた。
その先頭に、狐のような耳とふさふさの尻尾を持つ、獣人の男の子がいた。
背は俺の腰くらいで、泥だらけのシャツに、つぎはぎのズボン。
八歳くらいの、ポポという子だ。
店の前で野菜を売っている獣人の奥さんの、末っ子らしい。
「カイ兄ちゃん、暗殺者になったんでしょ! ねえ、何人やったの?」
「やってない! 一人もやってない! ゼロ人だ!」
「えー、つまんない」
「つまらなくていいんだよ!」
◇
事件が起きたのは、昼の客が一段落した頃だった。
食堂の扉が、乱暴に開いた。
入ってきたのは、見慣れない男が二人。一人は熊のように大柄で、もう一人は痩せていて、目つきが鋭い。旅装束に、腰には短い剣。
二人はどかりと椅子に座り、酒と肉を注文した。食べるだけ食べて、飲むだけ飲んで、それから、のっそりと立ち上がった。
「いやあ、うまかった。じゃあな」
金を払う気配は、まったくない。
「ちょいと、お兄さんたち。お代がまだだよ」
ハンナさんが、おたまを手に、二人の前に回りこんだ。
「お代? この辺境の村で、こんなまずい飯に金を取るのか?」
「さっき、うまかったって言ったじゃないか」
「気が変わったんだよ」
その時、店の外から、小さな悲鳴が聞こえた。
痩せたほうの男が、いつの間にか店の前に出て、ポポのお母さんの露店を蹴り倒していた。籠がひっくり返り、赤い実や青菜が、地面に散らばる。ポポが震えながら、母親の服の裾をつかんでいた。
食堂の客たちは、誰も動かなかった。相手は腰に剣を下げた、よそ者の男二人だ。村の人たちは、農夫や職人だ。
ハンナさんだけが、おたまを握りしめて、大柄な男をにらみつけていた。
「お代を払って、出ていきな」
「おばさん、俺たちとやる気か?」
大柄な男が、腰の剣に手をかけた。
俺は。
カウンターの陰で、固まっていた。
男の怒鳴り声。乱暴な物音。威圧する目つき。
机を叩き大声で怒鳴る部長。床に散らばる書類。
――なんでこんなことも出来ないんだ!
――なんとか言ってみろ!口も聞けんのか!
――お前みたいなやつは、いてもいなくても同じだ!
体が、勝手に、あの姿勢をとっていた。
背中を丸める。肩をすぼめる。呼吸を浅く、細く、長く。視線は上げない。音を立てない。
指先が、冷たくなっていく。胃の中のものが、喉元までせり上がってくる。耳の奥で、きいん、と高い音が鳴る。
目立たなければ、怒られない。六年間、何百回もそうやって、嵐が過ぎるのを待ってきた。
隣の席の佐伯が、毎日のように部長に詰められていた時も俺は、こうして、息を殺していた。
佐伯が詰められている時、目が合ったことがある。あの時、俺はサッと目を逸らした。
見ていないふりをしていた。聞こえないふりをしていた。そこにいないふりをしていた。
佐伯は、ある朝から、会社に来なくなった。心を病んだのだと、人づてに聞いた。俺は、見舞いにも行けなかった。合わせる顔が、なかった。
それに、今だって。ここで出ていけば、目立つ。せっかく手に入れた居場所を、なくすかもしれない。隠れていれば、少なくとも、俺は安全だ。
……でも。
震える手で野菜を拾い集めるポポのお母さん。泣くのをこらえているポポ。おたま一本で、剣を持った男の前に立っているハンナさん。
――暗殺者でもなんでも、いいよ。生きてりゃ、いいんだよ。
昨日、俺を抱きしめてくれた人だ。
このまま、カウンターの陰で、嵐が過ぎるのを待つのか。佐伯を見て見ぬ振りしたあの時と、同じように。
その時、昨日の刻み石の一行が、頭をよぎった。
《隠密》熟練度1。息を殺し、じっとしている間だけ、姿と気配を隠す。
頭の、どこか冷えた部分が、計算を始めていた。
相手は二人。腰に剣。正面から行けば、三秒でゲームオーバーだ。でも、今、この食堂で、俺を見ているやつは、一人もいない。
試すだけなら、ただだ。
息を、殺す。
その瞬間・・・
体のまわりに、スゥッと薄い膜が一枚、張ったような気がした。
トプン、と静かに水の中に潜った時みたいだった。食堂の色が、一段、くすんで見える。
男の怒鳴り声が、少しだけ、遠くなる。自分の指先が、白く霞んで見えた。
俺は、息を殺したまま、カウンターの陰から、そっと小さく一歩、踏み出した。
誰も、俺を見ない。
もう一歩。ゆっくりとテーブルの間を抜けて、大柄な男のすぐ後ろへ。
客たちの視線は、全員、ハンナさんと男に向いている。男の目は、ハンナさんだけを見ている。
手を伸ばせば届く距離なのに、男は気づかない。まるで、俺がそこにいないかのように。
これが隠密なのだろうか。
でも
――隠密が発動するのは”じっとしている間だけ”
じゃなかったのか。
ゆっくりなら、歩いても、解けないのか。
だが、なんとなくわかる。この膜は薄くて脆い。もう少し早く動いたり、大きな声を出すとこの膜はすぐ解ける。
男の腰には、革の財布がぶら下がっていた。ちゃんと金は持っているのだ、こいつら。
俺の指が、勝手に動いた。財布の紐をするりとほどき、手の中に落とす。
――何やってんだ、俺。スリなんて、犯罪だろ。
でも、手は止まらなかった。天職が盗賊だった本当のカイの指が覚えているのだろうか。
店の外から、痩せた男が戻ってきた。「おい、まだかよ」と大柄な男の横に並び、二人そろって、ハンナさんをにらみつける。
二人の目が、そろって前を向いた。
俺は、二人の足元にゆっくりしゃがみこんだ。大柄な男の右のブーツの紐と、痩せた男の左のブーツの紐を、しっかりと結び合わせる。固結びで。二回。
ついでに、目の前でぶら下がっている大柄な男のベルトの留め金も、外しておいた。剣の鞘を吊るしている、太い革のベルトだ。
カイの指は、たぶん、とても器用だ。
立ち上がり、ハンナさんの横を通り過ぎる。すれ違いざまに、エプロンのポケットに財布を滑りこませた。ハンナさんも、気づかなかった。
ふぅと一息つくと、膜がすっと消えた。色と音が戻った。
「ちっ、もういい。行くぞ」
大柄な男が、背を向けて一歩踏み出す。痩せた男も、同時に、反対の足を踏み出した。
「うおっ!?」
「なっ――」
二人の巨体が、もつれ合いながら、盛大に倒れた。
がらがら、がっしゃーん。
テーブルが一つひっくり返り、皿が宙を舞う。一瞬の静寂のあと、食堂の中に、どっと笑い声が起きた。
ハンナさんが、ふと、エプロンのポケットに手を入れた。中から出てきたのは、革の財布だ。
「……おや?」
ハンナさんは、財布と、床に転がっている男とを見比べて、にっこりと笑った。
「お代は、ここからいただいとくよ。お釣りは、ポポんちの野菜の弁償に回しとくね」
「て、てめえ……!」
笑われた男の顔が、一気に赤黒くなった。靴紐を引きちぎって立ち上がり、腰の剣を、勢いよく抜く。
――その瞬間。
留め金の外れたベルトが、鞘ごと、ずるりと床に落ちた。
ついでに、ズボンも落ちた。足首まで、すとんと。
剣を振りかざした大男。その下半身は、継ぎはぎだらけの下着一枚。
誰かが、ぶふっ、と吹き出した。
「わ、笑うんじゃねえっ! ふざけやがって、ババア……! 叩き斬ってやる!」
剣の切っ先が、ハンナさんに向いた。
笑い声が、ぴたりと止まった。格好は間抜けでも、剣は本物だ。
男の目は、ハンナさんだけを見ている。客の目は、男の剣だけを見ている。
再び息を殺し、じっとする。
まただ。また、膜が張られ、音が一段遠くなり、視界から色が薄くなる。
俺は手元に合った、芋の皮をむいていた包丁を握った。
刺すなんて、無理だ。でも、峰のほうで脅かすだけなら・・・
包丁を持ち、息を殺しながらゆっくり進む。
カウンターの陰から滑り出て、男の背後へ。足音は、しなかった。
人に包丁を向けるのなんて初めてだ。
でも、その時ー
膜の中から薄くなった色彩の世界で、大男の首の一点がぼんやりと青く光って見えた気がした。
なんだこれ。気のせい・・・でもないよな。
包丁の峰を、男の首筋の小さく光る点に、ぴたりと当てた。
「いい加減にしろ――さもなければ、次は、刃のほうだ」
自分の声が、自分のものじゃないみたいに、低かった。
声を出した瞬間、体を包んでいた膜が、すっと消えた。色と音が、戻る。客たちの目が、いっせいに俺に向く。
男が、首だけで、ぎぎぎ、と振り返った。
俺の顔を見た。いや、前髪の奥の、俺の目を見ていた。
その目に何が映っていたのか、俺には、わからない。
ただ、男の瞳に、青白い光が、小さく二つ、映りこんでいた。
男の口の端から、ぶくぶくと泡があふれ出した。白目をむいて、膝から崩れ落ちる。
……気絶した。峰なのに?
「あ、兄貴っ!?」
痩せた男が、こっちを見た。その顔から、さあっと血の気が引いた。
「ひっ……ひぃぃっ!」
痩せた男は、大男の襟首をつかみ、ズボンの脱げかけた体を引きずって、転がるように食堂を飛び出していった。
◇
静まり返った食堂で、客たちが、全員、俺を見ていた。
「……今、あいつ、どこから出てきた……? カウンターにいたよな……?」
木こりの男が、ごくりと唾を飲んだ。
「……本物だ。本物の、暗殺者だ……」
客たちが、そろって、一歩下がった。
「ち、違うんです! 峰です! これ、峰ですから!だいたい、暗殺もしてませんよ!」
「……カイ」
ハンナさんが、財布を手のひらでぽんと跳ねさせた。
「包丁はね、芋をむくもんだ。……でも、ありがとね。お代は、たっぷりいただいたよ」
その一言で、食堂の空気が、ようやくゆるんだ。窓の外で、ポポが「兄ちゃん、すげえええ!」と飛び跳ねている。
俺は、包丁をまな板の上に置いた。
その手が、がくがくと震えていた。
気づけば俺は、汗をびっしょりかいていた。
◇
その夜、皿を洗いながら、自分の手を見つめた。
財布を抜いた。靴紐を結んだ。首筋に包丁を当てた。その間、誰にも、気づかれなかった。
刻み石の一行は、本物だった。
しかし、石に刻まれたのは「じっとしている間だけ」だったのに、動けたのは何でだろう。
大男の首筋が光ったように見えたのは何だったんだろう。
いずれにせよ、六年間、怒鳴り声から身を守るために消してきた気配が、この世界では、力になっている。
……正直、怖かった。でも、行動してよかった。見ないふりをしなくてよかった。
今日、俺は少しだけ変わることができた。この能力で。
ふと視線を感じて、顔を上げた。
食堂の隅の席で、クレアが、頬杖をついていた。
客たちが「本物の暗殺者だ」と噂している中で、クレアだけは、別のものを見ていた。
男たちが逃げていったあと、包丁を置いた手を、がくがく震わせていた男を。
じとっとした、あきれ混じりの目だった。眉をひそめて、俺の手と顔を、じっと見比べている。
「……何やってんのよ、あいつ」
小さなつぶやきが、皿の音の合間に、かろうじて聞こえた。
クレアは、俺には何も言わなかった。目が合うと、ふいっと顔をそむけて、席を立った。
(第2話 終わり)
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