ダイアウルフ変異種 後編
仕込み杖。
時代劇でしか見たことのない、杖の中に刀を隠した武器だ。
じいさんは、細い刃を片手で軽く構えた。
背筋が、すっと伸びている。さっきまで杖にすがって歩いていた老人の姿は、もうどこにもなかった。
「カイ。ポポを離すな。わしの後ろから、一歩も出るなよ」
「ギルさん、一人じゃ――」
「黙って見とれ」
一頭のダイアウルフが、横合いから飛びかかった。
じいさんの体が、ふっと沈んだ。
次の瞬間、刃が、月の光を引いて、一閃した。
ダイアウルフが、空中で体をよじり、草の上に叩きつけられた。前足を斬られている。きゃん、と鳴いて、森のほうへ転がるように逃げていった。
速い。
刃がいつ動いたのか、まったく見えなかった。
続けて、二頭が、左右から同時に跳びかかる。
じいさんは、一歩も退かなかった。
右の一頭の鼻先を、刃の先で切る。返す刃で、左の一頭の肩口を浅く裂く。二頭とも、悲鳴をあげて飛びのいた。
大振りはしなくても、軽く鼻先を切るだけでダイアウルフは怯み、逃げ腰になる。
まるで、舞いを見ているようだった。無駄な動きが、一つもない。
「……ギルさん、何者なんですか」
「ただの旅のじじいだ」
息一つ乱さずに、そう答えた。
絶対に、嘘だ。
◇
ダイアウルフたちが、たじろいだ。
三頭が手傷を負い、群れの輪が、じりじりと広がる。
でも、大狼だけは、一歩も退かなかった。
大狼が、跳んだ。
じいさんの刃が、迎え撃つ。首の付け根へ。
ぎゃりぃぃん、と硬い音がした。
刃が、逆立った灰色の毛の上を、火花を散らして滑った。
じいさんは、すぐに刃を引いた。深くは、踏みこまない。
大狼が、着地と同時に、また跳ぶ。じいさんは、杖の鞘で、その牙を横へ受け流した。
二度、三度。
頭の牙は、一度も、じいさんに届かなかった。俺とポポのほうへ回りこもうとする狼も、そのたびに、刃の峰で払い戻される。
でも、じいさんの刃も、大狼には、一度も深く入らなかった。
「……やれやれ」
じいさんが、細い刃を、月にかざした。
「背中の毛が、鎧みたいになっとる。この仕込みの刃で本気で打ちこめば、斬れる前に、こっちが折れる」
その声は、落ち着いていた。焦りも、怯えもない。
大狼が、また跳んだ。
じいさんの刃先が、すっと、大狼の目の高さに上がった。
顔を狙う。
素人の俺にも、そう見えた。
あの細い刃でも、目なら、鼻先なら、毛の鎧は関係ない。
でも、刃先は、目の前で、ぴたりと止まった。
じいさんは、そのまま、鞘で牙を受け流しただけだった。
「……ギルさん、今、目を――」
「突けば、こやつは逃げる」
じいさんは、大狼から目を離さずに言った。
「片目をなくして、森へ帰る。そして、傷が癒えたら、群れを連れて戻ってくる。今度は、この草地ではない。村の羊小屋か、子どもの寝床にな」
ぞくりとした。
「手負いの獣は、人の村の匂いを忘れん。いま追い払うだけなら、わけはない。だが、それでは、次の夜に、誰かが死ぬ」
頭が、少し間をあけて、低く唸った。
じいさんの刃先が、かすかに揺れた。
迷っている。
あの人が。
折れるのを覚悟で、首に打ちこむか。
追い払うことにして、今夜だけを終わらせるか。
どちらも、選べないまま、刃先だけが、頭の牙を払い続けている。
つまり。
守りきれる。でも、仕留められない。
このまま、朝まで、か。俺の足から流れる血と、背中のポポと、じいさんの息が、どこまでもつか。
ジリ貧、ってやつだ。
大狼が、ゆっくりと、横へ回り始めた。
じいさんの正面から、少しずつ、外れていく。
狙いは、じいさんじゃない。
その後ろの、俺と、ポポだ。
大狼の鼻が、ひくひくと動いている。
「……あやつ、鼻で、お前さんを追っとるな」
じいさんが、低く言った。
「さっき、樫の木の下で、わしは、お前さんを見失った。目の前におったはずなのにな。だが、あやつだけは、お前さんを見つけた」
やっぱり、見ていたのだ。この人は。
じいさんは、しばらく、黙っていた。
刃先が、二度、三度、大狼の牙を払う。
それから、細く、長く、息を吐いた。
「……足を噛まれた若造に、背負わせる話ではないがな」
自分に言い聞かせるような声だった。
「わしが、正面を受け持つ。だが、わしの刃では、あやつの首は落とせん」
じいさんは、頭から目を離さないまま、言った。
「お前さんが、やれ。ビッグボアを一突きで仕留めた、あの腕で。わしが気を引く。お前さんは、消えて、後ろから、急所を一突きにしろ」
「でも、あいつ、鼻で――」
「わかっとる。だから、考えろ。カイの手帳には、何と書いてあった」
息が、止まった。
手帳。
俺は、一度も、手帳のことを話していないのに。
じいさんは、こちらを振り返らなかった。
「話は、あとだ。生きて帰れたらな」
◇
手帳の一行。
『北の沢。ダイアウルフ。五頭の群れ。人を恐れない。夜に動く。光に弱い』
光に弱い。
でも、ここには、月明かりしかない。
ポポを背負ったまま、俺は、必死に周りを見回した。
膝まで伸びた草と、闇と、ダイアウルフの目だけ。
じいさんは、一人で、群れの正面に立ち続けていた。一頭を払う。一頭を退ける。そのたびに、別の一頭が、横から、後ろから、隙をうかがう。
一頭が、じいさんの脇を抜けて、俺に飛びかかってきた。
右手の短剣を、むちゃくちゃに振った。刃が、ダイアウルフの鼻先をかすめる。ダイアウルフが、ひるんで、下がる。
でも、それだけだった。
噛まれた右足が、がくがくと震えていた。頭が、少しずつ、ぼうっとしてくる。
あと何回、あの牙を払えるだろう。
どれくらい、そうしていただろう。
丘のほうに、ちらちらと、赤い光が揺れるのが見えた。
一つ、二つ、三つ。
松明だ。
「カイー! ポポー!」
「どこだー!」
村の男たちの声だった。ハンナさんが、集めてくれたのだ。
村のほうへ逃げてきて、よかった。
「こっちだ!」
俺は、腹の底から叫んだ。
「森の外れの、草地だ! 松明を、投げこんでくれ! ダイアウルフは、光に弱い!」
松明の光が、丘を駆け下りて、一気に近づいてくる。
木こりの男が、グンターさんが、猟師のおじさんが、次々と飛び出してきた。
「うおっ、本当にダイアウルフだ!」
「投げろ! 投げろ!」
燃える松明が、次々と、ダイアウルフたちの真ん中に投げこまれた。
膝まで伸びた、乾いた草の上に。
ぱち、ぱちっ。
草の先が、赤く縮れた。
次の瞬間、炎が、草から草へ、走った。
ごう、と、音を立てて燃え広がる。
夜の草地が、昼のように明るくなった。
ダイアウルフたちが、悲鳴をあげた。
赤い目が、まぶしさに、ぎゅっと細められる。何頭かが、尻尾を巻いて、森の暗がりへ逃げこんでいく。
『光に弱い』
カイ先輩の字は、正しかった。
でも。
大狼だけは、退かなかった。
炎の照り返しの中で、溶けた鉄の目を、きつく細めている。まぶしさに、目がくらんでいるのだ。それでも、鼻だけを頼りに、ここに踏みとどまっている。
燃える草から、もうもうと煙が立ちのぼる。焦げた草の匂いが、草地いっぱいに広がっていく。
大狼が、しきりに鼻を鳴らしていた。首を左右に振り、何度も、宙の匂いを嗅いでいる。
目は、光で奪われた。
鼻は、煙が奪いかけている。
それに、風。
煙は、丘のほうから、森のほうへ、ゆっくりと流れていた。風が、村のほうから吹いている。
大狼がいる森の側が、風下。俺たちのいる丘の側が、風上だ。
風上にいる限り、俺の匂いは、大狼のほうへ流れていく。
なら。
風下に、回ればいい。
煙にまぎれて、大狼の背後へ。
◇
「グンターさん!」
俺は、駆け寄ってきたグンターさんに、背中のポポを預けた。
「ポポと、メルを、頼みます!」
「お、おう! お前は、どうする気だ!」
答えずに、俺は、煙の中へ踏みこんだ。
全員の目が、炎と、ダイアウルフと、じいさんに向いている。
誰も、俺を見ていない。
背中を丸める。肩をすぼめる。
呼吸を、浅く、細く、長く。
気配を、消す。
膜が張り、炎の赤が、一段くすむ。男たちの叫び声が、水の向こうの音のように遠くなった。
いつもなら、ゆっくりでないと、隠密は解けてしまう。
でも、今は、時間がない。
早足で。
足が、勝手に、小刻みな歩幅を選んだ。かかとから着かず、つま先から、そっと地面に置く。その一歩ごとに、細く、息を吐く。
足音と、息が、一つに重なっていく。
不思議だった。
いつもよりずっと速く歩いているのに、隠密が、解けない。
噛まれた右足が、一歩ごとに、焼けるように痛んだ。
それでも、足音は、立てなかった。
燃える草をよけ、煙の中を、大きく回りこむ。
丘の側から、森の側へ。
大狼の、背後へ。
風下へ。
◇
大狼とじいさんが、向き合っていた。
じいさんが、刃を、すっと下げた。
わざと、だ。
構えを解いた老人の喉元が、がら空きになる。
大狼が、それを見逃さなかった。
大きく口を開けて、じいさんの喉元へ、跳ぶ。
じいさんは、退かなかった。杖の鞘を、横に構えて、突き出す。
がちん、と。
大狼の牙が、鞘に食らいついた。
鞘ごと、じいさんを押し倒そうと、大狼が、四本の足を踏ん張る。首を伸ばし、全身の力を、牙にこめる。
大狼の目も、鼻も、意識も、全部が、目の前の老人に向いていた。
――今だ、と言われた気がした。
じいさんは、俺がどこにいるのか、知らない。それでも、作ってくれたのだ。俺のための、一瞬を。
俺は、大狼の真後ろにいた。
風下。煙の中。
大狼の目は、炎にくらんでいる。鼻は、じいさんの匂いと、血の匂いと、煙でいっぱいだ。真後ろにいる俺の匂いは、風に乗って、俺の背中のほうへ流れていく。
大狼は、俺に、気づいていない。
その、鎧のような毛に覆われた背中を、見た。
じいさんの刃が、滑った背中。
じゃあ、どこなら。
その時、また、見えた。
大狼の首の後ろ。耳の付け根の、少し下。
逆立った毛の、ほんのわずかな隙間に。
青白い、小さな光の点が、ぽつりと灯っていた。
ビッグボアの腹に見えたのと、同じ光。
――そこだ。
俺は、跳んだ。
大狼の背中に、飛び乗るように。
右手だけで握った短剣を、青白い光の点へ。
短剣の刃にも、光が灯る。
瞬間、俺の世界から音が消えた。
ダイアウルフの唸りも、炎のはぜる音も、男たちの叫び声も。ビッグボアの時と同じだ。音が遠ざかり、光の点と、自分の手だけが残る。
その静けさの中で、短剣の刃が、青白い光の線を引いた。
刃先が、針のような毛に触れた重みは、やはり、確かに手に伝わった。
それでも、鎧のような毛も、分厚い皮も、まるで最初からそこに道があったかのように、刃は、柄の根元まで、するりと吸いこまれていった。
一拍おいて、世界に音が戻ってきた。
大狼の体が、びくん、と跳ねた。
鞘に食らいついていた牙から、ふっと、力が抜けた。
大きな体が、ぐらりと揺れる。
その首が、最後に、ぐるりとねじれた。
背中にしがみついている俺のほうへ。
開いた顎が、俺の左肩を、かすめた。
かすめただけだった。それでも、牙は、服ごと、肩の肉を、ざっくりと裂いていった。
熱い。
痛い、より先に、熱かった。
大狼の体が、そのまま、横倒しに崩れ落ちた。
どう、と地面が揺れた。
溶けた鉄のような目から、すうっと、光が消えていった。
◇
残っていたダイアウルフたちが、いっせいに動きを止めた。
倒れた大狼を見つめ、それから、短剣を握ったまま大狼の背中にまたがっている、俺を見た。
一頭が、きゅうん、と情けない声で鳴いた。
それを合図に、ダイアウルフたちは、尻尾を巻いて、森の奥へ逃げ去っていった。
男たちが、外套や上着で、燃える草を叩いて回った。グンターさんが、金槌の柄で、火の粉を踏み消している。
やがて、炎は、くすぶる煙になった。
草地は、しんと静まり返っていた。
俺は、頭の背中から、ずるずると滑り落ちた。
膝に、力が入らない。左肩から流れた血が、吊った左腕の布を、黒く染めていく。右足の靴は、血で重かった。
短剣を握った手が、がくがくと震えている。
「……カイ」
声のほうを見ると、じいさんが、刃を杖に納めながら、こちらへ歩いてきた。
かちり、と、刃が鞘に納まる音。
あれだけの群れを相手にしたあととは思えないほど、落ち着いた手つきだった。鞘には、くっきりと、牙の跡が残っていた。
「……大丈夫ですか、ギルさん」
「ああ。おかげさまでな。もう少しで、杖を一本、だめにするところだった」
いつもの、飄々とした声だった。
じいさんは、倒れた大狼のそばにしゃがみこみ、首の後ろの傷を、じっと見つめた。
耳の付け根の、少し下。
たった一つの、小さな傷。
それから、ひゅう、と、長い口笛を吹いた。
「わしの仕込みでは、本気で打ちこめなんだ首の、すぐ隣だ。それに、刃の入る音が、せんかった。肉を裂く音も、骨をかする音もな」
傷口に、指を当てる。
「骨と骨が噛み合う、紙一枚ほどの継ぎ目。明るい稽古場で、動かぬ的を相手にしても、狙って届くかどうかという場所だ。それを、煙の中で、暴れる魔物の背中に飛びつきざまに、か」
じいさんは、俺を見上げた。
「お前さん……ここが、見えたのか」
その目は、いつもの、値踏みする目ではなかった。
驚いている。でも、それよりも面白がるように、それでいて、慎重に見定めようとする目だった。
俺は、何も答えられなかった。
青白い光の点のことを、どう説明すればいいのか、わからなかった。
じいさんは、答えを待たずに、続けた。
「それに、煙の中を、早足で歩いておったな。わしの目の前を、通り過ぎていった」
じいさんは、白いひげをなでた。
「気配と姿を殺す技、『隠密』か。普通は、足を止めて、初めて成り立つ技だ。それを、早足でやってのけるとはな」
それから、口の端だけで、笑った。
「……暗殺者、などという、生易しいものではないのかもしれんな。お前さんは」
冗談めかした声だった。
でも、その目の奥にだけ、ほんの少し、警戒の色が残っていた。
当の俺は、膝が笑って、まだ立ち上がることもできないのに。
隠密。
教会の刻み石に、最初に刻まれていた言葉だ。
じっとしている間だけ、姿と気配を隠す。
その「じっとしている間だけ」を、俺は、今夜、早足で越えてしまったらしい。
◇
「兄ちゃあああん!」
「げふっ!
」
グンターさんの腕の中から飛び出したポポが、俺の胸に、頭から突っこんできた。
メルを抱えたまま。
二人分の重みで、俺は、後ろにひっくり返った。
「兄ちゃん、兄ちゃん、兄ちゃん……!」
ポポは、俺の胸に顔をうずめて、わんわん泣いていた。尻尾が、ちぎれそうなほど振られている。メルが、二人の間で、めえ、と鳴いた。
「ごめん、ごめんなさい、メルが、メルがいなくなっちゃって、だから……!」
「わかってる。わかってるよ」
俺は、ポポの頭を、くしゃくしゃとなでた。
「よく、声を出さないで、我慢したな。えらかったぞ」
ポポは、もっと大きな声で泣いた。
まわりでは、村の男たちが、倒れたダイアウルフとその変異種の大狼を取り囲んでいた。
「なんだ、このでかさは……」
「この大狼を、一突きだと……?」
「ギルの爺さんでも、仕留めきれなかったんだぞ……」
猟師のおじさんが、大狼の首の傷をのぞきこんで、青い顔で首を振った。
「ビッグボアに続いて、こいつもか……。同じだ。たった一か所。急所だけを、寸分たがわず……」
男たちが、ゆっくりと、俺のほうを振り返った。
ポポに抱きつかれて、草の上にひっくり返っている、俺を。
誰も、何も言わなかった。
ただ、その目が、言っていた。
――こいつは、いったい、何なんだ。
グンターさんが、ひげの奥で、ごくりと唾を飲んだ。
「……屍鬼じゃなくて、よかった」
本気の声だった。
◇
村に戻ると、ポポのお母さんが、泣きながらポポを抱きしめた。
ハンナさんは、おたまで俺の頭を一発叩き、それから、黙って抱きしめた。
ビッグボアを倒した日に続いて、二回目だった。
その腕は、やっぱり、震えていた。
そのあと、教会の神官様が、治癒の光で、傷口の出血をふさいでくれた。だが、深い裂け目までは閉じきらなかった。
「こんな田舎にダイアウルフなんていなかったんじゃがな・・・いなかに、いなかった、いー!ひっひっひっ」
と言ってた。
最後は、薬草園のしわくちゃの婆さんが、にゃむにゃむ言いながら半分治ったふくらはぎの噛み傷と、肩の裂け目に薬草を塗って治療をしてくれた。
包帯を巻いて、何度も満足げに頷いて、ペシっと俺の額に、庭の葉を一枚押し当て、サムズアップした。
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