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ギルバートの夜

――ギルバート――


村が寝静まった、夜更け。


ギルバートは、二階の自分の部屋で、灯りもつけずに、寝台に腰かけていた。


膝の上に、仕込み杖を横たえている。


手のひらで、その握りを、ゆっくりとなでた。


(……打ちこめなんだ、か)


剣一本で、五十年、生きてきた。


旅の先々で、魔物とも、盗賊とも渡り合ってきた。斬れぬものなど、そうはない。そう思っておった。


それが、今夜、あのダイアウルフの頭には、本気で打ちこめなんだ。この細い仕込みの刃では、鎧のような毛に負けて、先に折れる。折れれば、あの場で、子どもと若造を守る刃がなくなる。それを思うと、首へ踏みこむ一太刀が、どうしても出なんだ。


目なら、突けた。鼻先でもよかった。それで、あやつは逃げたろう。


だが、片目の狼は、恨みを忘れん。人の村の匂いを覚えたまま、群れを連れて戻ってくる。羊小屋か、子どもの寝床にな。わしが村を発ったあとで。


今夜だけ追い払って、次の夜に誰かを死なせる。それだけは、できなんだ。


折れるのを覚悟で打ちこむか。目を突いて、今夜を終わらせるか。


刃を振るいながら、わしは、迷っておった。この歳になって、戦いの最中に、迷った。


そして、足を噛まれた若造に、預けた。


半分は、賭けだった。半分は――あれが何なのか、この目で見ておきたかった。


あの若造は、それを、一突きで仕留めた。


狙いすまして、ではない。暴れる魔物の背中に、飛びつきざまにだ。闇と煙の中で。


骨と骨の継ぎ目。毛の流れの、紙一枚の切れ目。


(あれは、見えておった)


勘や偶然で、あそこには届かん。あの若造には、あそこが、はっきりと見えておったのだ。


そして、煙の中の、あの早足。


自分の目の前を、何かが通り過ぎていったことに、ギルバートは、あとから気づいた。


足音はなかった。気配もなかった。あとから思えば、煙の一か所が、夏の陽炎のように、かすかに揺らいでいた気がする。それだけだった。


気配を殺す手練れなら、何人も見てきた。だが、どんな達人でも、足を止めねば、気配は消えん。動けば漏れる。それが、この世の当たり前だ。


あの若造は、その当たり前の、外にいた。


(さて。あれは、いったい、何だ)


カイの体の中に、カイではない何かがいる。


それは、とうに、わかっていた。三日も冷たくなっていた体が、起き上がった。盗賊の技を、頭が知らん。カイと二人で決めた合図に、応えられん。


最初は、屍鬼のたぐいかと疑った。


だが、あれは、ポポを助けに、真っ先に森へ飛びこんでいった。力の入らん腕を吊ったままで。脚を噛まれ、血を流しながら、子どもと子羊を背負って、村のほうへ走った。


そして、わしが作った一瞬を、迷わず、拾った。あれがどこにおるのか、わしにも見えておらなんだのに。


邪なものの、することではない。


だが、だからこそ、わからん。


あれほどの力が、なぜ、あの、九十度に腰を折って皿を出すような若造の中にあるのか。


あれが、本気で、誰かを殺そうと思ったら。


(誰にも、止められんな)


わし自身も含めて。


ギルバートは、ふっと、口の端を上げた。


笑いごとではない。だが、この歳になって、まだ、こんなものに出くわすとは思わなんだ。


立ち上がり、小さな机に向かった。


灯りを、一つだけ、ともす。


紙を広げ、ペンを取った。


(わしの手には、余る)


書庫の賢者なら。


大環と、魂と、古い言い伝えに、誰よりも通じた、あの方なら。


あれが何なのか、わかるかもしれん。


ギルバートは、ペンを走らせた。


カイが、死んだこと。その死に、腑に落ちんところがあること。


カイの体が、葬式の最中に起き上がったこと。天職が、盗賊から暗殺者に変わったこと。


そして、今夜、見たもの。


最後に、一行、書き加えた。


『この者を、近く、そちらへ連れていく。どうか、見極めていただきたい。わしには、あれが、恐ろしい』


恐ろしい、と書いて、自分で少し笑った。


剣を握ってこのかた、こんな一行を書いたのは、初めてだった。


インクが乾くのを待ちながら、ギルは、窓の外の、二つの月を見上げた。


…カイ。


あの雨の夜、慎重なお前が、崖へ行くはずがない。


明日、夜が明けたら、自分の目で確かめてくる。


お前を、あの仕事に誘ったのは、わしだ。


お前を死なせたのも、わしかもしれん。


そして、今度は、お前の体に宿ったあれを、わしは、どこへ連れていこうとしているのか。


ギルバートは、手紙を小さく折りたたみ、懐に入れた。


それから、仕込み杖を手に、音もなく、部屋を出た。


階段の、古い一段だけが、ぎし、と鳴った。


 ◇ ◇ ◇


その夜、俺は、眠れなかった。


屋根裏の寝床で、天井を見つめていた。


じいさんは、手帳のことを知っていた。


「カイの手帳には、何と書いてあった」。あの人は、確かに、そう言った。


俺が手帳を持っていることも、そこに何が書いてあるのかも、知っていた。


「話は、あとだ。生きて帰れたらな」


でも、村に戻ってから、じいさんは何も言わなかった。俺の顔を見ても、穏やかに笑うだけだった。


その笑顔が、どこか、こわばって見えた。


ぎし、と。


階下で、かすかに、何かがきしむ音がした。


俺は、身を起こした。


二階の廊下を、誰かが歩いていく。足音は、ほとんどしない。でも、あの階段の一段だけが、ぎし、と鳴った。


じいさんだ。


足音は、一階へ下り、それから、裏口の戸が、そっと開く音がした。


こんな夜更けに、どこへ。


俺は、寝床を抜け出した。


屋根裏の階段を、つま先から、そっと下りる。縫ったばかりのふくらはぎが、一段ごとに、ずきりと痛んだ。


息を殺す。背中を丸める。


足音と、息を、一つに重ねる。


今夜、煙の中で覚えた、あの歩き方で。


 ◇


裏口の戸の隙間から、外をのぞいた。


月明かりの中、井戸のそばに、じいさんが立っていた。


その腕に、一羽の鳥がとまっていた。


鳩よりも一回り大きい、灰色の鳥。


じいさんは、小さく折りたたんだ紙を、鳥の足に結びつけているところだった。


俺は、戸の隙間から、するりと外へ出た。


じいさんの背中は、こちらを向いている。


誰も、俺を見ていない。


ゆっくりと、近づく。


じいさんの、すぐ後ろまで。


肩越しに、手元をのぞきこむ。


紙の表に、細い字で、宛名が書かれていた。


『書庫の賢者殿』


俺は、息をのみそうになって、慌てて、奥歯を噛みしめた。


書庫。


カイの手帳の、裏表紙。


ランタンの中で燃える炎の紋章の下に、カイの几帳面な字で書かれていた、あの言葉。


『書庫へ報告すること。灯は消さない』


同じだ。


カイが報告していた「書庫」と、じいさんが手紙を送る「書庫」は、同じ場所なのだ。


じいさんが、腕を振り上げた。


灰色の鳥が、大きく翼を広げ、夜空へ舞い上がっていく。


二つの月の間を、北へ。


まっすぐに、飛んでいく。


じいさんは、その姿が見えなくなるまで、じっと、夜空を見上げていた。


それから、小さく、つぶやいた。


「……すまんな、カイ」


その声は、ひどく、疲れて聞こえた。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます!


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