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12/21

崖

翌朝、食堂に下りると、じいさんがいなかった。


「父さんなら、夜明け前に出かけたよ。なに、すぐ戻ってくるさ」


ハンナさんが、鍋をかき混ぜながら言った。


「まったく、帰ってきたと思ったら、すぐこれだ。昔っから、ふらふらと落ち着かない人なんだから」


ぼやく声は、どこか慣れっこだった。


俺は、芋の皮をむきながら、ゆうべのことを思い出していた。


井戸のそばで、灰色の鳥を飛ばした背中。


『書庫の賢者殿』


そして、「……すまんな、カイ」という、疲れた声。


じいさんは、何を謝ったのだろう。


それに、草地で言われた、あの言葉。


――カイの手帳には、何と書いてあった。


俺は、一度も、手帳のことを話していない。


「話は、あとだ。生きて帰れたらな」


生きて帰ってきた。でも、まだ、何も聞いていない。


 ◇


昼の客が引けた頃だった。

じいさんが戻ってきた。


じいさんは、まっすぐ俺のところへ来ると、言った。


「カイ。付き合え。見せたいものがある」


いつもの、にこにこした笑顔ではなかった。


旅装束の裾が、泥で汚れていた。


 ◇


じいさんが向かったのは、村の西の外れだった。


畑を抜け、なだらかな丘を上り、林の中の細い道を進んでいく。


縫ったばかりのふくらはぎが、坂を上るたびに、糸ごと引きつれた。吊った左腕を岩にぶつけないように、右手で木の幹をつかみながら、じいさんの背中を追う。


だんだん、道が険しくなってきた。足元の土が岩に変わり、木がまばらになっていく。


風の音が、変わった。


視界が、急に開けた。


崖だった。


切り立った岩壁が、下の河原まで落ちこんでいる。高さは、三階建ての建物くらいだろうか。岩壁の途中には、ところどころ、背の低い木が斜めに張りついていた。


底は、丸い石の転がる河原だった。その脇を、細い川が流れている。川沿いには、踏み固められた細い道が一本、森のほうへ続いていた。


足がすくんだ。


「ここだ」


じいさんが、崖の縁に立って言った。


「カイが、落ちた場所だ」


俺は、崖の下を見下ろした。


「あの道は、木こりが森へ通う道でな。翌朝、通りがかった木こりが、河原に倒れておるカイを見つけた」


じいさんは、岩壁の途中の木を、杖の先で指した。


「あの木に、何度か引っかかりながら落ちたんだろう。体には、大きな傷はなかった。ただ、頭を、河原の石に打っておった」


ここから、この体は落ちたのだ。


そして、三日間、冷たくなっていた。


その体の中に、今、俺がいる。


胸の奥が、ずしりと重くなった。


「村の者たちは、雨で足を滑らせたと言っておる」


じいさんは、崖の縁の、少し手前にしゃがみこんだ。


「わしは、今朝、ここへ来た。夜明け前からな。そして、これを見つけた」


杖の先で、足元の岩を示した。


俺は、じいさんの隣にしゃがみこんだ。


灰色の岩肌に、一本の線が刻まれていた。


まっすぐな線だった。指一本ほどの長さで、岩が、深くえぐれている。その縁は、鋭く、新しい。


「……これ、なんですか」


「刃の跡だ」


じいさんは、指で、その線をなぞった。


「剣だ。それも、細身で、長い剣だ。振り下ろした刃が、狙いを外れて、岩を削った。それほどの力で振るわれた一撃だ」


俺は、息をのんだ。


「それだけではない」


じいさんは、立ち上がり、崖の縁に沿って数歩進んだ。


そこにも、同じような線があった。今度は、二本。交差するように。


さらに、崖のすぐ手前の、背の低い木。その幹に、斜めに深い切り傷が入っていた。枝が一本、折れて、ぶら下がっている。


「誰かが、ここで、剣を振るった。何度もな」


じいさんは、木の切り傷に手を当てた。


「そして、相手は、それをよけた。何度も。よけながら、後ろへ、後ろへと下がらざるを得なかった」


その目が、崖の縁へ向いた。


「後ろが、崖だと知りながらな」


 ◇


俺は、しばらく、何も言えなかった。


風が、崖の下から吹き上げてくる。


冷たい風だった。


「……カイの短剣じゃ、ないんですか。カイが、獣か何かと戦って、その時に」


「違う」


じいさんは、首を振った。


「短剣とはこの傷と合わん。それに、カイは、正面から刃をぶつけ合うような戦い方はせん。わしが、そう教えた」


それから、崖の縁の岩を指さした。


そこだけ、岩の表面の苔が、ごっそりと剥がれていた。何かが、強くこすれたような跡。


「ここに、手をついた跡がある。かかとで踏ん張った跡もな。カイは、最後まで、落ちまいとしておった」


じいさんの声が、かすかに震えた。


「足を滑らせた者は、こんな跡は残さん。雨の夜に、一人で、こんなところへ来たりもせん」


雨の夜。


クレアの言葉が、耳の奥でよみがえった。


――カイはね、雨の日は、絶対に崖に近づかなかった。


――わたしは、カイが事故で死んだなんて、思ってない。


クレアは、正しかったのだ。


「カイは、殺されたんですね」


声に出した瞬間、その言葉の重さが、胸にのしかかってきた。


じいさんは、うなずいた。


「斬られて、追いつめられて、落とされた」


崖の下から、川の音が、かすかに聞こえていた。


 ◇


カイ。


会ったこともない男だ。


この体の、元の持ち主。無口で、真面目で、あまり笑わない男。


俺が知っているのは、人から聞いた話と、手帳の几帳面な字と、すり減った短剣の柄だけだ。


でも。


夜な夜な、一人で森に入って、魔物を調べていた。


村を守るために、弱点を書き留めていた。


誰にも言わずに。笑うことも忘れて。


クレアに、「この仕事が終わったら」と、手紙を残して。


あの雨の夜。カイは、何かを見た。誰かに会った。


そして、手帳を隠しに、びしょ濡れで帰ってきた。


自分の身が危ないと、わかっていたのだ。


それでも、手帳だけは守ろうとした。


そして、もう一度、雨の中へ出ていって、ここで。


細身の、長い剣を持った誰かに。


何度も、何度も、斬りかかられて。


後ろが崖だとわかっていて、それでも、下がるしかなくて。


最後まで、岩に手をついて、落ちまいとして。


「……ふざけんなよ」


気づいたら、声が出ていた。


自分でも驚くほど、低い声だった。


「なんで、カイが、こんな目に遭わなきゃいけないんだ」


じいさんが、こちらを見た。


俺は、崖の縁の、苔の剥がれた岩を見つめていた。


「村を守ってただけじゃないか。一人で、誰にも頼らないで、毎晩、毎晩。それなのに、なんで、こんなところで、誰にも知られないで」


拳を、握りしめていた。


爪が、手のひらに食いこむ。


日本では、怒ったことなんて、ほとんどなかった。


部長に怒鳴られても、取引先に頭を下げさせられても、理不尽な残業を押しつけられても。怒るより先に、「自分が悪いんだ」と思うようにしていた。そのほうが、楽だったから。怒ったって、何も変わらない。目立つだけだ。


でも、今は。


はらわたが、煮えくり返っていた。


会ったこともない男のために。


この体を、俺に残していった男のために。


……いや。カイのためだけじゃない。


雨の夜に、一人で。誰にも知られずに。最後まで、岩にしがみついて。


それは、俺が、いつか迎えるはずだった死に方だった。終電の駅のホームで。誰もいないフロアで。いてもいなくても同じだと言われたまま、誰にも気づかれずに、消える。


カイの死に、いつか迎えるはずだった自分の死に方を重ねて、俺は、怖くて、腹が立っていたのだ。


それに気づいて、少しだけ、自分が嫌になった。それでも、腹の底の熱は、消えなかった。


「誰がやったんですか」


俺は、じいさんを見た。


「ギルさんは、知ってるんですか。誰が、カイを」


じいさんは、しばらく、黙って俺を見ていた。


その目には、いつもの、値踏みするような鋭さがなかった。


代わりに、何か、ひどく痛そうなものが浮かんでいた。


「……わからん」


じいさんは、首を振った。


「わからんから、わしは、ここに来た」


 ◇


じいさんは、崖の縁から離れて、近くの岩に腰を下ろした。


杖を膝の上に置き、両手を、その上に重ねる。


急に、十も歳を取ったように見えた。


「カイはな、大事な仕事をしておった」


ぽつりと、そう言った。


「村の者は、誰も知らん。ハンナも、クレアも知らん。だが、カイは、この村のために、いや、もっと大きなもののために、大事な仕事をしておった」


「……手帳に書いてあった、魔物の記録のことですか」


じいさんの目が、ちらりと俺を見た。


「そうだ」


否定しなかった。


やっぱり、この人は、手帳のことを知っている。


「その仕事のことは――」


俺が言いかけると、じいさんは、片手を上げて制した。


「今は、まだだ」


それから、まっすぐに俺を見た。


不思議だった。


この人は、俺に、何も聞かなかった。


「お前は何者だ」とも。「本当にカイなのか」とも。


盗賊の技ができないことも、合図に応えられなかったことも、目の前で消えたことも。この人は、全部、見ている。全部、わかっているはずだ。


なのに、何も聞かない。


それが、かえって、怖かった。


問いつめられたほうが、まだ楽だった。部長に「お前、何やってんだ」と怒鳴られるほうが、黙って見つめられるより、ずっと楽だったのと同じように。


「……聞かないんですか」


思わず、口に出していた。


「僕に、何も」


じいさんは、ふっと、口の端を上げた。


笑ったのかどうか、わからない顔だった。


「聞いたら、答えるのか」


俺は、何も言えなかった。


じいさんは、杖をついて、ゆっくりと立ち上がった。


「わしも、お前さんに、話さねばならんことがある」


崖のほうを、もう一度だけ振り返る。


それから、俺に背を向けて、林の道を歩き出した。


「今夜、少し話そうか」


振り返らずに、そう言った。


「二人きりでな」


 ◇


帰り道、俺は、一度だけ、崖のほうを振り返った。


林の木々の隙間から、切り立った岩壁の端が、少しだけ見えた。


カイ。


お前の体を、借りている。


お前の名前で呼ばれて、お前の家族にごはんを作ってもらって、お前の短剣で、ビッグボアとダイアウルフを倒した。


俺は、お前の代わりにはなれない。


でも。


お前を、こんな目に遭わせたやつのことは。


絶対に、見つけてやる。


俺は、前を向いて、じいさんの背中を追いかけた。


腰の短剣の柄を、強く握りしめながら。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます!


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