崖
翌朝、食堂に下りると、じいさんがいなかった。
「父さんなら、夜明け前に出かけたよ。なに、すぐ戻ってくるさ」
ハンナさんが、鍋をかき混ぜながら言った。
「まったく、帰ってきたと思ったら、すぐこれだ。昔っから、ふらふらと落ち着かない人なんだから」
ぼやく声は、どこか慣れっこだった。
俺は、芋の皮をむきながら、ゆうべのことを思い出していた。
井戸のそばで、灰色の鳥を飛ばした背中。
『書庫の賢者殿』
そして、「……すまんな、カイ」という、疲れた声。
じいさんは、何を謝ったのだろう。
それに、草地で言われた、あの言葉。
――カイの手帳には、何と書いてあった。
俺は、一度も、手帳のことを話していない。
「話は、あとだ。生きて帰れたらな」
生きて帰ってきた。でも、まだ、何も聞いていない。
◇
昼の客が引けた頃だった。
じいさんが戻ってきた。
じいさんは、まっすぐ俺のところへ来ると、言った。
「カイ。付き合え。見せたいものがある」
いつもの、にこにこした笑顔ではなかった。
旅装束の裾が、泥で汚れていた。
◇
じいさんが向かったのは、村の西の外れだった。
畑を抜け、なだらかな丘を上り、林の中の細い道を進んでいく。
縫ったばかりのふくらはぎが、坂を上るたびに、糸ごと引きつれた。吊った左腕を岩にぶつけないように、右手で木の幹をつかみながら、じいさんの背中を追う。
だんだん、道が険しくなってきた。足元の土が岩に変わり、木がまばらになっていく。
風の音が、変わった。
視界が、急に開けた。
崖だった。
切り立った岩壁が、下の河原まで落ちこんでいる。高さは、三階建ての建物くらいだろうか。岩壁の途中には、ところどころ、背の低い木が斜めに張りついていた。
底は、丸い石の転がる河原だった。その脇を、細い川が流れている。川沿いには、踏み固められた細い道が一本、森のほうへ続いていた。
足がすくんだ。
「ここだ」
じいさんが、崖の縁に立って言った。
「カイが、落ちた場所だ」
俺は、崖の下を見下ろした。
「あの道は、木こりが森へ通う道でな。翌朝、通りがかった木こりが、河原に倒れておるカイを見つけた」
じいさんは、岩壁の途中の木を、杖の先で指した。
「あの木に、何度か引っかかりながら落ちたんだろう。体には、大きな傷はなかった。ただ、頭を、河原の石に打っておった」
ここから、この体は落ちたのだ。
そして、三日間、冷たくなっていた。
その体の中に、今、俺がいる。
胸の奥が、ずしりと重くなった。
「村の者たちは、雨で足を滑らせたと言っておる」
じいさんは、崖の縁の、少し手前にしゃがみこんだ。
「わしは、今朝、ここへ来た。夜明け前からな。そして、これを見つけた」
杖の先で、足元の岩を示した。
俺は、じいさんの隣にしゃがみこんだ。
灰色の岩肌に、一本の線が刻まれていた。
まっすぐな線だった。指一本ほどの長さで、岩が、深くえぐれている。その縁は、鋭く、新しい。
「……これ、なんですか」
「刃の跡だ」
じいさんは、指で、その線をなぞった。
「剣だ。それも、細身で、長い剣だ。振り下ろした刃が、狙いを外れて、岩を削った。それほどの力で振るわれた一撃だ」
俺は、息をのんだ。
「それだけではない」
じいさんは、立ち上がり、崖の縁に沿って数歩進んだ。
そこにも、同じような線があった。今度は、二本。交差するように。
さらに、崖のすぐ手前の、背の低い木。その幹に、斜めに深い切り傷が入っていた。枝が一本、折れて、ぶら下がっている。
「誰かが、ここで、剣を振るった。何度もな」
じいさんは、木の切り傷に手を当てた。
「そして、相手は、それをよけた。何度も。よけながら、後ろへ、後ろへと下がらざるを得なかった」
その目が、崖の縁へ向いた。
「後ろが、崖だと知りながらな」
◇
俺は、しばらく、何も言えなかった。
風が、崖の下から吹き上げてくる。
冷たい風だった。
「……カイの短剣じゃ、ないんですか。カイが、獣か何かと戦って、その時に」
「違う」
じいさんは、首を振った。
「短剣とはこの傷と合わん。それに、カイは、正面から刃をぶつけ合うような戦い方はせん。わしが、そう教えた」
それから、崖の縁の岩を指さした。
そこだけ、岩の表面の苔が、ごっそりと剥がれていた。何かが、強くこすれたような跡。
「ここに、手をついた跡がある。かかとで踏ん張った跡もな。カイは、最後まで、落ちまいとしておった」
じいさんの声が、かすかに震えた。
「足を滑らせた者は、こんな跡は残さん。雨の夜に、一人で、こんなところへ来たりもせん」
雨の夜。
クレアの言葉が、耳の奥でよみがえった。
――カイはね、雨の日は、絶対に崖に近づかなかった。
――わたしは、カイが事故で死んだなんて、思ってない。
クレアは、正しかったのだ。
「カイは、殺されたんですね」
声に出した瞬間、その言葉の重さが、胸にのしかかってきた。
じいさんは、うなずいた。
「斬られて、追いつめられて、落とされた」
崖の下から、川の音が、かすかに聞こえていた。
◇
カイ。
会ったこともない男だ。
この体の、元の持ち主。無口で、真面目で、あまり笑わない男。
俺が知っているのは、人から聞いた話と、手帳の几帳面な字と、すり減った短剣の柄だけだ。
でも。
夜な夜な、一人で森に入って、魔物を調べていた。
村を守るために、弱点を書き留めていた。
誰にも言わずに。笑うことも忘れて。
クレアに、「この仕事が終わったら」と、手紙を残して。
あの雨の夜。カイは、何かを見た。誰かに会った。
そして、手帳を隠しに、びしょ濡れで帰ってきた。
自分の身が危ないと、わかっていたのだ。
それでも、手帳だけは守ろうとした。
そして、もう一度、雨の中へ出ていって、ここで。
細身の、長い剣を持った誰かに。
何度も、何度も、斬りかかられて。
後ろが崖だとわかっていて、それでも、下がるしかなくて。
最後まで、岩に手をついて、落ちまいとして。
「……ふざけんなよ」
気づいたら、声が出ていた。
自分でも驚くほど、低い声だった。
「なんで、カイが、こんな目に遭わなきゃいけないんだ」
じいさんが、こちらを見た。
俺は、崖の縁の、苔の剥がれた岩を見つめていた。
「村を守ってただけじゃないか。一人で、誰にも頼らないで、毎晩、毎晩。それなのに、なんで、こんなところで、誰にも知られないで」
拳を、握りしめていた。
爪が、手のひらに食いこむ。
日本では、怒ったことなんて、ほとんどなかった。
部長に怒鳴られても、取引先に頭を下げさせられても、理不尽な残業を押しつけられても。怒るより先に、「自分が悪いんだ」と思うようにしていた。そのほうが、楽だったから。怒ったって、何も変わらない。目立つだけだ。
でも、今は。
はらわたが、煮えくり返っていた。
会ったこともない男のために。
この体を、俺に残していった男のために。
……いや。カイのためだけじゃない。
雨の夜に、一人で。誰にも知られずに。最後まで、岩にしがみついて。
それは、俺が、いつか迎えるはずだった死に方だった。終電の駅のホームで。誰もいないフロアで。いてもいなくても同じだと言われたまま、誰にも気づかれずに、消える。
カイの死に、いつか迎えるはずだった自分の死に方を重ねて、俺は、怖くて、腹が立っていたのだ。
それに気づいて、少しだけ、自分が嫌になった。それでも、腹の底の熱は、消えなかった。
「誰がやったんですか」
俺は、じいさんを見た。
「ギルさんは、知ってるんですか。誰が、カイを」
じいさんは、しばらく、黙って俺を見ていた。
その目には、いつもの、値踏みするような鋭さがなかった。
代わりに、何か、ひどく痛そうなものが浮かんでいた。
「……わからん」
じいさんは、首を振った。
「わからんから、わしは、ここに来た」
◇
じいさんは、崖の縁から離れて、近くの岩に腰を下ろした。
杖を膝の上に置き、両手を、その上に重ねる。
急に、十も歳を取ったように見えた。
「カイはな、大事な仕事をしておった」
ぽつりと、そう言った。
「村の者は、誰も知らん。ハンナも、クレアも知らん。だが、カイは、この村のために、いや、もっと大きなもののために、大事な仕事をしておった」
「……手帳に書いてあった、魔物の記録のことですか」
じいさんの目が、ちらりと俺を見た。
「そうだ」
否定しなかった。
やっぱり、この人は、手帳のことを知っている。
「その仕事のことは――」
俺が言いかけると、じいさんは、片手を上げて制した。
「今は、まだだ」
それから、まっすぐに俺を見た。
不思議だった。
この人は、俺に、何も聞かなかった。
「お前は何者だ」とも。「本当にカイなのか」とも。
盗賊の技ができないことも、合図に応えられなかったことも、目の前で消えたことも。この人は、全部、見ている。全部、わかっているはずだ。
なのに、何も聞かない。
それが、かえって、怖かった。
問いつめられたほうが、まだ楽だった。部長に「お前、何やってんだ」と怒鳴られるほうが、黙って見つめられるより、ずっと楽だったのと同じように。
「……聞かないんですか」
思わず、口に出していた。
「僕に、何も」
じいさんは、ふっと、口の端を上げた。
笑ったのかどうか、わからない顔だった。
「聞いたら、答えるのか」
俺は、何も言えなかった。
じいさんは、杖をついて、ゆっくりと立ち上がった。
「わしも、お前さんに、話さねばならんことがある」
崖のほうを、もう一度だけ振り返る。
それから、俺に背を向けて、林の道を歩き出した。
「今夜、少し話そうか」
振り返らずに、そう言った。
「二人きりでな」
◇
帰り道、俺は、一度だけ、崖のほうを振り返った。
林の木々の隙間から、切り立った岩壁の端が、少しだけ見えた。
カイ。
お前の体を、借りている。
お前の名前で呼ばれて、お前の家族にごはんを作ってもらって、お前の短剣で、ビッグボアとダイアウルフを倒した。
俺は、お前の代わりにはなれない。
でも。
お前を、こんな目に遭わせたやつのことは。
絶対に、見つけてやる。
俺は、前を向いて、じいさんの背中を追いかけた。
腰の短剣の柄を、強く握りしめながら。
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